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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

描かれた図から見えるもの㉟

2025-05-22 23:56:11 | 地域から学ぶ

「大正10年「上伊那郡地図」から」より
「描かれた図から見えるもの㉞」より

 

明治14年「上伊那郡図」

 

 『長野県上伊那誌』の「現代社会篇」の付図4枚のうち国土地理院の図を利用した大正10年、昭和41年のものについてここまで触れてきたが、あと2枚、明治期の図を見て「これは」と思ったことがある。これまでの図はいずれも図の上は北を示していた。ところが明治期の2枚は図の上が木曽山脈なのである。図が大きいため、ここでは一部分だけ示したが、例えば明治14年の上伊那郡図は、図の上郡外は「西筑摩郡奈良井村」と記されている。権兵衛峠より北側の西箕輪、南箕輪、中箕輪、伊那富村、三里村といったところを映している。ようは北は右側で、上は西を示す。

 

明治16年「上伊那郡図」

 

 もう一枚明治16年のものも同様で、図の上に「西筑摩郡」(現木曽郡)がある。ちなみに前回飯島村の境界が違っていることを示したが、この図では、七久保村の西側は与田切川源流を境に南側全てを「七久保村」としてしめしており、また、上片桐村も同様に烏帽子岳付近まで「上片桐村」となっている。もちろん日曽利は「大草村」(明治22年に大草村、葛島村、四徳村が合併して南向村となっており、明治16年時は大草村である)となっており、飯島村ではない。

 さて、これらの図が木曽山脈側を図の上に示していることから、これまでわたしが何度も触れてきているように、この地域では木曽山脈、いわゆる地域にとって最も高い山々を図の上に描く傾向が、ここにも見て取れると思う。そして古図に見る図の描き方を、あらためて整理してみようと思う。最近利用している「『長野県町村誌』と明治初期の村絵図」のページに掲載されている「明治初期の村絵図画像」というものがどの方向を図上と捉えているか、それこそ長野県図にして今後示してみたいと思う。なお、とりあえず上伊那郡内はどうかと探ってみると、例えば飯島村は、この図が掲載されていて、年号が記されていないものの東側に「南向村」、南側に「片桐村」があること、そして飯島村に既に本郷村と田切村が合併していることから、明治8年から明治10年代初めまでの間に描かれたものと推定する。掲載された図は左側に「駒ヶ岳」があり、表題は左を向いていることから、やはり山を図上として描いていることになる。こうした見方で、今後掲載されている図の方向を整理してみることとする。

続く


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