Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度③

2006-06-29 08:13:03 | 歴史から学ぶ
 昨年飯田市に合併した下伊那郡上村は、合併したとはいうものの、標高1800メートル前後の伊那山地によって旧飯田市とは分離されている。川をさかのぼればたどり着くという地ではないのだ。だから上村を流れる上村川は遠山川に合流して、長野県境に近くまで流下して天竜川に合流する。谷筋がなくていきなり二千メートル近い山々の向こう側と合併した市町村合併は、今回の平成の大合併でも珍しいのではないか。

 初めてこの村を訪れたのは、20年ほど前だ。当時は三遠南信道の矢筈トンネルなるものはなく、「赤石林道」といわれるうねうね道をひたすら上って、峠のトンネルをくぐると、またまたひたすらうねうね道を下るという行程の末にたどり着いたのである。とはいえ、時間にしたら飯田市街から1時間程度という行程であるから、すごく遠いという地ではなかったが、知らない人が行ったら時間以上に「遠さ」を実感したに違いないし、あの「うねうね道」で疲れてしまうこと必至であった。そんな地が同じ飯田市なのだから、気分的には許せない感もある。

 パンフレットは昭和54年の正月過ぎに上村から送っていただいたものである。このイメージはのちのパンフレットの基本的スタイルにもなっていて、それほど古さを感じないが、同じ写真はもう撮影できない。こんな感じに正面に上河内岳が望めるのは、もちろん下栗の風景である。撮影された大野は、下栗の本村からさらに3キロほど奥に入る。初めて訪れたころには集落内には道路が開いていなかった。その後まもなく各家への道が開いたが、開いたのを契機に無住の家が多くなって、今は2軒ほどしか居住者はいない。A5版のパンフレットは8ページ立てである。表紙を開くと、「山神」碑がたたずむ山林の写真が見開きに展開され、「日本の原風景とは何だろう」と問うている。7ページ目に紹介される霜月祭りに代表されるように、村全体が神域ともいってよいほど独特な趣のある村である。4ページから5ページではしらびそ高原と下栗をとらえている。5ページにあるそののちも頻繁にパンフレットに利用される下栗の写真は、「高原ロッジ下栗」の下から望むもので、兎岳、聖岳、上河内岳の冠雪と背板に焚き木を背負った年寄りが石置き屋根の家へ向う風景である。

 昭和50年に印刷された上村図には、程野分校と下栗分校が載るが、すでにそれらの分校はない。また、昭和57年に印刷された上村図には、現在開通している矢筈トンネルの位置に国道152号線と書かれ随道が点線で描かれている。三遠南信道で開通しなくとも、いずれ国道の随道として開く予定だったようだ。57年というとすでに中央自動車道が開通していたが、同図に囲みで印刷されている「上村とその周辺」という100万分の1図には中央自動車道が予定線として点線で描かれている。

 合併直前のパンフレットをみながら30年近い前のものとくらべると、その内容にそれほどの変化はない。山とその生活空間を利用した観光であることに違いはないのである。飯田市から赤石林道を通過してこの村に入り、上町(かんまち)から下栗に登り40度近い耕作空間を望む。そしてしらびそ高原まで御池山の尾根をたどり、南アルプスの山々を堪能する。そして地蔵峠方面へ下り、大鹿村へ抜ける。まさしく山の空間を体感する観光といえるだろう。大鹿村へ入ってすぐの青木川の端に、中央構造線の安康の露頭があって見学できる。

 消えた村をもう一度②
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