Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

母親像

2009-04-02 12:34:33 | ひとから学ぶ
 車窓から西山を眺めると標高千メートルを超えるあたりから上は白くなっている。一時ずいぶんと暖かくなっていた気候は、このところずいぶんと逆戻りしたような日々が続く。そろそろと思って着用をやめたベストに、今日は袖を通していたが西山の白いものを見てそれが正しかったと気がつく。そんな光景を眺めながら、車内で出掛けに落ちてしまった袖のボタンを繕う。さすがにわたしの七つ道具のセットに、針と糸は入っていないが、実はけっこうこうした簡単な繕いをすることが多い。会社で女性に「針と糸がない?」と聞くことが年に何度かある。かつてなら「こんなのでいいかな」と女性が出してくれたものだが、最近は「ないですね」と言われることが多い。同じ質問を男性にしたことはない。これってまずいことなの?なんて貶されることもないだろうが、男性が針と糸など持っているはずもないと決め付けている。いやそのようなものを持っている人は、極めて稀だと思う。

 ところが出掛けに落としたボタンを「電車内で縫う」といって「針と糸はない?」と妻に聞く。もちろん針と糸のある場所はわたしも認識しているからこの場合は携帯用のものはないのかという質問と察知して妻は捜している。わたしの質問で正しかったのか、はたまた説明不足であったのか、さらには自らあまり考えていなかったのかは一瞬のことで解らないが、いずれにしても短い質問で出掛けの一瞬がすらっと糸が繋がったのは幸いな出来事である。その携帯のものには「ろうきん」と印字されている。きっとサービスでもらったものなのだろうが、それを見て気がつくことは、こうしたものなら男性も机のどこかに「持っていそう」ということである。

 我が家で妻が針と糸を持って縫い物をしている姿を、最近は見たことはない。まったく持つことがないことはないのだろうが、ほんの僅かなわたしが持つ程度の手仕事しかしないから、見る機会がないということだろう。しかしかつてのわたしにとっての母親とか祖母などの姿を描くと、必ず針と糸というものが登場する。母親は針仕事をするものだという姿を、子どもの記憶のどこかに持っているのである。ではなぜ現代の母親は針と糸は持たないのかということになるだろうが、着物を着ないからということもあるが、それを必要とする場面がないということになるだろう。せいぜいわたしにでもできるような繕い程度であって、例えば子どもがかぎ裂きを作ったとしてどれほどの母親がそれを補修して使わせるだろう。妻は結婚する際にミシンを購入した。家庭に必要な道具なのだろうが、使っている姿はいまだ見たことがない。無くてはならないものなのだろうが、もしかしたら無くても良いものになっている。妻の実家の縁側には、かつての足踏みのミシンが置かれている。もちろんそれを使っている姿も見たことはないが、時おりミシンを利用するような繕いを頼むと、妻は母親に御願いしている。きっとこの足踏み式のミシンが使われる時なのだろう。

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