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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

陣屋代官、という雪形

2020-05-15 23:56:35 | 自然から学ぶ

令和2年5月15日撮影

(左) 陣屋代官  (右) 稗まきじょろし

 

 雪形については毎年触れている。飯島町七久保のセブンイレブンに立ち寄ったところ、店内の一角に雪形の記事を掲載した地元新聞の記事が貼りだされていた。南駒ケ岳の雪形が紹介されていて、そこに聞きなれない雪形があった。それは「陣屋代官」というもの。2005年に刊行された『駒ヶ根市誌 自然編 1(中央アルプスの自然) 』の中に「新たな雪形を求めて」と題してこの雪形が紹介されているから、しばらく前から認知された雪形のようだ。その雪形が、今ちょうど現れている。南駒ケ岳の南斜面になるから、七久保あたりから望むと最もそれらしく見える。笠を被って、羽織を羽織っているように見えるから、飯島代官所のあった歴史に重ねたような命名であるが、笠に蓑を着ているといった方が表現では正確だろうか。ウェブ上に「蓑を着た土方」というものがアップしている。この写真の男たちにそっくりである。そのまま「蓑を着た土方」でも良いくらい。雪形のイメージに合わせるなら「蓑を着た農夫」とか「蓑坊主」でもいい感じだ。

 これまでにもこの雪形の右側に現れる「稗まきじょろし」の写真を掲載してきたが、それらに必ずこの陣屋代官も写り込んでいる。ちなみに飯島には200年近く代官所が置かれた。県内の天領といえば、飯島代官所支配地だったところが多い。

 さて、過去の雪形の写真と比べてみよう。南駒ケ岳の全景を写したものは、

2006年5月21日

2009年5月20日

2010年5月17日

2012年5月16日

これらからうかがえることは、今年は山に雪が少ないということだろうか。既に南駒ケ岳の右手(北側)の摺鉢窪カールに五人坊主がはっきりと姿を現している。上記の日程よりもここに掲載した写真は5月15日と早い。

 

 今、西駒ケ岳周辺の雪形もよく姿を現している。島田娘は最もそれらしく見える季節。駒形もそうだ。

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大日向へ

2019-11-28 23:12:29 | 自然から学ぶ

 昨日は旧佐久町、抜井川沿いに古谷ダム直下まで遡った。抜井川といえば゛「大日向村」である。この名を知らない人は少ない、いいや、今は知らない人も多いが、満州移民といえば大日向は必ず名前の出てくる地名。現在は佐久穂町となっているが、何といっても国策映画『大日向村』(1940年、東京発声映画製作所)のモデルになった地。昭和31年に旧佐久町となって、村の歴史は幕を閉じたが、昭和13年に村民の約半数を満州(吉林省)に送出し、現地に分村させ、模範的な農村として政府から賞賛されたことでよく知られる。満州移民といえば、長野県内にはさまざまな捉え方があって、近年盛んに報道されるようになったが、全国的に見ても「大日向村」を関係者で知らない人はいない。分村した満州の大日向村は、終戦とともにその地を追われ、長春に移動したものの冬の寒さと極度の食糧不足から村民の半数が犠牲になったという。帰国したものの故郷の旧大日向村に住む場所はなく、65世帯165人は昭和22年に、浅間山麓の軽井沢町に入植し「大日向」開拓を始めた。現上皇が天皇時代から何度となくこの「大日向」開拓地に足を運んでおり、上皇になられた後にも訪れている。

 そんな大日向地区の奥に古谷ダムはある。この下流域、もちろん大日向にあたるわけだが、今回の台風19号によって大きな被害を被った。なにより、その光景と古谷ダムの存在を見たとき、「なぜダムは機能しなかったのか」と思わせたのはわたしだけだろうか。そもそも古谷ダムは洪水調整目的で県が建設したもの。Wikipediaにも「抜井川は、河川の断面積が小さく、また河川改修も遅れており洪水のたびに沿岸に水害をもたらした。また、河川上には流域122.2ヘクタールにわたって広がる農地に対してかんがい用水を取水するための堰が10基存在していたが、降雨量の少ない地域であり水不足に苦慮していた。」とある。昭和57年に完成したもので、地元では古谷ダムを利用した活性化も図っていた。この水系には支流の余地川にも洪水調整のダムが建設されている。もちろんそうしたダム機能を上回る雨だったのかもしれないが、目的通りにいかなかった現実に、どの程度機能したのか疑問を抱いた。いまだ土砂が入ったままになっている家屋があって、こうした地域の今後が心配される。

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農地・農業用施設の災害復旧70年

2019-11-13 23:10:34 | 自然から学ぶ

 ある場面で利用しようと、長野県内の農地・農業用施設の災害復旧について簡単にまとめた。以下のようなものである。

 

 

 

