Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

不毛な綴り

2011-10-22 23:56:29 | つぶやき

 かゆくて痒くて仕方ないと思ってもそれをやってしまうと治るものが治らない、そんなことがかつてはよくあったように思う。〝かつて〟と思うのは、最近はあまりそういう思いをしないからだ。歳を重ねてくればそういうものなのか、それとも自分の身体が特別なことをしなくなったせいなのか、はっきりはしないこと。これもまたわたしの印象程度の話であって、本当にそうなのかははっきりしない。ところがこんなことを書いていると、なぜか痒みがやってくるのは不思議だ。

 あまり意識もしていないが、〝かつて〟と違っていることが実は多くあるのかもしれない。経験の中で当たり前だと思っていることも、案外変化が起きていたりする。しかし気がついていない、そんな感じのこと。そういえばわたしが経験してきたことが人生で糧になってきたのか、と思うとそうでもない。ところがひょんなことから〝かつて〟の後輩たちに会い、会話を重ねていると、その成長に驚かされたりする。人はこんなにも変わり、成長するものなのだと。果たして自分は相手にどう受け止められているのだろうか、と心配になるのは言うまでもないこと。なぜかこのごろ〝かつて〟の仲間であったり、周囲にいた人たちに会うのに抵抗を抱くようになった。自分が歩んできた日々があまりにも不毛だと思うことが多々あるからだろうか。加えて最近の年老いた親たちをみるにつけ、自らも同じ道を歩んでいくのだという思いがちらほらし、自分の生きてきた年月、そしてこれからどれほど生きられるだろう年月を勘定する。けして不幸ではないものの、理想と思えるようなつき合いができなかったこれまでを悔やむこともないわけではない。

 なんとも優柔不断な、そして曖昧な日々であろうとも、追われて日々成果を求められている現状での第一優先は自ずと決まってしまう。そのいっぽうでどれほど自分の時間が持てるかが鍵となるのだろうが、今はその余裕さえないのが実態だ。最近は休日ほど余裕感が無いのは、日記を記す時間が持てないからだ。ふだんは電車内で書き記すことができる。その時間が持てない休日は、とても日記を記すのが苦労で仕方ない。やっとの思いで綴る今日のような叫びは、実はこのところの休日の常なのだ。また宿題を果たせなかった、と繰り返すばかり。あっと言う間に暦はめくられる。新聞屋さんが朝刊を届ける足音を聞き、焦りながら床にはいることのなんと多いことか。悩みの種は消えない・・・。


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