Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ジーコと野球

2006-06-27 08:04:35 | つぶやき
 今でこそ日本もプロのサッカーリーグがあって、野球一辺倒であったスポーツの世界が、分散してきていることは確かだ。サッカーのワールドカップは、ことさら大規模で、全世界が注目する。そうした流れの中で、「全世界の誰もが、ボールひとつあればできるスポーツ」というようなことをいう。それほどメジャーなものだと言いたいのだろうが、わたしにはサッカーの競技人口が結果論として多かっただけのように思うのだ。

 先ごろ「石合戦」について触れたが、わたしの印象で言うと「ボールがあれば投げる」のが普通ではないのか、そう思うのだ。それが野球になろうがハンドボールになろうがラグビーになろうがどれでもよい。いずれにしてもサッカーは手を使わずに足だけで行なう競技だ。人間は四足の動物とことなり、手を自由に使いこなすことが特徴だ。ということは、人間らしさといえば手ではないのか、と思うのだ。とっさの時に、手を使わずに足を使うなどということはまれだ。危険を回避しようとすれば、そこで足ではなく手を出す。けんかの時に足を先に出す人はまずいないだろう。

 スポーツの種目を概観したとき、物を投げる競技というものは限られてくる。もちろん陸上の投てき種目はともかくとして、ボール競技で〝投げる〟行為が主になるものは少ない。野球がどれだけわたしたち日本人の根底にあるかは、それぞれの人が考えてみればわかることだ。この場合の野球には、ソフトボールも含む。

 さらによーく考えてみれば、サッカーはどちらかというと動物的な部分が多い。そして複雑ではない。だからこそ世界の人々に受け入れられるのかもしれないが、そこへいくと野球の類は違う。場面場面でのかけ引きは繊細なものだ。日本がまったくブラジルに歯が立たないように、サッカーには番狂わせがあまり起きない。それはいかに動物としてその動きを極めているかということになり、それが比較的に単調であるから場面ごとのスペシャリストが生まれてこないのだ。

 実はわたしは野球よりサッカーの方をよくテレビ観戦する。それは止まることがなく連続的に競われるからだ。「目を離せない」とはまさしくサッカーをいう。ところがほかのボール競技に、これほどまでに連続的なものは少ない。だから、ついついわたしもサッカーを見てしまうが、番狂わせがあって、その日の体調でいくらでも変化をもたらす野球は、繊細であって実をいうと楽しみ方があるのかもしれない。

 何度も言うが、元来「物があれば投げる」のが人間だとわたしは思う。

 ところで、〝ジーコ監督「まだ未成熟」 ドイツ紙が掲載〟というヤフーの記事がホームページにあった。「プロ意識、持続力、勝ち抜く精神力に欠けている。何よりも、まだ成熟していない。」と日韓のサッカーレベルを語ったようだ。仮にも先日まで日本代表監督をしていた人の言葉とはとても思えない。「おまえは何のために監督をしていたのだ」と言いたい。さらに記事には〝両国の国民的スポーツは野球で「今後はサッカーへ移行するだろうが、もう少し時間がかかるかも」〟とある。こんなとぼけた野郎に野球を馬鹿にされたような気がしてならない。けしてサッカーが嫌いではないが、いろいろ考えていたら世の中、ちょっとサッカーでボケているんじゃないか・・・そんなことを思うのだ。日本に根付いてきた「野球」の歴史や文化を再確認してほしいものだ。サッカーより野球の方が日本人には向いている、そう思うのだ。

PS.
 岡田武史横浜M監督が、メキシコとアルゼンチンの試合から「メキシコに学べる日本」ということを言っている。日本と同じように小柄でフィジカルもそれほど変わらないメキシコが、運動量で相手を上回って補っていたと。パスをつなぎ、できるだけコンタクトを避ける、というように、日本にもやれることはほかにあったように思われる。体格がないからとか、欧州で活躍している選手が少ないからなどといって言い訳しているとぼけた監督よりよっぽど岡田監督の方がましだということである。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****