 農地および農業用施設の災害復旧事業が制定されたのは、昭和25年。「農林水産業施設災害復旧事業費国庫補助の暫定措置に関する法律」というもので通称「暫定法」と呼ばれている。この法律は、農地・農業用施設・林業用施設・漁業施設および共同利用施設の災害復旧事業に要する費用につき、国が補助をおこない、これによって農林水産業の維持をはかり、あわせてその経営の安定に寄与することを目的としている。この法律では、暴風・洪水・高潮・地震その他異常な天然現象により被災した農地、農業用施設、林業施設、漁業施設および共同利用施設を、原形に復旧または原形に復旧することがいちじるしく困難、もしくは不適当な場合において、これに代わるべき必要な施設をするものであって、1か所の工事の費用が40万円以上で、都道府県、市町村、土地改良区等がおこなうものを対象に、その事業費の一部を補助する、となっている。 

 昭和24年(1949)から平成9年(1997)までと、平成18年から28年までの長野県の農地、農業用施設災害の被害額を現在の価値に置き換えて示したものがグラフである。これによると、被害額がもっとも大きかったのは、通称「三六災」といわれている梅雨前線豪雨災害が発生した昭和36年で、つづいて昭和58年、57年、34年の順となっている。

 実は昭和36年の前々年の34年の台風7号災害では死者65名、行方不明者6名という人的被害を被っており、同じ年にはよく知られる伊勢湾台風(15号)が上陸している。そして昭和36年の梅雨前線豪雨による災害は伊那谷の人々はご存知のとおり。なぜならば伊那谷と諏訪湖周辺で大きな被災を受けており、死者107名、行方不明者29名を数え、いまだこの災害を教訓にする話題が多いのは承知のとおり。

 この昭和36年の災害を越える災害はその後発生していないものの、やはり災害が毎年のように発生した昭和56年から58年あたりも、災害頻発時代であったと言える。昭和56年は台風15号により須坂市仁礼において宇原川で土石流が発生、10名の命が奪われた。昭和57年には台風10号による災害で、県内では4名の命が奪われ、北信では今回の台風19号と同じような地域が水没する被害が発生している。飯山市木島の千曲川支流皿川の堤防が2か所で決壊し、同地区が広い範囲で浸水しており、多くの家屋が水没。上伊那でも高遠町の藤沢川流域で大きな被災を受けた。また、昭和58年の台風18号による災害は全県で発生し、ここ40年の間では最も記憶に残る災害であった。この時、飯山市常盤で千曲川堤防が決壊し、大きな被害を被ったが、堤防が決壊したのはすでに台風が通過後の好天の下であった。この台風18号災害で最も農地・農業用施設の災害が大きかったのは下伊那地域であった。下伊那だけで3000箇所以上を数えた。

 この後も記憶に残るところでは、平成8年の7月集中豪雨で、小谷村蒲原沢で発生した土石流において、前年災の復旧工事をしていた作業員14名が亡くなるという災害があり、農地・農業用施設も大きな被害を受けた。また、平成12年9月11日~12日にかけての秋雨前線豪雨では、人的被害はなかったものの、道路、住宅、農地、林地等に多大な被害が発生。平谷村役場が水没したのはこの災害だった。こうして被害額そのものは、戦後の土地改良事業、災害復旧事業等により、農地・農業用施設の整備が順調におこなわれたため、近年は減少傾向にあるが、平成23年の長野県北部地震や、平成26年の神城断層地震のように、近年は地震災害が頻発している。

 こうしたなか発生した今回の台風19号災害は、昭和58年災害に並ぶほどの災害と言える。近年、災害発生数が減少していたため、そもそも災害発生時の対応が不慣れな地方自治体も多い。いまだ被害状況の確認中の地域があり、現段階での農地・農業用施設災害の被害額は約217億とも。時代背景が異なるため、一概に比較はできないが、被害額は同年を越える可能性もある。

 

 さて、グラフでもわかるように、昭和34、36年のあたり、昭和56~60年のあたりは災害が頻発した。そして令和元年である。頻発時代にならなければ良いが・・・。

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昭和57年台風18号災害の記憶

2019-10-14 07:55:12 | 自然から学ぶ

 

 

 あらためて昭和57年台風18号災害の新聞記事を振り返ってみた。昭和58年の前年である昭和57年は、台風18号によって全国一の被害を被った。当時もわたしは飯山市に暮らしていた。千曲川支流の樽川の堤防が決壊し、飯山市木島地区が浸水した。まだ二十歳そこそこだったわたしは、この災害復旧に携わった。信濃毎日新聞9月14日朝刊に「七百戸が水につかった飯山市木島の水害は、二十三年前の昭和三十四年とほとんど同じパターンで襲った。地元の再三の陳情にもかかわらず、堤防改修はほとんど行われていなかったという。」と記されている。

