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「駒ヶ岳遭難五十年特集」-『伊那路』を読み返して㊿

2022-09-15 23:11:53 | 地域から学ぶ

「井揚用水より頭首工用水へ-伊那市福島-」-『伊那路』を読み返して㊾より

 

 昭和38年最後(12月号)の『伊那路』は「駒ヶ岳遭難五十年特集」であった。いわゆる「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」は、大正2年に発生したもので、中箕輪高等小学校の生徒が駒ヶ岳登山中に当時は分からなかった台風に見舞われ遭難した事故である。わたしの中でこの事故のおおよそを把握したのは、やはり映画『聖職の碑』であり、原作の『聖職の碑』だった。

 この遭難事故によって赤羽校長のほか、生徒9名、同窓会員1名の11名が亡くなった。赤羽校長が教育的登山を計画したのは明治43年だったといい、翌44年に第1回の登山を行っている。したがって遭難事故は3年目に発生している。教育的登山が芽生えていただけに、憂えたのは上伊那教育会だったという。その後高山がいくら荒れても小屋さえしっかりしていれば危険は逃れられるといって小屋や登山道の整備が行われた。しばらく続いた夜間登山は昼間の登山に変更され、登山の研究がされ、現在まで学校登山が続けられているわけだ。

 上伊那教育会がまとめた「駒ヶ岳山上に於ける大惨事」は、当時の登山計画や実際の登山内容を詳細に報告している。そして「結論」の中で筆者は「今回の事が将来の登山者旅行者の参考に資すべきもの極めて多きを信ずる」と述べている。そのほか記事には「晩年に於ける赤羽校長-部下職員の見た-」は中箕輪尋常高等小学校の文責。また「遭難者略歴」では校長以外の生徒と同窓会員について触れている。

 また遭難事故に引率した清水政治さんの「駒ヶ岳山上の悲劇-死を決し生徒を背負ひたるまゝ山上に一夜を明かす-」という手記が掲載されている。岩陰で一夜を明かしたものの、寒気が甚だしく半死半生の状態。その中一人の生徒が亡くなる。張りつめていた元気もなくなり、みな落胆したという。そのような中風が静まったので急いで下山。ところが途中生徒の一人が「眩暈がする」と言うので背負って下ることに。しかし、背負っていたため先行する一行を見失うことに。先行した一行を追うこと、そのたびに冷たくなった生徒を見、さらには息絶え絶えの赤羽校長にも会ったという。その有様に捜索隊を待つことにしたという。背負っていた生徒とともに清水さんは捜索隊によって救助された。

 さらに生徒で自ら下山し助かった原高美さんの「駒ヶ岳登山の記」や、信濃毎日新聞による「有賀基広・邦美兄弟の実父文治氏の談」などが掲載されている。


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