Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

水掛け論

2015-05-18 23:31:41 | 農村環境

 今年もこの季節がやってきた、と思わせる光景が頭の中に焼き付いている。駅へ向かう途中の広い道の舗装上に水の流れる跡が長々と糸を引く。「糸」というよりは川のように、と言ってもよい。毎年、そして水田に水を掛けるたびに登場するこの光景を見るにつけ、水田の所有者は何とも思っていないのか、と常々思っていたこと。なによりこの水の糸は水田の所有者ではなく、その下にある住宅の駐車場から始まっている。住宅の所有者だって迷惑なはずなのに、この光景はちっとも消えてなくならない。とりわけ代掻きのために水をつけ始めたこの時期が最も目立つ。明らかにその上の水田から発している漏水だと誰しも解ることなのだが、いっこうに変わらないという事実は、周囲の無関心さもその要因かもしれない。これだけ頻繁なら、道路管理者である町に苦情を言う人でもいれば少しは変わるのだろう。漏水しても水があり余るほど流れてくるから、こんなかつてなら許されなかった光景が、当たり前のように繰り広げられる。

 

 

 「代掻きを前に」で触れた豊丘村大池原の方のひとつの水田に、ようやくかすかな水がつき始めた。とはいえ、すぐ上の水田が代掻きをした際に導水した余水が入ったからのこと。流れ出てきた水をもれなくいただこうと、この方は水路に合わせた枠をご自分で作って用意している。ひとつは雨が降ったときや、余水が流れてきた時用に、水路の底を数センチほどせき上げるように堰板を渡したもの。もうひとつは水路をすべて止めてしまうような全断面の堰板だ。後者は自分の水田に一気に水を浸けようとする際にもれなくキャッチして、必要量が入ったら堰板をはずすとともに、ここに導水されている用水路の源も止めるのだろう。この平のほかの水田を見渡してみたが、こうした細工をされている方はこの方だけだ。それだけかつての水が尊かった時代をご存知だということになるのだろう。工夫をされて流れてくる水を限りなく有効利用しようとする知恵である。

 繰り返すが、妻の(わたしも)耕作している水田は、ため池からの水をバルブを捻って水掛けをする。水が細いから、この用水を利用している人たちは、自分の水田に掛けるためにバルブを開ける傾向が強く、他の人も一緒にというわけにはなかなかいかない。ようは人が水を掛けていれば、それが終わるまで待っていなければならない。バルブから我が家の水田までの間に数枚の水田があるため、それらの水田が水掛けをしていれば我が家はまたざるを得ない。当たりえのことなのだがの、これが上流優先という現実だ。我が家が水を掛ける時は、上流側の水田の人たちには水が掛からない、掛けない、を実行しないと下流側の水田の所有者は常に下位の存在になってしまう。ところが、我が家で水掛けしても、その水はもれなくやってこない。ある人は、U字溝の継ぎ目に細工して無理に漏水するような仕掛けがしてある。ようは我が家で「水掛けしている」と明確に看板を上げていても、上流側の水田にも少しばかり水が入るというわけだ。水が細いだけに、このわずかながらの漏水量も馬鹿にならない。代掻きの時はともかくとして、その後の養い水なら、この漏水だけでも十分補充になる。これは「知恵」の中でも「悪」が冠されそうな行為である。もちろん苦情を言えるような内容ではない。したがって水路内は公なので、漏水を見つけたら漏水しないような施しをするくらいしか策はないが、知らぬ間に再び漏水は始まっている。


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