 同じ信濃毎日新聞9月19日朝刊の記事には、「もろさ露呈 合流点」の文字が踊る。いまだにその地名の記憶が残るが、当時の浸水被害は木島だけではなく、豊野町、須坂市北相ノ島、更埴市雨宮、松代温泉団地など広範だった。この「合流点」という単語は記憶に留めるべき単語と言える。実は、今回千曲川本流堤防の決壊した長野市長沼は、対岸の須坂市側から八木沢川が少し下流で、また上流で百々川が流れ込んでいる。ようは、右岸側から支流が複数合流していることから、流れは左岸側に押されるわけだ。もちろんそれだけで決壊箇所を想定できるものではないが、危険域であったことは結果論かもしれないが言えそうなのだ。

 あえて言うなら、先月千葉県を襲った台風と同じような経路をたどった。長野県が進路の左側であったのも同じだ。15号と同じだと思っていたら、進路左側で雨がたくさん降った。経験に翻弄されたのかもしれない。

 

 国土地理院より「令和元年(2019年)台風19号に関する情報」が出され、長野市の「浸水推定段彩図(速報)」が公開されている。

 

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令和元年台風19号災害

2019-10-13 16:30:00 | 自然から学ぶ

10月12日積算雨量

 

 昨日からわたしの日記のアクセスに、災害関連の記事が増加した。とりわけ多いのは「昭和58年9月29日、飯山市常盤の千曲川決壊」である。「昭和58年台風10号」関連のひとつの記事である。長野県内で大きな災害といえば、わたしの記憶の中ではこの昭和58年台風10号災害が最大だ。もちろんもう少し年代が上の人たちは、昭和36年の梅雨前線豪雨災害が最大であることは認める。しかし、現代の災害という印象で捉えると、やはり昭和58年の災害は、広範で、長野県人の記憶に大きい。ところが、その災害からすでに36年。わたしが昭和36年災を最も大きなものと認識しないのは、まだわたしにとっては記憶に留められない歳だったからだ。ようは、昭和58年災も、認識にある人は40歳以上あるいは45歳くらいにならないと印象がないだろう。ようは忘れられた災害と言ってしまっても不思議ではない。わが社でも当時の災害を、会社にいて携わった者は数えるほど。

 なぜ冒頭の記事がアクセスされているのか、もちろん台風19号の被害が報じられ始めていたので、千曲川関連の記事にアクセスされるのはわからないでもなかった。

 実は12日の豪雨は、佐久地域に集中していた。冒頭のグラフは、12日に記録されたアメダスの雨量データをまとめたものだ。北相木の400ミリという数字は驚くようなもの。おそらく昭和58年災害時の雨量より多いはずだ。同様に軽井沢や佐久、あるいは鹿数湯といった長野県東信地域の雨量がとくに多いことがわかる。いっぽう松本の雨量は150ミリ以下。けしてすくないわけではないが、昭和58年災害時に比較すると、広域的に捉えると千曲川への流入は広域的ではなかったかもしれない。当時も飯山市常磐で千曲川堤防が決壊したのは、天候が回復した早朝のことだった。飯山でたくさん雨が降ったわけではない。上流で降った雨によって浸水被害を被った。昭和58年だけではない。前年には支流樽川の堤防が決壊して、大きな浸水被害があった。どこかで堤防が切れることで、ほかの地域は「助かった」という言葉をよく耳にした。県境域を前にして、千曲川は蛇行とともに、せき止められるように狭くなる。このことも以前触れた通り、旧豊田村において、明治初期に蛇行していた千曲川をショートカットする大事業が行われている。中野市の延徳といえば水害常習地帯だった。昭和58年災においても、長野市松代など多くの千曲川沿線で水害を招いた。それによって堤防の嵩上げされたところも多い。が、全線に渡って対策が安全な対策が施されたわけではないだろう。長い間千曲川での大きな氾濫は起きなかった。しかし、あの時代の記憶をよみ起こせば、内水氾濫は当たり前の地域。そして堤防に至っても排水不能となれば、どこかで決壊する。昭和58年ころと同じことが、記憶に蘇ってくる。繰り返し日記で触れてきたことは、忘れてはならない記憶だからだ。

 

補足

 昭和57年の台風18号災害と、昭和58年台風10号災害について、当時の新聞をあらためて紐解いてみた。千曲川堤防が決壊した後者の場合、降り始めから9月29日午前零時までの雨量として、飯田275mm、諏訪212mm、松本197mm、上田176mm、軽井沢136mm、長野132mmだったという(信濃毎日新聞S58.9.29朝刊)。同じ地点の雨量を冒頭グラフの数字で比較して見ると、それぞれ48.5、72.0、134.0、143.0、314.5、132.0だった。ただしこれは12日のみの積算雨量であって、降り始めからの雨量ではない。当時の雨量より多かったのは軽井沢と長野のみではあるが、軽井沢の雨量は2倍以上。佐久地域の雨量は他の地域で降った分を補うだけの数値だったと言える。とくに昭和58年の場合は、千曲川に合流する犀川流域の雨量が多かった。しかし、今回の佐久地域での連続的雨量は、明らかに異常値を示すもので、下流域に影響を与えそうなことは容易にわかったはず。

