Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ため池の環境は繊細である

2006-10-16 08:16:52 | 農村環境


 10月15日、妻の実家の裏にあるため池の、年に一度の管理の日であった。何年か欠いたことはあるが、ほぼ毎年、もう10年以上この管理に携わってきた。とはいえ、お手伝いという立場から、10年も関わっていながら、なかなかそのやり方まで解っていなかったと、最近気がついているしだいである。ふたつあるため池のうち、奥にあるため池は4軒で維持している。4軒でそこそこのため池を管理していくのも、これから先を考えると大変なことなのかもしれない。何が大変かといえば、ため池の環境は毎年同じではない。しだいに土砂が流れ込んだり、あるいは腐食したものが溜まったりして、池の環境はしだいに変化していく。とくに泥が多くなってくると、その泥を処理せざるをえなくなる。しかし、いわゆる浚渫をしようにも工事をするほど土が溜まってしまっては大変だし、徐々に増えつづける泥をにらみながら、いつどう対応したものか、と思慮するわけだ。泥の様子は毎年気を使わなければならない点である。

 また、ため池に水を溜めておけば、波によって堤体の土手が削り取られる。場合によっては堤体が細ってしまって漏水の原因になったりする。コンクリートではない、土でできている以上経年変化は致し方ないわけだ。例年ため池の管理は、管理することだけが目的ではない。この日を「ツボとり」といっており、ツボ(たにし)をとることを目的としている。本来はため池管理が目的なのだが、今はツボをとることが楽しみとなっているのである。このツボを醤油で似て食べるわけで、かつては秋祭りの食卓には欠かせないものだったという。今では祭りよりあとに管理を行なうようになって、秋祭りの食卓をツボが飾ることはなくなったが、酒の肴にと、このツボをみな楽しみにしているのである。そしてツボだけではなく、モロコやウキス(メダカのこと)を採ってやはり煮て食べるのである。これがタンパク源のなかった時代の貴重な食物だったわけだ。

 さて、ため池の変化は、こうした生き物たちの環境をも変えてきている。泥が多くなると、どうしてもツボの数も減ってくる。わたしがはじめてこのため池のツボとりに参加したころにくらべれば、その数は減ってきている。それでも4軒で分けてバケツ一杯ほどのツボになったが、かつては2杯くらい分けたこともあった。まあ、みんな欲をかいて山ほど採らなくなったということもあるが、現実的に若干減少してきていることは確かだ。いずれこの泥をどう処理するかということを4軒で話し合うことになるのだろうが、奥のため池は車が入れる場所ではなく、また、こうした収穫の楽しみに変化が現れることも危惧しながらの対応となる。たかがため池なのだが、その環境変化との戦いは並大抵なことではないのである。事実、手前にあるため池は10年余前に改修し、それまでツボとりをしていたものの、改修後はツボは生息しているものの、採って食べるほどの大きさにならなくなってはしまい、もう何年もツボを採るという作業は行なわれていない。ため池と生きものの間には、微妙な関係があることを教えられているわけである。

 撮影 2006.10.15
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