Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

行政の役割とは

2006-06-19 08:04:41 | 農村環境
 合併していくことで、身近でなくなるということは田舎では何度も経験していることである。農協がそうであり、市町村行政もそうである。長野市に赴任して暮らしていて、長野市の職員と時折接したりして思うのは、より県や国のような存在にあり、身近ではないということだ。このごろ合併した旧村部の職員が、宿直がなくなったとか除雪することもなくなったと言う。職員自らも地域との接し方が薄らいでいく。地域の行政を担うのに身近でなくなったらなかなか内情は見えなくなる。簡単に言えば接しても冷たさがあり、いざとなったら逃げられそう、そんな印象がなんとなくではあるが残る。

 ある長野市近郊の役場職員は、冬季には除雪車を自ら運転し、早朝あるいは夜から除雪を始める。終わるのは午後になるという。降り続けば一日中そんな仕事が続くのだろう。もちろん除雪専用に雇われているわけではない。役場の事務を持ちながらの作業なのだ。加えて直営で土木工事もすれば、宿直日直から村のイベント行事まで、サラリーマンとは明らかに違った勤務時間である。そしてそれなりに地域からも頼られるし見られている。わたしはそんなサラリーマンと違った職責だからこそ、公務員としての保護された身分があるのだと思う。その方は「行政は小さいにこしたことはない」という。地域のためにがんばれるのは、住民の顔が常に見えているからだろう。それも高齢者率が高ければなおさら住民の頼りは行政となる。郵便局の民営化が議論される際にも、山の中に毎日やってくる郵便やさんの顔が、いかに地域に住む人たちのよりどころになっているかを解く報道も見られた。確かなる頼られる人々は、そうした公的な場にいる人たちであることに違いはないのだ。

 教員の給与が高いという意見も、結論的にはサラリーマンと比較するからそういうことになる。どれだけ自らの生活を削っても人の子に捧げているかというところを見ていないわけだ。いや、そんなサラリーマン化した教員が多くなるから、そんなもっともな意見も肯定されていく。公務員も同じで、大きな市のような職員は、まさしくサラリーマンなのだから、先の村役場の職員とは比重が全く違う。そしてそうした大きな市の職員ほど給与が高いのだから矛盾した話である。

 だからといって合併を繰り返していく今の流れが悪いともなかなかいえない。確かに小さいままにこしたことはないが、その小さな村がますます小さくなっていったら、同じ行政サービスをこなすことは不可能になる。大きな行政になっても、地域に行政がどう身近でいられるかというところを、たとえば長野市などと合併した地域は考えていたのだろうか。
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