 ちなみに昭和57年の台風18号の際は、今回浸水している豊野で同様の浸水が発生したわけであるが、9月8日から10日の3日間の雨量が軽井沢で106mmだった(信濃毎日新聞S57.9.13朝刊)。その雨量に比較すれば、短時間に比較の対象にならないほどの雨が降っている。あえていえば、当時の雨量と比較してどれほど多いかを伝える報道があって良かったのではないか。

 

参考

ふたたび台風18号

台風18号

小布施町「押切」

「ダムは必要なのか」序章②

 

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アサギマダラ2019

2019-09-30 23:51:33 | 自然から学ぶ

 

 

 アサギマダラのことも、毎年恒例のように記している。今年はやってくるのが少し遅かったようだ。休耕している畑に、フジバカマを咲かすようになって、かつてやってきていたフジバカマの花にはほとんどその姿を見なくなった。さすがに広くフジバカマが咲いているところの方が、アサギマダラも好むようだが、山際の、樹木がフジバカマを覆うような場所に増やしたのだが、アサギマダラにとっては、山際の空間は、嫌いではないようだ。見ていると山の中にその姿を隠すように飛んでいくこともしばしば。山際の方が好む、ということは昨年も記した通り。日当たりの良いところに増やしたフジバカマには、あまり飛翔する姿を見ないということも昨年触れた。今年も同様だが、天候や時間帯によっても少し様子は異なるようだ。さすがに、フジバカマは匂いを周囲に発することもあって、いろいろな虫がやってくる。今年はアカバチの姿を見る。そしてアサギマダラが留まっているとところにやってきては、アサギマダラを追い出すようにちょっかいを出す。さすがのアサギマダラも、アカバチは苦手なようだ。

 フジバカマの上を飛翔している姿をカメラに収めようとするが、なかなかうまいようにフレームに入らない。

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山の奥で

2019-04-06 23:53:30 | 自然から学ぶ

 

 これまでにもわさびの花は何度か日記で触れた。例えば「わさび畑」では、西天竜の水が供給されているエリアの段丘崖にわさび畑が多く存在する。もちろんひと目につくほど、盛んではないが、注意していればその姿を目にすることは多い。西天竜エリアでなくとも、伊那谷の段丘崖には、ときおりわさび畑を見、また段丘崖以外でも、湧水のある場所にわさびの花を見かけるとことは多い。かつて栽培されていたものか、自生しているものかははっきりしない。

 今週訪れた阿南町西條の山奥で、すでに咲いているわさびの花を見つけた。3日のことだ。標高は630メートルほどのところだが、100メートルほど斜面を下ったところの沢沿いだったから、まだまだ冬の気配が漂っていた。そんなそれほど日当たりもよくない山間の沢沿いに咲いていたわざびの花に、少し季節感のズレを感じたわけだ。ちまたでは桜が咲き始めているが、阿南ではまだ未開花といったところなのに、山奥でわさびが咲いていたので、意外に感じたのだろう。とはいえ「わさび畑」を触れた平成24年の日記は4月14日、ずっと北の南箕輪村でのこと。また、「わさびの花咲く」を記したのは平成28年の日記で4月9日、これも阿南よりは北の豊丘村滝川でのものだった。わさびの花の季節といえば、4月初頭ということになろう。100メートル沢を上った700メートルラインの山の中では、まだ冬の景色の中に、アブラチャンの花が咲いている。淡黄色の花は、春まだ葉がほとんど芽吹いていない森の中で、最初に目立って山に色を添える花のひとつだ。そして意外にその淡黄色はあちこちに点在する。

 暖冬とも言えるほど、雪も少なく、気温も温暖だったこの春、桜の咲くのは早いのだろうと思っていたら、ここにきて寒い日が続き、桜の開花は4月にずれ込んだ。もちろんここ数年下伊那地域の一本桜で触れてきたように、標高差が著しいこの地域では、一様に咲くことはなく、標高に合わせて開花はずれ込んでいく。そして阿南の地では、飯田にくらべれば、だいぶ南に位置しながら、桜の開花は遅く、また標高によって早いものもあれば、遅いものもある。

 我が家の周囲では、夜中に盛んに防霜ファンが鳴り響いている。

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“今も揺れる” 中編

2018-10-19 23:13:20 | 自然から学ぶ

“今も揺れる” 前編より

 

 慰霊碑は2014年8月11日に完成した。その高さ8.5メートルは津波の高さを表すという。慰霊碑の前には「亡き人を悼み 故郷を想う 故郷を愛する御霊よ 安らかに」と刻まれた「種の慰霊碑」があり、その左右には亡くなった方々の芳名板が建てられた。この慰霊碑の建立も、計画が二転三転したという。メモリアルパークそのものの位置選定がなかなか進まなかったことにもよるようだ。結果的に日和山に隣接する南側に建てられたわけであるが、前編で触れた石碑は、今もって日和山を背に横たわったままだ。

