Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“獅子”と“神楽”

2019-01-16 23:31:15 | 民俗学

 仕事でお客さんのところを訪れていて、獅子の話になった。今年5年ぶりに、大御食神社の年番がやってくるという。大御食神社の祭典は、年番の地区に祭典は任される。ちょうど5年前の祭典でお世話になった方と話していて、獅子の話となった。何より規模の大きな獅子練りを伴う祭典であることは、5年前にも触れたし、翌年も訪れて異なる年番の違いにも触れた。規模が大きいだけに、その継承は課題となる。例えば獅子の胴体は竹で編まれた籠だという。この籠は毎年年番地区が作成しており、籠を作れる人はそういないという。今年年番がやってくるという地区では、獅子の籠を編めるのは1人だけだという。編める後継者を育てなければいけないという意識は共有しているものの、なかなか後継者ができないという。

 そんな継承の話とは別に、年番がやってくるという打ち合わせの中で、新たに神楽が欲しいという話題になったという。このあたりでは「神楽」という単語はあまり耳なれないため、「神楽とは何なのだろう」と聞いてみると「獅子」だという。どこかの神楽をイメージされているのだろうが、獅子舞のことを「神楽」と称するのは北信地域のこと。それら神楽をイメージされているのかは定かではないが、いわゆる祝い事としての神楽をイメージされている。いまひとつピンとこないので、現在大御食神社で行われている獅子ではだめなのか、と聞くと、「あの獅子は悪事を働く獅子だから、祝い事にはそぐわない」と言う。このことは5年前にも4年前にも触れたことだが、大御食神社の獅子舞は「切られ」て神前に奉納される。野を荒らして住民に迷惑をかける獅子だから、悪者なのである。「獅子は善か悪か」でも触れた。とはいえ、それほど獅子を悪者だと捉えているとは、今日の会話であらためて感じたところだ。他の地域の獅子は、ほとんど善と捉えられている。そのイメージで大御食神社の獅子舞を見ていると大きな間違いなのだ。そもそも練り獅子のメッカである飯田下伊那においても、必ずしもストーリー上獅子が悪者にされている印象は少なからずある。それは「暴れる獅子をなだめる」というストーリーからうかがえる。大御食神社の獅子舞が、これら練り獅子に比較して古い時代から行われていることは知られている。とはいえ、その時代に今と同じ獅子舞であったかは微妙だが、明治以降に盛んになった下伊那地域の獅子練りがほとんど後発であることは確か。そういう意味で捉えると、それほど遠隔の地ではない駒ヶ根の地の獅子が、意識の中にまったくなかったとは言えない。ということは獅子練りの背景には、暴れる獅子をなだめる→獅子は悪さをするもの、というイメージがあったとしても不思議ではない。その初出とも言える大御食神社氏子地域での獅子の捉え方は、とりわけ獅子を悪いものと捉えていて、あえて「神楽」と口にされた背景にも、獅子とは違ったもの、という意識があったからではないだろうか。獅子=悪者、神楽=良い者、という具合に。

 なお、実際のところ大御食神社で舞われる獅子頭は、神社でのみ舞われるもので、年番地区内を舞う際には、地区それぞれの頭があるという。いわゆる練習用というもので、それも同様に「悪いもの」という意識に変わりはないという。もちろん練りに使う獅子は頭も大きく、二人立ちの獅子に使うにはそぐわないというわけだ。


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