Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

迫る「音」

2014-09-16 23:55:14 | つぶやき

 「この音はもしや」、そう思いながら給湯室で湯をポットに入れる。午前6時半の会社での一時。週に1、2回のことである、そんな朝を迎えるのは。午後6時といえばすっかり暗くなったこの季節、多くの人々は「日の短くなったこと」を思い、口にするようになる。夕方といえば、まだ人々にとっては活動の時間。当たり前のように日の短さを意識するものの、朝方のことはすっかり忘れている。朝早くから仕事に勤しんでいる人たちにとってみれば、陽の上がるのも遅くなっていることは承知のことなのだが、おおよそ午前8時半ころの始業を迎える田舎の勤め人には、朝の日の短さを感じるのはまだ先のことかもしれない。

 予測通り、「この音」である持ち主は隣の事務所に通う人の靴音であった。この春以降、彼は時おりわたしが朝早く会社に出勤する際に、同じように早く顔を見せる方。いいや当初は午前6時半という時間ではなく、もう1時間ほど遅い靴音だった。その後その靴音を意識して聞いたことなど、数えるくらいだったのだが、特徴もないその音がなぜか彼のものだと最近は解るようになってしまった。そもそもこの時間帯に聞こえる音がそれほど多くはないためのことで、真昼間に聞いたらそれが彼の靴音だとは気がつかないのかもしれない。

 彼は事務所にやってくると、まず新聞を閲覧している。もうこれが日課なのである。わたしは前述したように週に1、2回のことなのだが、彼はこれが毎日の暮らしなのである。きっと単身赴任でやってこられて、朝目が覚めればこのような暮らし向きになるのは必然で、したがって当初はもう少し遅かったのものが、建物の鍵が開く時間を目指してやってくるようになったのだろう、と想像する。

 それにしても「この音」が「あれだ」と解ってしまったことに、わたしは戸惑いも抱く。もちろん「なぜこんなに早くやってくるのだろう」と思いながら、その音がしだいにわたしが建物へ入る時間に迫ってきたのがその理由である。まるで自分の世界、時間が侵されていくような、そんな思いに駆られるのである。例えば、背後から迫ってくる足音のように、それは自分のこころを揺さぶる。けしてそうでないと解っていても、「音」を意識する先に音の発生源へのこだわりが生まれるのである。


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