 慰霊碑の南側にはかまぼこ製造会社「佐々直」旧本店工場がぽつんと残っている。この建物を残すか、残さないか、これも議論になった物件。ここに慰霊碑が建てられた当時、名取市は震災遺構として保存するための調査費を、復興交付金で出すよう国に申請した建物だという。赤字で書かれた「佐々直」はとりわけ目立つ。海側の建物の陰になっていたため、流失を免れたばかりか、2階は浸水もなかったという建物。当時の格井さんのコメントには「佐々直工場は民間の建物で、亡くなった方もいる。震災遺構にするならもっと残すべき建物があるのでは」というものがある。残っていた小学校や中学校は嵩上げエリアに入るため、すべて撤去された。現在残るものはほとんどなく、「佐々直」以外では消防署くらいだという。名取市が遺構として残そうとしたこの建物も、間もなく撤去されるという。消防署も同様のようで、結果的に建物で遺構として残されるものはなくなるようだ。最後まで残ったこの「佐々直」の取り壊しについては、さまざまな意見があるようで、それを取材する東北放送の取材班が、この日もわたしたちの日和山研修の間、つきっきりで格井さんを追っていた。よそからやってきた者の意見として、この「佐々直」の撤去問題について「どう思うか」、そんな取材もされた。閖上の地が、地震後も今もって揺れていることを垣間見た。

 

 

 芳名板を前に、格井さんは犠牲者の数について触れられた。向かって右側にある芳名板には、地区ごとにお名前が記されている。そのうち閖上2丁目の方々の芳名が特別多いことに気がつく。閖上2丁目は、貞山堀より西側、ようは海より遠い位置にあった。この地区の人たちは、貞山堀を越えて津波は来ない、そう捉えていたという。「津波は来ない」と思い込んでいたわけだから、津波による避難情報があってもまったく気にはしなかったのだろう。これが多くの犠牲者を出した要因になった。むしろ貞山堀より東側の人たちの方が非難に対しては、まだ敏感だったことになる。とはいえ、それでも多くの犠牲者を出した背景には、一旦避難所に避難したものの、周囲のひとが自宅から持ってきたモノを見て、「自分も」と思って自宅に再び引き返したひとがいたからだという。貞山堀があるため、地区に入るには橋を渡らなければならない。したがって道は渋滞し、被災することに。格井さんはこんなことも口にされた。渋滞していると、みな並んでまじめに車が動くのを待っていたという。いっぽう反対車線は空いていた。当たり前のことだが、モノを取りに戻った人の中にも、助かった人はいたという。そうした人たちは、渋滞になったら反対車線を逆走して、逃れたという。どのようルートで逃れたかは、道を熟知していないとわからないことだが、ここにも津波への危険度の意識も加わっていたと思う。前編でも触れた格井さんたちの思いを綴った「命を守る基本」3ヶ条の中に、「浸水したら、移動しない。見に行かない。」は、戻ったために犠牲になった人たちからの教訓である。

 「閖上復興だより」第50号の冒頭は、今年の7月豪雨のお見舞いの言葉であったことは前編でも触れた。復興だよりなのに、全国各地に頻発する災害への「お見舞い」の言葉が絶えない。最新号である51号にも末尾に北海道東胆振地震で被災された方たちへのお見舞いの記事が掲載されている。いつ起こるかわからない自然災害への準備の必要性を、「閖上復興だより」は繰り返し唱えている。

続く

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アサギマダラ、見納め

2018-10-07 23:12:13 | 自然から学ぶ

 

 今年、最後の飛翔となるのだろうか。「稲を手で刈る」で触れたアサギマダラが、だいぶ少なくなったが、今もって我が家の畑にやってきている。このところ天候が悪かったこともあって、なかなか見ることはなかったが、天候の良い午後には、このように日陰の山沿いのフジバカマを求めて、アサギマダラはやってくる。妻に言わせると、「山に近いところを好む」のではないかと言うが、「稲を手で刈る」でも触れたように、たくさんフジバカマの生えている畑よりも、山沿いの日陰で、フジバカマの丈も短い、この畑を好んでアサギマダラはやってくる。それと狙って広けだフジバカマ畑には、ほとんど飛翔しないのだ。どういう加減があるのか、今もって理由はわからないが、断然この畑に集中している。

 いよいよ多くて3びきほど。「山へ帰る」という印象で、この日も山沿いを中心に姿を見た。今年の見納めなのだろう。

 

