今回は旧伊那市内の区誌のうち、天竜川右岸地域の山寺、上荒井、西町、上島区誌といったものを取り上げる。
『区誌山寺』(区誌山寺編纂委員会 昭和44年)
ドンド焼き
書き初めといえば、子供達は二日の朝、中折紙に思い思いの腕を振るい、これを日頃親切に面倒を見で呉れる人の家へ届けたものである。届けられた大人は一応のほめ言葉をいい、紙にひねったオタルを祝ってくれた。子供もそれを予期して書き初めを配るのだが、一銭二銭の銅貨が重みもずっしりと、とても嬉しか
ったものである。常目頃は銭など使うことが全くないので財布など用がないのだが、正月ばかりは幾らかずつの自分の銭がはいるので、新聞紙を折りたたんで財布をつくって、それに収めて持ち歩いたものである。
一四日の晩は厄落としが行なわれた。厄年の者はその年じゅう自分の使った飯茶腕に年齢の数だけの銭(穴あきの一厘銭か大根の切ったもの)を入れていって、宮坂にある道祖神に投げつけ、うしろを振り返らないで家に帰る。家に帰ると門口でナンバンを焚いて魔除けとし、邪神の家へ付いて入ることを防いだ。
また一四日の朝は、一三日に搗いたオソネ(鏡餅)を大正月のオソネの上重ねと新しく取り替え、臼の上にも飾り、農具の年取りもする。
大正月の松飾りは、七草粥を供えたあと「お松送り」といって送り出す。この頃まであった内飾りの〆繩などもまとめ、一四日のセエの神に供する。セエの神は塞の神であり、子供の行事である。どんど焼きともいう。六歳の子供が子供仲間に入る最初の行事であり、一五歳の子供が子供仲間から抜けていく最後の行事でもある。
一三日の晩、子供たちはその年齢毎に仲間のうちの一軒を宿に選び、こゝで夕食を一しょにし、翌朝定められた範囲の家々の門松・〆飾を集めて歩くのである。同級生が一しょに、その晩は宿の心づくしの「さんま飯」を御馳走になって、一晩中話しながら一四日の未明を待つのである。お頭仲間の合図で〆飾りを集め、宮坂の道祖神の上手に小屋形に積みあげてどんど焼きをする。昔は大人が林から木を伐ってきて小屋掛けの心を作ってくれたという。後には木の大きさを定めて子供たちに任せたのである。立でかけた柱となる木に〆繩を掛け、これに火をつけて焼くのである。
塞の神の神様は いぢのむさい神様で
尻へとぎをくすいで
よきで掘っで掘れないで
餅で掘って掘れんで
ワァイワァイのワァイワイ
と唄い噺し、また、
塞の神の神様は いぢのむさい神様で
あの餅 この餅たべえ下って
留守にうちを焼かれた
ワァイワァイ、ワァイワイ。
などとも唄って、音をたてて燃える炎に顔を赤らめていたのである。
この時、書き初めの草紙を焼き、それが高く燃えあがると字が上手になるといってくべた。火が衰えると、そのおきで餅を焼いて食べた。虫歯にならんなどといって餅を灰ごと頬張ったものである。燃え残った木は、これを買い取ってもらって、子供仲間のたしにしたものだ。この燃え残りで味噌焚きをすると味のいい味噌ができるといって大人が買ってもくれた。或る年、定められた木より遙に太いものを伐ったため、その後は小屋掛けが止められてしまった。ずっと以前には二〇日正月後にどんど焼きが行なわれたともいわれている。
『区誌山寺続編』(『区誌山寺続編』編纂委員会 平成14年)
一五日(ドンド焼き)
七日に集めて立てた門松の「お松小屋」は、夕方から子ども達によって焼かれ、昔から子どもの行事としてあった。
この行事には六歳になるとはじめて仲間に入ることができた。そして一五歳の子どもはこの行事が最後であり、子どもの仲間から抜けて行くのである。
この行事は、地域により呼び方が違っている。下伊那から上伊那南部では「ほんやり」、上伊那のほとんどは「ドンド焼き」中には「塞の神」という場所もある。松本に近いところは「三九郎」といっている。
夕方になって焼かれるのは、古くから一日の始まりは、夕方暗くなってからであると考えられていた。したがって、神様も夕方の方が道に迷わないで、ゆっくりと帰ると考えていたと思われる。
私たちの祖先は、今住んでいる世界(この世)から、神様や仏様の住む世界(あの世)は、まったく反対の世界であると信じられていた。したがって、着物の合わせ方は左前・茶碗も欠けているのが正常と考えていた。
「年神様」は燃やす煙にのって、山の彼方へ帰られるのである。
