Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

綴じる、折る

2014-09-17 23:59:29 | ひとから学ぶ

 発表資料が束になって重なっている。ばらけた状態ならまだしも重なっているととくに意識してしまうのは、綴じられた資料の隅っぽ。ようはホッチキス留めしてあればその先端の状態である。気にするような者は、そもそも几帳面な人間なのかもしれないが、わたしはけして「ずぼら」な方ではないと思う。天秤にかければきっと几帳面に傾向するだろうが、だからといってホッチキス留めした先端がまるで1枚を綴じたようにしか見えないほど揃っていなければならないなどというほど几帳面ではない。そもそも几帳面⇔ずぼらなどという反意語で括ってしまうと多くの人たちはその「どちらでもない」と答えたくなるほど落差が大きい。もちろん白⇔黒という判定なんだろうが、人間は曖昧なものだから天秤にかけるまでもない比較なのかもしれない。ある部分は几帳面であったり、ある面はずぼらであったり、という具合に。

 それでも意外なほどにこの紙を綴じる行為には人間性が現れる。ふだんは気にしていなくても、かなりずれていて「なんじゃこれ」みたいな綴じ方の資料を見ることがよくある。そして「綴じる」に引き続いての行為の「折る」ときたらなおさらさまざまだ。よくあるケースはA3用紙を綴じたあとにA4版に折った資料。積み重ねると同じ紙なのかと思うほどずれまくっている時がある。「誰が用意したの」と聞きたくなる、いいや、聞いた後に「なるほど」なんて思ってしまう経験もないことはない。そう考えているわたしは、やはりできれば綴じられた資料の端っぽは揃っていて欲しいと思う人間なのだろう。

 今でこそなくなったが、まだA4版時代になる以前は、B4版の紙にコピーしてはB5版になるように折る仕事が当たり前のようにあった。臨時に雇っいてた女の子たちの主なる仕事でもあった。ぴったり綺麗に折れる女の子は好かれたものだ。もちろん今も大版で印刷される図面のようなものは納品時には折られる。かつてほど比較されることはないが、この「折る」作業はまさに性格の現れる時である。


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