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続・住まう環境

2018-07-15 23:13:00 | 自然から学ぶ

住まう環境」より

 長野県内において、昭和57、58年といったころに災害が多発したことは何度も記した。わたしの長い生業人生の中でも、昭和58年は特別だった。会社の先輩たちに言わせると昭和36年の通称“サブロクサイ”と言われた災害が最も記憶に残るものだったようだが、すでにわたしが経験値として最長になっている我が社の現状の中でも、やはり昭和58年災害が最も大きなもの。その後の災害で記憶に残るものは、地域限定的で、災害発生エリアで働いていたならば「大きかった」と言えるようなもので、誰もが共通して「大きかった」とはなかなか言わない。そうした中、直近で大きな災害だったもののひとつに、平成18年7月豪雨災害がある。先ごろの西日本の災害も7月豪雨災害となったわけであるが、広範であって長野県内でも避難指示情報が発令されたほどだったが、幸いにも人命にかかわるものはもちろん、公共的な部分においても、それほど災害が多発したわけではなく、小規模なものだったと言える。

 平成18年7月豪雨では、岡谷市湊地区7名、川岸東地区1名、辰野町飯沼1名、辰野町小横川1名の死者を出した。死者10名以上という災害は数えてもそう多くはない。それら災害は山腹崩壊による土石流や崩壊による直接的災害だった。今回の西日本の災害にも同じような事例を見ている。「どこが違う」でも触れたが、今回の総雨量は、ところによって平成18年7月豪雨並の雨量を記録している。中学生の亡くなった辰野町小横川の総雨量は、当時365mmだった。また、7人の命が奪われた岡谷市湊では400mm以上を観測した。当時は上伊那エリアにおいて、400mm以上を記録したところが多かった。そしてその通り、上伊那では災害が多発したのだ。災害後、わたしがたびたび現場に入った伊那市西春近でも434mmを記録している。今回の豪雨とこのときの経験値からわかることは、400mm以上の累積雨量は危険域とも捉えられる。

 平成18年からすでに10年以上を経過している。昭和57、58年ころは毎年大きな災害が発生していて、とりわけ千曲川流域では浸水被害が繰り返された。長野県は急峻な山を背後に置いているため、西日本とは比較にならないほど、災害リスクは高いと考えられる。住む場所として「住まう環境」でも記したように、「ここで良いのか」と思うような場所に家を構えている人たちも少なくない。したがって「どこが違う」で記したように、同じ情報の中でも差異が明らかに住民にはわかる。今回の災害でも、細かい情報が必要ではなかったかという声を聞く。たとえば全域避難指示となった場合、どこへ避難をするのか。そもそも全域とはどういう意味なのか、それほど全域危険域なのか、そうした情報を丁寧に説明するべきではないだろうか。さもなければ、「全域」という発令方法は考えるべき。やたら避難情報が連発されると、住民の危険意識は下がるばかりなのだ。

 わたしの暮らしている土地も、地面を掘ると平べったい石が東に向かって重なるように埋没していることがある。これは大昔、西山が崩れて流れ出した土砂が埋まったものとも言われ、西から東に流れたため、東に向かって重なっている。山裾からは数百メール離れているから実感はわかないが、災害に想定外はないと言えそう。とはいえ、要因があるから発生するものであって、自らの住んでいる場所がどういうリスクを負っているのか、どういう状況だと災害を被るのか、自ら認識しなければならないこと。とりわけわたしは、新たに住まう場所を選択する際に、断層上、あるいは浸水エリアは回避した。

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住まう環境

2018-07-13 23:21:30 | 自然から学ぶ

 少し前の、妻の実家の集落での話だ。本家と別家はすぐ近くに暮らしている。本家の息子が隣に別棟の新居を構えるということになって、本家の水田を潰して建てることになった。ところがその水田の横にある別掲にとっては、それほど敷地が広くないため、隣に家を建てられると風通しはもちろんのこと、日差しも遮られかねない。なるべく敷地境界から離れて建てて欲しかったところが、本家は敷地ぎりぎりに新居を建てた。よって陽のあたる側に2階建ての建物が出来上がってしまい、鬱陶しいことは言うまでもない。「家を建てる」場合、最初に建てた家は、「ここが良い」と建てたものの、周囲にあとから建てた家によって、それまでの視線に変化が起こってしまい、残念な結果になることはよくあること。先<後という計算式は、さまざまな事象に当てはまる。

