Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

核武装から

2006-10-17 08:08:01 | ひとから学ぶ
 北朝鮮での核実験の問題が明らかになるとともに、「日本も核武装」なんていう言葉が該当インタビューで流れたり、ちまたでそんなことを言う政治家もいる、なんていう噂が流れていたので、いずれはそんな言葉をあからさまに言う政治家が表に出てくるだろうと予想していたら、意外にも早く中川自民党政調会長が「核武装〝大いに議論を〟」と語って、当然のごとくそれ対する批判の言葉もあがっている。非核三原則をうたっている日本が、戦争放棄どころか核までも自由な議論に載せようとしているのだから、大変なことだと思うわけだ。

 中川政調会長の語った「日本が攻められないようにするために、その選択肢として核(兵器の保有)ということも議論としてある。」という部分は国の先頭に立っている者としては、なかなか思い切った発言としか言いようがないわけだ。北朝鮮が国民がどんなに不幸になっても核を持つことが重要だと思う原点には、この中川政調会長が言葉と同じ意味を持っているに違いないわけで、核を持っていること=手を出せない、という意図があるわけだ。考えようには、明らかに武力には武力をもって抵抗する、という戦争ありきの姿が見えてくる。こんなことが通用する国だったとしたら、とても北朝鮮を批判する立場ではない。

 わたしがもっとも懸念するのは、そうした改憲も含めて核武装を肯定する世論が大きくなっていくことだ。
 「Reformers.jp」というページで核保有の是非についてアンケートをとっている。約9割の否定回答に対して1割の肯定回答がある。実はこのページに限らず、どこかのニュースでも報道されていたが、世論の流れでは現実的にこの程度の肯定者がいるようだ。かつて憲法9条を守ろうとした国民が多かったにもかかわらず、時代は改憲が当たり前という段階までやってきた。その多くは、攻められた時に何も抵抗せずにやられてよいのか・・・という論理にたどり着く。まさしくこの国の諸問題となんら変わらない。どんどん端的な、直結した理論にまとまっていく。悪は悪、そんな風潮だ。そしてその悪には武力を(その場合の武力には法整備も含む)もって抵抗する、そんな気風がある。それも致し方ない部分がある。多様になった意見は、白黒はっきりさせた対比にしか結論を出せなくなった。だから曖昧なものは必要ないのだ。核によってあれほどの被害を被ったのに、すでに核というものを利用しようとする国がそこには見え隠れするのだ。

 武力には武力を持って・・・という意見が大変強くなってきている以上、核武装を肯定する意見は増え続けるのだろう。同ページのコメントを少し読んでみても、肯定意見を寄せ集めれば、戦争肯定論になる。おそらく世界を見渡せばそんな意見は珍しいものでもないのだろう。懸念したところでどうにもならないほど、この国の民は自分本位ということになるのだろう。盛んに報道番組がそうした問題をとりあげながら、肯定論者を批判するが、否定すれば否定するほどその反対に民が向かっているように思えてきて仕方ない。


 改めて追加記事

 こういう内容のブログってけっこう多い。そしてトラックバックが来るようにそうした問題への意識もけっこうある。逆に言えば、「核武装とはなんだ」なんていう人たちは意識が低いか高いかといった二極の人たちなのかもしれない。だから、議論を交わせば交わすほどに、核武装肯定論はおそらく大きくなる。まず小さくなることはない。それを嫌がっているわけでもないが、言い換えれば「平和ボケ」といわれても仕方ない。そう考えれば核武装議論があっても良い、ということを思ってしまうのが平和ボケの国民なのかもしれない。

 しかし、被爆国というカードがなんら意味を持たない、というような意見が出る背景には、「今の世の中なんでもありで、そのための武装をするのは当たり前」という雰囲気がある。そんな風潮は、わたしには合わない。そんなにふだんの暮らしと世界事情を共有して語ることなんかできはしないし、いや、そんなことを常々考えている人たちに違和感を覚えたりする。

 考えてみれば、なし崩しばかりではない、必要あって軍備を整えてきた日本である。言葉と行動に矛盾が生まれて当然だし、それをなるべく訂正しようとする意図もあたりまえかもしれない。ただ、わたしの考えは、たとえやられてもそれが運命だと思えるくらいの意志がなくては戦争放棄も非核もありえないと思っている。力でお返ししようなんて思うのなら、常々その力を100パーセント発揮できるような訓練が必要だし、そうすればよい。だが、わたしはやられても力で返すなんていうことはちっとも考えていない。「上には上がいる」自分の力はこの程度、と認識している。それができないのなら戦争は絶対しない、という言葉は通じなくなる、そんな世の中になってきている。日本だけではない、世界の将来も、すでに見え始めている。わが社の命運と同じかな・・・。

 子どもたちに託す未来はない、なんてときに話すこともある。「子どもたちのために」なんて思っても、そんな世の中が先にあると、誰が声を大にして言えるだろう。
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