以前にも「橋供養塔」について3篇ほど記した。それまでこの「橋供養」なる言葉はもちろんのこと、碑が存在することさえ知らなかった。「供養」とある以上すでに無くされた「橋」を供養するものと思いがちだが、どうもそうではないようである。『日本石仏辞典』の「石橋供養」の項には次のように書かれている。
川が行政区域の境界になっている所が多いのは、昔からの村境 ・国境に基づくもので、境はさまざまの神霊や悪霊がたむろする所と考えられていた。こうした所に道路を造り、橋を架けるにはこれらの霊を供養し、鎮撫して工事の安全を祈るとともに、完成後は橋や道路の維持と、これを利用する人びとの行路安全を祈願して加護を得なければならなかった。
こうした気持ちをこめて、橋を架け替えたときや修理したときに供養を行い、造立されたのが石橋供養塔である。(後略)
「供養」の説明としてなるほどと思うのは前半のいかにも民俗学的解説部分だろうか。境界にあたるからそこにいるであろう悪霊を供養して治めるという意味だ。しかしながら、いかにもというものであって本当なのだろうか、という思いを抱く。例えば根羽村の道祖神について触れた際に開通記念に道祖神を建て、道標を兼ねて道路の安全を祈願している例をとりあげた。道も境になりうるもので、悪霊は道をたどってやってくるからこそ「道切り」などという習俗がある。しかし「道供養」などという碑にはならないわけである。ほかに「供養」という言葉を充てた同意の碑はすぐに浮かばない。ようはなぜ「橋」は「供養」なのかということである。
『あしなか』(山村民俗の会)301号にあしなか編集室が「石橋供養塔の語るもの」という記事を掲載している。埼玉県西部地域の分布を報告したもので、それによると、所沢市と入間市での分布数は51基を数えるという。とくに入間市には32基を数えるといい、その造立は江戸中期から明治後期に至る約150年の間に建てられている。さらにそのほとんどが農村地帯に建てられたというのだから、そもそも橋は何に架かっていたかという疑問が湧く。このことについて「農村部に大半が分布する石橋供養塔は、右に見た念仏講中のみならず、個人や村中の造立に拠るものなど何れもが、村人たちの農耕生活に関わるものであったといってよい。小手指ケ原は湧水に恵まれ、田畑に水を引く用水路が早くより拓かれた。砂川堀や東川などはその好例だが、やがて水路のあちこちに農作業用あるいは村人たちの往来用に不可欠な橋が架設されてゆく。初めは木橋や竹の橋が多かったが、朽ち易いため、時を経て頑丈な石橋に造り替えられた」という。ようは水利に恵まれていたこの地域には、用水路が導かれ、それを渡るために橋が必要だったというのだ。そして木橋や竹の橋では朽ち易いからといって、現代風に述べるなら、永久橋を架けたわけである。「供養塔の造立には、そうした石橋の架設までに至る村人たちの苦労が内にこめられてい」たようなのだ。ようは橋の完成を祝して建てたということになる。この構図から捉えると、用水路に架けられた橋ともなると、前述したような境にあるからその悪霊を「供養」するという意味からはかけ離れる。ようはそんな境界意識などそこには感じられないのである。かつての「橋供養塔」でもこの不可思議な碑の違和感は容易に解決できないと記した。今もってそれは変わらない。
続く
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