Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

草みしり

2006-06-28 08:10:02 | 民俗学
 梅雨時には草が伸びる。自然と水が供給されるから、草が伸びるのも当たり前で、1週間前に草を取ったのに、すでに取り残しの草が伸び、「来週はあそこの草を取ろう」と思っているのに、前週に取った場所に草がちらほらしていると、やる気をなくしてしまうのだ。

 ところで最近はわたしも「草取り」とか「草むしり」というが、子どものころは「草みしり」と言っていた。もちろん祖父母や父母がそう言うので、それが当たり前だと思って使っていたのである。一般的には「むしり」というのが普通なのだろうが「む」が「み」になまっているのである。『上伊那郡誌 民俗篇下』にこの「むしる」の方言地図がある。それによると、「みしる」という語彙が「むしる」と混在しながらも利用されているのは、伊那市あたりまでで、それより北部では「みしる」が使われていない。そして「むしる」をほとんど使わなくなるのが、駒ヶ根市の大田切川あたりより南になる。それでもときおり「むしる」を使う場所もあるが、ほとんどが「みしる」になるのである。

 同じように「む」が「み」に変化しているものに、藁で織った敷物のことをどう呼ぶかというもので、一般的には「むしろ」と言う。ところが、わたしの子どものころにはこれを「みしろ」といっていた。もちろん「みしる」と同様に家で使われていた言葉である。これについても『上伊那郡誌 民俗篇下』に「むしる」と見開きのページに方言地図が示されている。驚くほどに「むしる」と「むしろ」という使い方と、「みしる」と「みしろ」の使い方はセットで利用されているのである。もちろん完璧に同じではないが、ほぼ同じといってよいのである。

 そのほかの言葉も伊那市あたりから変化を始め、駒ヶ根市あたりで完全に北と南という対比の変化が終わるのである。

 〝みしる〟が気分的に合っていると思っていたわたしも、今や〝むしる〟が当然で〝みしる〟を使わなくなってしまった。けして〝みしる〟を忘れたわけではないが、いつしか標準的な言葉を誰もが使うから自ずとそれが自分にもそなわった。しかしながら、まだまだ方言は使っているはずだ。「柔い」でも触れているが、はたして方言なのかそれともそうでないのか、といったものもある。
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