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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

警官殉職の碑

2015-06-24 23:25:48 | ひとから学ぶ

 『伊那路』の最新号(2015-6)に宮下明子さんが「和田峠 警官殉職事件」について書かれている。宮下さんの文を読むまでまったく気づかなかった。和田側から旧道和田峠越えの道を進むと、峠近くに茶屋(ドライブイン)がかつて点在していた。記憶ではまだ営業をしている時代に立ち寄ったこともある茶屋であるが、それよりずいぶん手前に接待茶屋と言われるかつての茶屋を整備した建物が右手にある。その脇に大きな石碑があることは、石仏などに興味を持っていたわたしは認識していたこと。しかしこういう石碑はよほど興味を惹くようなものでない限り、立ち止まって見ることもなかった。石碑の脇に平成14年に建てられた説明板があるという。

「殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑」について

 近藤谷一郎巡査は、慶応三年一〇月二〇日、新潟県北蒲原郡において近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治二二年二月四日長野県巡査を拝命し、同年三月九日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰となった。
 上田警察署丸子分署に勤務中の明治二二年八月二二日、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、当地接待地籍において、やにわに逃走した犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げた石を顔面に受けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。享年二二歳。
 犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかった住民二人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌八月二三日捜索隊によって谷川の中で発見された。
 治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年八月二二日の命日に、村民をあげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から四八年過ぎた昭和一二年、丸子警察署庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に「殉職警察官近藤谷一郎君之碑」の慰霊碑が建立された。
 慰霊祭は、例年八月二二日の命日に和田村民の手によってしめやかに開催されてきたが、昭和六三年の百回慰霊祭をもって和田村主催から和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。

平成一四年八月   
丸子警察署
和田村役場

 中仙道を歩いた紀行文を寄せているHPは数多い。そんななかから解説文を引用させてもらった。ここに記された近藤谷一郎巡査が見つかったのは、ここから旧中山道を進んだ谷川だったようで、そこにも小さな石碑が建てられているという。宮下さんの記述に興味深いものが。「旧長門町にいる伯母にこのことを聞いてみた。82歳の伯母はそらんじる(書いたものを見ないでそのとおりに言う)くらいよく覚えていた。「この辺りの学校では、修身の時間に毎年この話を学んだ」とのこと」。宮下さんも述べているが、だからこそ120年もの間慰霊祭が続けられているのだろうと。野にたたずむ石碑や石仏のほとんどが忘れ去られようとしている。そんななか、ひとりの巡査の死を悼む光景が継続されてきた事例は本当に希なことといえるだろう。

 宮下さんはもうひとつ、犯人の側に立った思いも綴っている。たかが窃盗ごときで殺人を犯し、かたや現代にまで村人に語り継がれたのに、犯人の近親者はきっと最悪な道を歩んだろう、と。どちらも人間であることに変わりはないが、人は命運を握って、ことを起こすに違いない。わたしたちは歴史上でそれを糧にしてきたはずなのに…、ことは繰り返される。


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