 昔ほどではないが、家を建てる場所には制約がある。かつては農地を優先したから、必ずしも住環境を重視しないこともあった。水が必要だから段丘崖のような、水出ずる場所は、最初に住み着いたところ。あるいは沢沿いの日陰地に家を建てることも、当たり前のようにあった。日陰地に建てた家に、旧家が建てられているのも、何らかの意図があってのこと。しかし、現代の立地条件からみれば、「なぜここに…」と思うことはたびたびある。わたしが通勤途上、たまに通る道がある。伊那市内でちょっとした買い物をしたあとに通るこの道は、段丘崖から段丘上に上る、沢沿いの道である。段丘崖をV次型に掘りこんだような沢沿いの道は、大きなものから、小さなものまで様々だが、背後地、いわゆる流域の大きさに比例して異なる。いずれにしても沢沿いであるから日陰地であり、小さな沢沿い空間は、ほとんど平らな土地はなく、北側の比較的陽当りの良い場所に建てられた家々も、冬季間ともなれば、1日の陽のあたる時間はわずか。まさに「よく住んでいる」と思っても不思議ではない。始めてこの道を通った30年ほど前にくらべると、明らかに家屋の数は減り、無住と思われる家も見られる。条件不利地ならではの光景だ。かつてはこうした場所に、軒並みの家が建てられた背景に何があったかは詮索していないが、視点を変えれば、沢沿いで氾濫でも起きれば被災しそうな環境。増水だけではなく、背後地は段丘崖を掘りこんだ傾斜地であり、崩壊を起こしても不思議ではない。

 自家がどういう立地にあるか、新たに家を造る際には考えることだろう。先ごろの豪雨ではないが、低地に建てれば、自ずと浸水というリスクを負う。堤防があれば安全などと安易に思っているとは言わないが、堤防の高さは確率で決められている。100年とか200年に1回という洪水を想定している。河川の規模によってその確率は異なり、小さな河川はその確率年が低下する。「想定外」の洪水が発生すれば、当然堤防を超えるわけで、河川沿いに住まう人々は、誰しも持っていなければいけない警戒感だ。海沿いの津波と同じようなもの。

 最近近在の川を見ていて気になることがある。先ごろの小田川の決壊。場所は3K400左岸と、6K400左岸である。両者とも小田川の支流が合流した直下、そして前者は橋の下流側、後者は橋の上流側である。長野県内のこれまでの堤防決壊事例を見たとき、橋の上流側ということはよくある。要因として橋に流木などが押し寄せて、橋が起因して堤防を決壊させるというもの。しかし、川幅の狭い県内の事例と、平地である岡山都では条件が異なる。したがって比例したことは言えないが、決壊地点の映像が流されて気になったのは、堤外地に樹木が鬱蒼としていること。高水敷は通常水が流れないため、整備が進むほどに樹木化する。同じことはわたしの周囲でも起きていて、かつては真っ白い石ゴロゴロだった河川が、今は樹木化に向かって緑一色になりつつある。河川内の樹木を関するなどということは役所しかできることではなく、そもそも管理する意図は特定在来生物に対してあっても、通常の樹木化に対してはないだろう。この景観差は、かつての光景を知っている者として、落差は大きい。今や洪水によって守られてきた自然環境は消滅しつつある。あまりの緑化の姿を見ていて、危惧するところが少なからずあるのだが、これでよいものか。

続く

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月見草2018

2018-07-10 23:38:54 | 自然から学ぶ

 

 月見草のことは、このところ毎年扱っている。月見草とはいっても“宵待ち草”(オオマツヨイグサ)のこと。妻が大事にしてきたたくさんの月見草の株が生えている。そこそこそれと気がつくようになると、草刈の際に気を使う。何といっても少し傷つけるだけで枯れてしまうほど、意外に弱い花だ。ちょっとした外圧によっても倒れてしまう。毎年同じあたりに咲き始めるが、必ずしもまったく同じ場所ではない。保全していることもあって、最近は転作している畦から法面にかけてたくさん丈の長い月見草の姿を見せる。周辺の人たちは、我が家の土手を見てなんと思うだろう。草刈を終えても、やけに丈の長い草が目立つ。「これで刈ったのか、と思うほど、土手の光景はブザマなもの。そんな月見草が、夕方になると見事な黄色い花を咲かせる季節になった。次から次へと花が咲いていくから、意外と花期は長い。たくさんの月見草の中に身を置くと、暗くなりだすと開花の音がすごい。自然の中に身を置いていると実感できる時だ。

 

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降霜

2018-04-21 23:25:35 | 自然から学ぶ

西方を望んで撮ったもの

 

伊那山地側を望んで撮ったもの、先週は賑わいでいたヤマザクラも、今は葉桜に・・・

 

 「すでにイワツツジ開花」からもう2週間ほど。あのイワツツジはすでに落下盛んではあるが、まだ遠目にみればそれなりに紫色の花を里山に見せてくれている。比較的花期が長引いたのは、咲き始めた以降寒い日が続すでにいたからだろうか。あれ以来毎日のように霜注意報が発表された。霜注意報は「早霜、晩霜などによって、農作物に著しい被害が予想される場合。 」を言う。基準は同じかというとそうでもなく、長野県内では「早霜・晩霜期に最低気温 2℃以下」が予想される場合に発表される。関東などでは2°ではなく4°のところが多い。「早霜・晩霜期」であるから、一定の時期が設定されているのだろうが、正確な時期は示されていない。

