Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

考えるほどに…

2009-04-01 12:30:04 | ひとから学ぶ


 例えばの話である。ある場面で社員の悪口を言いあう。もちろんその場面には悪口を言われている当人はいない。しかし、悪口を言われている当人がだからといって会社から去るわけではない。とすればその社員の問題点として社員の中にどうその問題が連携されているかということになるが、ケースによってはそれが虐めというものになるのだろう。不思議なもので、口に出さなくとも仕方なくかあるいは仕事上と割り切って付き合いをすることは当たり前のことなのだろう。それは地域社会においても同じであって、同じ隣組内であっても「あの人は」という言葉が裏で飛んでいようと、当人を排除するようなことはない。日本人にはそういう険しい人間関係があたかも仲良く暮らしているかのように存在する。「あの人はいい人で…」という言われ方で評される敵のいない人であっても、虐げられている人は、そんな存在を妬んだりする。どれほど人のためにと思って気を使ったところで、それが意図通りにいくわけでもないし、相手伝わらない部分は多い。具体的な事例をもとにイメージ化したとしても、果たして理解してもらったのだろうか、などと後悔することもある。いっそ何もしない方が良いのかも、などと思うこともあるが、これもまた会社とか地域といった社会においてどうそれぞれの人を引き出し、そして調和をとっていくかというときにはそういうわけにもいかない。

 金で清算のつく社会は、そうした人の心の内を置き去りにして数字で置き換えてしまう。嫌なモノは嫌だと分っていても数字で置き換えれば消化できる社会が、どれほど味気ないものか、かつてなら分っていて仕方なく従順だったのに、今はもしかしたら分っていないのではと思う場面が多い。慣れてしまった社会と言えるのだろう。

 さきごろ「自然美」で触れた小枝にぶら下がっていた実。あらためて天上へ目をやるとカラマツの大木があることに気がついた。普通の松ぼっくりとは違うということは分ったが、なるほどと大木を見上げて気がついた。カラマツの松かさがこれほど美しいものとは知らなかった。あらためて周囲を観察してみると、大木だけにたくさんの松かさが落ちている。どれをとってみてもバラの花のような造形を見せる。花のように赤や黄色の色か付いていたら見事なのだろうが、枯れ果てた色は、それほど人の目を引かない。しかし枯れ果てた色であってもその造形の美しさは変わらない。検索してみると、やはりリースとして利用されることが多いようで、そうしたページがたくさん引き出される。

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