この時、「塞の神の神様は意地むさい神様で あの餅この餅たべえ下った、留守にうちを焼かれたく ワアイワアイワァーイワイ」と唄って焼いた。
この焚き火で字を書いた習字の紙を焼いた。その焼けた「どうそじん」紙が、高く舞い上がると神様と一緒に上がったといって、字か上手になると子ども達は喜んだ。
火が衰えると「オキ」(炭火)ができた。この「オキ」(炭火)で餅を焼いて食べると虫歯にならないといいわれ、棒の先に餅を刺して焼き真っ黒くなったのを我慢して食べた。
燃えた「オキ」は、炭にして家に持っていくと縁起が良くなるといって、売って子ども仲間の経費の足しにした。
『私たちの上荒井』(上荒井町町内誌刊行委員会 平成5年)
七日、七草・ドンド焼き。七草粥を炊く。ドンド焼きは早朝から子供たちが各家の注連飾りを集めて田んぼの中で積み重ねた松や注連飾りを焼き、餅など焼いて食べます。
十四日、小正月の年取りは百姓の年取りと言って朝年取り、稲の寝るほど寝るもんだと寝正月をします。そして十四日の厄落としをしました。男二十五才、四十二才、女十九才、三十三才が厄年と言われ、十四日の夕飯をすませてから、自分の使っていた飯茶わんへ年の数だけ銭を入れて、道祖神の前に投げて厄投げをします。茶わんに入れるのに銭のかわりに大根などを輪切にして入れました。
『西町区誌八十周年記念』(西町区誌編纂委員会 昭和57年)
十四日歳 未明に木戸に魔除けに籾穀に唐からしを入れていぶす、鬼木と言いって直径一寸、長さ七寸ほどの胡桃の木の二つ割に焚落しで横線を十一本、閏年は十二本引き、大戸口、裏口、土蔵、便所等の人口に立てかけておく、鬼はその線を数え今年は十二ヶ月なのに十一本しか書いてない、おかしなあと言って何べんも数えなおしているうちに一番鶏が鳴き夜が明けてくる。さあ大変と一目散というわけ。また柳の削り懸けを入口におく(伊那郡)。
十四日歳は早い方がよいとされ早いと一年中の仕事が間に合うという。柳の箸をつかう。歳神様、恵比寿、仏様の御霊にも柳の箸をつかった。かってはこの日に物作りを書く、五穀豊穣・人馬長久・金銀沢山・万よし等と書かれた。神棚のお札も取り替えられ古いお札は紙で包み梁に上げるのであった。子供達は塞の神(セーの神)とよび、どんど焼をする「道六神と言う神さまは、馬鹿のような神様(または、いぢのむさい神様)で、出雲の国へよばれて、留守に家を焼かれた、ワァィワァィ」とはやし、繭玉や穂垂れを焼いて食べる、虫歯にならないという、書初めを此の火で上げると、手が上るといわれた。
(中略)
厄年の者は厄落しをする。夕食後自分で使っていた飯茶数へ年の数だげ銭(一文銭・一銭・最近は一円)か大根を賽の目に切ったものを、塞の神(道祖神)めがけて投けつつ眼をつむり後に向き、人にあわないように急いで帰える後を折り向くと厄が戻ってくると言う。またこのお金を拾って家に持って来ると、厄を拾ってくるという。近来は春日神社や祈祷寺(円福寺・東筑午伏寺等)で厄落しの祷願をする者が多い。男二十五歳・四十二歳、女十九歳・三十三歳を大厄といい、昭和五年頃迄親戚や友達を招待して厄落しを小正月やったものである。
『西町区百年誌』(西町区百年誌編纂委員会 平成14年)
春日町のどんど焼き
正月の行事として、七草粥、鏡開き、十四日歳など昔から行っていたものは徐々になくなりつつあるが、その中でどんど焼きは今に至るまで続いているものの一つである。
どんど焼きは、一月七日ころの日曜日の朝に行われる。正月飾りを焼いて無病息災・家内安全を祈る。
前日に小学校の児童と保護者の役員が各戸を回って正月飾りを集める。それを天竜川右岸の毛見橋上流の河川敷(バイパスができる前は天竜川の堤防の上)に集めて、保護者・児童で積み上げる。青竹の長いものを中心の骨柱にして、その周囲に持ち寄った正月飾りを積み上げて準備が終わる。
以前は各常会で別々にやっていたが、いつのころからか、第一、第二、下春日の三常会が一緒に行うようになった。
当日は、朝七時に火をつけるので、六時半ころから寒さもいとわず三々五々集まる。冬の六時半といえば夜明けごろである(日の出はおよそ六時五〇分)。役員の「これから火をつけます」の合図で点火、積み上げた正月飾りに段々に火が燃え移っていく。これを見つめる顔、顔、顔。寒いので手を火に差し伸べる人、熱くなって後退する人等々。もくもくと煙か上がり始める。火も赤々と燃える。
