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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「遙北石造文化同好会」のこと 前編

2018-03-02 23:07:19 | つぶやき

「遙南石造美術同好会」のことより

 昨日触れたように、遙北石造文化同好会のことは何度か触れている。あらためて過去の資料を見てみると、当初は「遙北石造美術同好会」と冠していた。昨日も触れたように、岡山県にあった「遙南石造美術同好会」に対比した形でこの名を付した。会として発足していなかったが、中学のころから行動を共にしていた近くの友人たちと同様な活動をしていた。そして発会したのは昭和51年12月20日のこと。会報1号を発行している。発会号には伊那谷の道祖神について触れている。竹入弘元氏が調査して明らかになっていた伊那谷の道祖神の総数について触れているが、それによると、表のようになる。上伊那に「木祠」とあるがあらためてこれを見るまで認識がなかった。上下伊那の比率では上伊那が8割、下伊那が2割となる。双体像をみると下伊那の方が割合的に1割ほど高くなるのは意外な点だろうか。これが個人建立と関わるとわたしは考えている。また、単体像が上伊那で14パーセントもあるというのも特徴的なことだろう。県内の他地域では単体像というものは極めて少ない。さらに上伊那には石祠型が7パーセントあるのに対して、下伊那ではゼロであるのも特徴的と言える。そして上下伊那ともに奇石が一定量あるというのも、奇石の存在がかつては重かったとも言える。ようは文字碑の道祖神は江戸末期から明治以降に多い。したがってこれらが世に登場する以前は、明らかに奇石の占有率が高かったと言えるのではないだろうか。

 

伊那谷の道祖神一覧

 

 このように発会記念の第1号は伊那谷の道祖神について触れ、今後これらを調査していくと宣言しているものの、結果的と言えるのだろうが、その意志は今もって達成されていない。第1号には会員名簿がトップに記載されている。7名である。中学時代から親交のあった今は亡き京都市の高木さんと、富山県の幾島さん、そして沼津市の原賀さんと、県外の方3名と、同年生の4人を加えた7名だったわけだ。第2号になると新入会員を3名紹介している。やはり同年生を中心に勧誘していた姿が名簿からもうかがえる。第2号が翌1月8日、第3号が1月20日と、一月に2号を発行していて、当時はその度に新入会員を紹介している。したがって2月には会員が倍増している。そして昭和52年3月27日には親睦会と題して交流会を開催しているが、なんと東京の蒲田でそれは開催されている。東京だから長野から参加したのはわたしだけ。あとは東京近郊の方2名と沼津の方も参加され、4名ながら初めての会は東京で開催されたのである。その報告は4月5日に発行された会報8号に掲載されている。

 こうして話を展開すると立派な会のように聞こえるが、会報はガリ版刷りのもので、もちろんわたしが鉄筆で刻んだ文字だから読みにくかったのは言うまでもない。当時、親に頼んでガリ版刷りのできる印刷機を購入してもらったことで嬉しかったことを、今でもよく覚えている。しだいに会報もページ数を増やしていったが、1年もすると会員は22名を数えていた。同年生以外はすべてほとんど県外の方という、つかみどころのない会だったかもしれない。そして昭和53年に第23号を数えた時から会名を「野の仏の会」、昭和55年に第43号を発行した時から現在の「遙北石造文化同好会」と会名を改めている。

続く 

 


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