Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

自然美

2009-03-24 12:38:18 | つぶやき
 ちまたではオオイヌノフグリをはじめタンポポやホトケノザなどおおかたの春の花が咲き始め、土手の緑も濃くなってきているが、この空間に入るとなぜか相変わらず冬の色である。ちまたですっかり春色が出てきているからと思って入ってみても、こんな気持ちになる空間とはあるものだ。妻の実家の裏山からその尾根を下った洞の中まで、そこは比較的風は弱い空間である。その洞の中にあるため池は、冬場の水を満面に湛えて、溢れた水は余水吐から流れ出ている。風が弱いからきっと暖かい風景があるだろうと入ると、いつも冬の色で迎えてくれる。なかなか予想通りではない空間の一つである。せいぜい足元に咲くオオイヌノフグリの青は点々としているが、その青は目に飛び込むような青ではなく、枯れ果てた空間に紛れ込んでしまうほとで、枯葉に反射する光はより一層まぶしい。

 枯れ果てた空間は嫌いではない。折り重なるように落ち葉が敷き詰められた空間は、歩くたびに自らの足音になり、わたしのように耳の苦手な者には、ほかの音との振り分けができなくなる。しかし歩みを止めると、音のない空間に鳥のさえずりも聞こえている。冬色ではあるものの、春の音は確かにそこにある。



 つるにしがみつくように何の実なのか小枝にぶら下がっている。ほかにもたくさん吊る下がっているがどれも見事な自然美を見せる。このまま集めて歩けば立派なリースがこしらえられるほど集まりそうだ。枯れ果てた空間にこれほどの自然に造られた形を求めることができるのも楽しいものである。そう思って折り重なった落ち葉を拾い上げてみれば、たった1枚の落ち葉も見事に乾ききって形を作り上げている。足元を見つめてみると認識していなかった自然形をあらためて知ることができる。これは子ども心とも言えるかもしれないが、忙しい日々の中でも訪れたい未知な身近ではないだろうか。何もかも新しく見るような子どもの目が、わたしにも欲しい。

 今年は何もかも早いからといって、「早くしないと季節になってしまう」などとヤマツツジの様子が気になっている。昨年は一度もわたしが手を入れることはなかったが(今以上に忙しかったということなのだろうが)、裏山を眺めればススキがずいぶんと目立っている。もちろんススキばかりではなく、ツツジを妨げるような木々が伸びている。それらを昨年はすべて妻が手をかけたようだ。わたしにとっては2年ぶりの山の手入れをしながら気がついたのは、2年もたつとツツジがだいぶ成長しているということである。残念なのは花期が短いということなのだが、ほんの一瞬の美しい山の姿を楽しみに、ツツジの下草を刈るのである。白内障で見えなくなっている目でも、わたしが作業をしている姿がどことなく娘には映っているようだ。わたしから娘の姿が障害物で消えると、吠え始めることからもそれは解る。ただただ自分の納得の世界なのだが、そんなゆとりを仕事としてではなく体感できることが幸福というものだろうか。

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