Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

もう一度遠山谷のこと、そして・・・

2005-12-14 08:11:48 | ひとから学ぶ
 霜月祭りに行くために赤石林道を越えた話をしたが、いろいろ考えてみると農村地帯の矛盾というか、おかしなことが見えてくる。この10月1日に合併して飯田市に編入された旧南信濃村にしても旧上村にしても、飯田市街から向かうには、飯田市松尾の天竜川弁天橋を渡り、喬木村氏乗を経て行く。三遠南信道の矢筈トンネルが開けるまでは、氏乗の奥、矢筈ダムから赤石林道へ入ったが、現在はそこにいたると、突如として現れる三遠南信道の橋脚の下をループしながら上っていき、トンネルにたどり着く。このトンネルを越えると旧上村程野の集落だ。三遠南信道で供用されている道路はまだわずかで、真っ先に完成したのがこのトンネルであった。もちろん三遠南信道は自動車専用道路であるため、有料であるはずだが、開通以来ずっと無料で通行できる。ところが、この道路がたとえば中央自動車道へ連絡されれば、明らかに有料化されるだろう。ということは、現在無料で走っている道路は有料となり、自由な行き来はできなくなる。赤石林道を再び走るとなれば、とても同じ行政区域というイメージではなくなる。いったいそうなったときのことをどう考えているのだろう。わたしが飯田市の高校に通っていたころは、同じクラスにたとえば40人いれば、3割近い人が下宿生活であった。大鹿村、天龍村、阿南町、浪合村などはもちろん、飯田市に隣接する下条村の人も下宿していた。当時下伊那郡下に20ほどの町村があったが、半分以上の町村から来る生徒は、下宿を強いられていたはずである。それくらい、郡の中央とはいえ、飯田市とは遠いところだったのである。もちろん南信濃村や上村の子どもたちも、当時は下宿があたりまえで、通勤するのも大変であった。そんなこともあり、村内に仕事がなければ、伊那山脈を越えた伊那谷側へ出て働くということが一般的で、そこへ住居を構えた。そうした条件もあるのだろう、現在のような通勤可能な状況になっても、旧村内から通勤することを避けて、飯田近辺に暮らす人は多いはずである。
 以前「村に住まない村の職員」でも触れたが、村の職員でも長野市に住んで村役場へ通うという職員がけっこういるという話をした。そうした職員に対してさまざまなプレッシャーを与えているという事実は、考えてみればあたりまえなことではあるが、そうした村も、いずれは長野市に合併するという。このごろ、その近くの町のリーダーが長野市への合併を示唆したが、その町でも同様な指導をしていた。結局合併してしまえば、そんな話などまったく滑稽な話となってしまう。しかし、よく考えてみれば、今までは行政区域が違うからと、地元に税金が落ちるためには人口を減らさない、あるいは消費は地元でといっていたのに、合併してしまえばそんなことは泡と消えてしまう。ようは努力する必要もなくなるし、ますます地域から火が消えてしまうわけである。
 以前からよく思ったことに、「なぜ通える範囲にありながら、みんな外へ行って家を建ててしまうのか」ということがあった。聞けば必ず出てくる言葉が「子どもの通学が大変だ」というものである。いとも簡単にそういう言葉を聞くが、子どもが通う期間など、人生のうちでわずかである。このごろ小学生が殺傷される事件が相次ぐが、だからといって、子どもたちがみな街へ集中してしまって本当に安全なのかとも思う。いまだに生徒が少ないからといって学校の統合問題が出ると、あそことは一緒になりたくない、などということを言う人は多い。ましてや、同じ行政区域に複式学級になってしまいそうな学校があれば、学区をオープンにしても、そうした学校へ通わせた方がよい教育ができる、という認識をなかなかもてない親たちがたくさんいることは残念でならない。

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