 実際のところ、イワツツジが咲いて以降、霜が降りた日が何日かあるが、いわゆる冬前の「霜が降りた」と実感する際の霜ほど強いものではなく、見た目では降りたかどうかわからない程度でも降りている場合が多い。すでにイワツツジが咲く前にタラの芽が出て、引き続いてウドなど山菜が一気に顔を出すが、我が家ではとりわけそうした山菜の先が茶色く枯れたようになるのを見て「今日は霜が降りた」と実感するところ。自宅のある周囲は、かつて果樹園だったこともあり、防霜ファンが立ち並んでいたものだが、伐採されるとともに防霜ファンの姿も減っていった。住み始めた頃は、この時期になると毎夜防霜ファンが回っていたものだが、最近は遠くで回っている音が聞こえる程度で、それほど気にならなくなった。

 ということで、エリアも広いこともあって、2週間余咲いていた今年のイワツツジ間もなく終了である。写真は1週間前の4月15日に撮影したもの。イワツツジの株間にもワラビが出始め、また株間に伸びたコシアブラも最盛期を迎えた。

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すでにイワツツジ開花

2018-04-08 23:39:06 | 自然から学ぶ

正面は鬼面山

 

 あれほど暖かかった陽気が、すっかり冬に後戻りしたように。明朝は霜が降りるのではないかと、有線放送が盛んに注意するように呼びかけている。実際のところ霜が降りれば、かろうじて残っていた桜の花もお終いとなろう。今年の桜は、余裕なくその時期を終えてしまう。お花見らしい気分はまったくなく…。

 今年も妻の実家の裏山の山作業に3月は従事した。妻が介護で明け暮れていた昨年は、ほぼわたしひとりでその作業を終えたが、今年は妻の手が空いて、わたしの方が手を掛けた日数は断然少なかった。その山に早くもイワツツジが咲き始めた。ちらほらどころか全面に開花した株が展開していて、満開になるのは週明けになるのだろうか。この寒さがどう影響するか。そんなイワツツジの開花は、昨年は4月20日ころ。今年は10日以上早い。そしてそのイワツツジの咲く一帯から山に入ると、すでにコシアブラが顔を見せ始めている。コシアブラが顔を見せ始めているということは、もうタラの芽が食べごろになっている。山菜の旬も、もちろん早まっているというわけだ。日当たりの良い場所ではウドもずいぶん大きくなっていて、ワラビも食べごろの大きさに顔を出し始めた。一気にすべてがやってきている。

 そんな光景の中、山作業で刈った下草を今日は山から運び出したわけだが、午後2時ころには雪降りとなった。一時的ではあったが、雪が上がると、伊那山地の最高峰である鬼面山(きめんざん1890m)の頭は白くなっていた。さすがに夕方になると、頂きの雪は目立たなくなっていた。

 初物のタラの芽、そしてウドを口にした。初物はあくが少なく、新鮮さは格別。大好物であるが、妻にはあまり食べないように、とくぎを刺されている。

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アサギマダラ2017

2017-10-01 23:02:46 | 自然から学ぶ

フジバカマの上にはいろいろな生き物が飛んでいる

 

 ここ数年毎年のように触れている“アサギマダラ”。もちろん今年もやってきている。“アサギマダラ2016”で触れたように、昨年は新たに山際の畑にフジバカマを植えた。昨年はまだ丈が短かったフジバカマも、今年は背丈ほど伸び、先ごろの台風のせいか、背が高くて倒れ気味のフジバカマも少なくない。そんな山際のフジバカマにたくさんのアサギマダラがやってきている。昨年は多い時で7匹のアサギマダラが舞っていたと妻は言った。だがわたしが実際に同時に確認できたのは4匹ほど。積極的にフジバカマを広けだことで飛翔数が増えた感じだが、びっくりするほどではなかった。

 ところが今年は違う。山際のフジバカマを植えた畑には、数え切れないほどのアサギマダラがやってきている。飛び交っているので正確には数は数えられないが、視界には同時に10匹ほど確認できるときもあり、反対側に行くとやはりそこそこの個体が見られるうえに、我が家の周囲には点在してフジバカマが咲いているからおおよそ20匹余はやってきているだろうか。今年は妻がさらに耕作放棄していた畑にフジバカマを広げた。時期が遅かったので、今年は丈が短い上に花の咲くのも遅かった。おそらく来年はそのフジバカマが大きくなって花を咲かせるだろうから、さらに多くのアサギマダラがやってきてくれるかもしれない、そういう期待が膨らむ。株の数に比例してアサギマダラの飛翔数は確実に増える感じだ。

 たくさん飛んでいるので“乱舞”を表現したいとカメラを構えるものの、広いエリアのあちこちで思い思いに飛んでいるアサギマダラを、それらしく撮ることは簡単ではない。うまく撮れないだろうかとカメラを構え出して、結局1時間余もああだ、こうだ、と時を無駄にしてしまった。それほど魅力的な舞ということなのだが、それをここで表現することはできない。昨日、“ツボ採り”を終えたあとの昼時のことであった。

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