ある古老の話をここに紹介しよう。
「昔は書き初めをやったので、一枚は学校へ出すように、もう一枚はどんど焼き用に持ち寄った。煙と一緒にひらひらと空高く舞い上がった。高く上がるほど字が上手になる、なんて言って、自分のがどのくらい上がるかと思って見ていたもんだよ。わしらが小さいころは高等科の人たちが大将になって荒井の方までしめ飾りを取りに行った。郡役所や銀行には大きな物があるので通り町の方まで出掛けて行って、荒井とけんかになったもんだ。取って持ち帰った時は威張って帰って来た。また、他地区のものを奪いに行く人もいた。
もちを焼く時は『乞食焼き』といって燠(炭火)の中へもちを投げ込んで、黒こげになるくらい焼いて食べた」
火が下火になるころ、持ち寄ったもちを炭火で焼いて食べる。味付けは砂糖しょうゆである。昔は赤みそ・じんだ(枝豆をゆでてつぶしたもの)等を付けて食べた。
どんと焼きのもちを食べると虫歯にならないとか、風邪を引かぬとか、書き初めの燃えた紙が高く上がると宇がうまくなるといったことは、昔からどこでも言い伝えられている。
『上島ものがたり』(長野県伊那市西春近上島年輩者の会 平成24年)
セエノ神(ドンド焼き)
セエノ神は門松やシメ飾りを焚いて歳神さまを山にお送りする行事で、高学年の子どもが中心になって行いました。大人は関わらず、孫を連れたお年寄りが見に来る程度でした。
一月七日、松の内が明けると、子ども達は荷車を引いて家々をまわり、門松やシメ飾りそれに古いダルマ、お札などを集めて、伊那電鉄橋から少し下流の小黒川の川原で「セエノ神」をやりました。
何本かの門松や小黒川原で切った柳を結わえて、その周りにしめ飾りを寄せ集めました。子どものころ(昭和十年頃)せっかく組んでおいたセエノ神が、当日の朝になってみるとすっかり無くなっていたことがありました。どうも小黒の子ども達が、夜のうちに持って行ってしまったようでした。
天を焦がすように燃えさかっていた火の勢いが衰えてオキ(燠)ができると家から持ってきたお餅を焼いて食べました。この餅をたべると虫歯にならないと言われていて、黒焦げになった餅の焦げ目を手で取って、ふーふー吹きながら食べたものです。
燃えかすを家に持ち帰って屋根にほうり上げる風習があり、それでボヤを出した家がありました。
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まず山寺については昭和44年に刊行されたあと、続編が平成14年に刊行されている。前者では「ドンド焼き」と項を立てており、「セエの神」について「塞の神であり、子供の行事である」と記しており、項に「ドンド焼き」と記しながら文中では「セエの神」との表現もあり、曖昧さがうかがえる。「道祖神」については「どうそじん」に違いないようだが、囃子言葉では「塞の神」と称している。平成年代に刊行された上荒井でも「ドンド焼き」とされており、西町も同様であるが、西町では20年前にも区誌が刊行されており、そこでは「道祖神」を「塞の神」と称している。さらに「子供達は塞の神(セーの神)とよび、どんど焼をする」と統一性がない上に、囃子言葉では「道六神」が登場しており、本当のところどれが呼称なのかはっきりしない。上島では「セエノ神」としており、明確に「せいの神」の変形ではあるが「せいの神」を前面に出している初めての文献である。
以上市内の区誌や旧市町村誌を見てきたわけであるが、一般的名称として「せいの神」が存在するという認識には到達しなかったと言えよう。ただし「道祖神」を「塞の神」と称する例はかなり存在するようであり、他地域、とりわけ木曽山脈の西側地域とのかかわりをうかがわせる。これは権兵衛峠を介しての木曽谷と関係があったことによるものなのかもしれない。それと、そもそもこれら市町村史誌や区誌を記述された方が誰だったかにも注目しなければいけないと気づく。やはり上伊那地域に限らず、伊那谷における道祖神研究は、亡くなられた竹入弘元氏の影響が大きい。では竹入氏が「道祖神」や「どんど焼き」をどのように捉えていたのか、次回以降で触れていきたい。
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