Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

結局、民俗学はどこへ①

2009-12-10 20:26:23 | 民俗学
 『日本の民俗』全13巻(吉川弘文館/2009/12/10発行)の締めは「民俗と民俗学」である。あまり意識したことはないのだが、この手の本が発行日以前にわたしの手に届いたのは記憶にある中では初めてのような気がする(出版年月日 2009/11/27)。それも書店に引き取りに行っているから、連絡のあったのはもう一週間ほど前のこと。そう考えると発行日とはどういう意味で決められているのか、門外のわたしには何も知らないところであるが、たまたまこの日記を書こうとした日と同じだったというところに、わたしの目が止った。そんな余談はともかくとして、今までの12巻を振り返ったものかと思ったらそうではなかった。奥付きの後ろにいつも掲げられている刊行の言葉は、昨年の6月と記されている。そして今回の終刊で組まれている内容は刊行の始まって間もないころに行われた座談会の内容を中心にしたもので、あとは資料がそのほとんどを占めている。ようはタイトルの主旨に沿ったものなのかは定かではないが、今回のシリーズを掲げた背景とその座談会の主旨がセットでこの物語は企画されたということなのだろうか。

 三つの討論を一つずつわたしなりに感想を述べてみよう。

 一つ目は「今、新たに民俗学を起こすとしたら」というものである。山口大学の湯川洋司教授の問題提議に始まり、東京大学の岩本通弥教授、大東文化大学の中野紀和准教授、映像プロデューサーの澤畑利昭氏が中心に討論を展開している。司会は安室知神奈川大学教授がつとめる。「前代から引き継いでいるものは何なのか、何が引き継がれなかったのか、そのところをはっきりさせていくことによって、人々が暮らしの中に持っている志向性、価値観というものが浮き出てくる」それが民俗学の役割ではないかと提議する湯川氏は、最後に「原点にあるのは、現実を見て、それを記録することです」と述べている。この討論会の主導権を握っているのは岩本氏である。宮本常一を取り上げ、その視点は価値あるものだという湯川氏に対して、宮本に対してどう位置づけるかが大事だと説明を請う。それは宮本の著したものが「資料的クレジットがない」(宮本自身による創作がある)といい、資料としての信憑性を岩本氏は指摘する。「現実を見て、それを記録すること」というものが民俗学の原点とすれば、その方法の中での問題に議論は向いていく。

 戦争体験者の聞き取りから見える人々の語りの変化を捉えて澤畑氏は、人を殺したことをかつてはあまり口にしなかった話者が15年後には語るようになる、ということに触れて「その時その時に自分は聞く立場であり、相手は喋る立場なのだから、とにかく喋ってもらうしかない。それを置いておくしかないわけで、それを検証するとかいうのは非常に僭越なことなんですね」と言う。語り手は同じ聞き手が相手でも違うことを口にする。どれが本当のことなのかととまどうことは聞き手にはあり、話の中から本当のことを探していくことになる。ライフヒストリーであれば、個々のものであるから、それを検証することはかなり困難なことになる。聞き手が異なればさらに語られたものは違ってくるだろうし、ライフヒストリーではない地域社会の話にもなると、まったく異なった資料が出てくるのは当然のこととなる。その中からどう資料として引き出していくかというのは、そもそも民俗学者の技術と言えるだろう。それがこの一つ目の討論では主題になっている。

 湯川氏は岩本氏の指摘に対して、宮本常一の視点は評価できるものだと言う。そもそも聞いたことを資料化していくわけであるから、その現場には語り手によっては嘘とまではいかなくても誇張されたものもあるだろう。結局語り手に何を語らしたか、そしてそこから何を聞き手は得たのか、それが眼前のものを見るということに繋がるわけで、嘘だろうが何だろうが、なぜ語り手はそれを喋ったかを聞き手は探ることになる。さらには聞き手は何を資料化したか、あるいは資料化されていないとしたら、そこから資料化できるものは何かを探っていくのだろう。しかし、100%の実証など不可能なこと。それに手間隙をかけていくのがこの道だとすれば、日々生きている民俗は膨大な課題を積み重ねてしまうだろう。

 続く

 (ここまで書いて電車は目的地に着いた。帰路に続きを、と思っていたら本を会社に忘れてきた。長くもなってきているので、ここでひとまず今日の日記を終えることにする)

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1 コメント

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雑感をば、ちょっと (山間僻地)
2010-01-12 16:38:14
新年明けましておめでとうございます。
昨年中は相手していただき、ありがとうございます。
「れきはく」が「歴史民俗博物館」ってのを、昨日知りました。ついでに、「みんぱく」が民族「学」博物館ってのも今調べました。
で、今年もよろしくお願いします。
コメントというか、ツッコミをします。

>東京大学の岩本通弥教授に関しては
http://tayatoru.blog62.fc2.com/blog-entry-227.html
こんなのがありました。

>「資料的クレジットがない」(宮本自身による創作がある)といい、資料としての信憑性を岩本氏は指摘する
★で、だから?

>結局語り手に何を語らしたか、そしてそこから何を聞き手は得たのか、それが眼前のものを見るということに繋がるわけで、嘘だろうが何だろうが、なぜ語り手はそれを喋ったかを聞き手は探ることになる。さらには聞き手は何を資料化したか、あるいは資料化されていないとしたら、そこから資料化できるものは何かを探っていくのだろう。
★で、だから?

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