Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

田植えの季節に

2010-05-17 12:34:31 | 農村環境

 母の日に顔を見に行けなかったこともあって、昨日遅れて生家を訪れた。今年は減反のローテーションの関係で7割ほどが転作ということもあって、田植えの手は足りるという。7割減反しても妻の実家の田植えをする面積より広い。先週新潟の水田地帯を見てその広さ平らさをかみ締めてきたわけであるが、それにくらべたら十分傾斜地の生家の水田も、妻の実家のあたりにくらべればその比ではない。伊那市近辺ではロータリーに付けた専用の機械で畦を塗るが、このあたりではほとんどそういうことはしない。理由は昭和50年代に行ったほ場整備のお陰とも言える。もちろん幅の広い畦だから実際の耕作面積がその分少なくなっているが、この時代にあってはいかに手がかからないかが大きな比重となる。そういう意味ではいかにほ場整備が今の農家を助けているかという証明とも言える。失ったものも多いのだろうが、得たものも大きい。わたし的にはそれが必ずしも農村のトータルな意味で“為”になったかは少なからず不明な点もあるが、現代の農村にとってどうあるべきかということ、そして手の掛かる仕事を避けたいという省力化の主旨からいけばその手間を例えば安全な作物を作るために掛けたり、多様な思いに掛けられるということはメリットであるに違いない。そこにいけば妻が毎日やっている農業とは?と問われることになるのだろう。この落差は容易には埋められない。

  父の姉とはわたしのアルバイト先で一緒に働いた。一緒という表現は少し違うかもしれない。わたしを雇ってもらっていた主と言った方が正しいかもしれない。女手でローダーを操って大きな石をダンプに積み込んだり自らダンプを運転もしていた。その働きぶりを現代人にはトレースできない。父の姉だからすでに80歳をとっくに過ぎているがわたしの記憶にはあの時代のおばさんの姿は焼きついていて、今も同じことをしているんだろうと錯覚さえする。考えてみれば自分がすでに当時より30年も歳をとっているのだからそんなことはありえないのに…。嫁いできた現代人は、そんな働きまくっていた戦後の人たちの姿をどれほど見ているだろう。この落差が嫁と姑というかつての関係をもっと大きくしてすでに両者には関係すらなくなっている。あるとしたら介護と被介護という厄介な関係だけだろうか。愚痴るくらいならまだしも、現代の家庭は関係を断ち切ろうともする風が吹いていて、あまりにも課題が多い。多くが農家だったわたしと同世代の人々はそんな姿を親に見ていただろうに、なぜか現代人はそんなことは忘れている。仕方のないことではあるが、あらためて古き時代の仕事を垣間見るとその“すごさ”がよみがえってくる。 

 父と母が居間で静かにお茶を飲んでいた。田植えは今も父が主体で、兄や孫が鉄だろう。宅地に隣接した一反ほどある畑は、草取りも出来なくなった母の手はなく、父が全てを担う。“エライ”の発端はやはりという感じに草取りである。歳をとると腰をかがめていることはつらいもの。マメトラで空いているところは起こせば良いが、そうではないところは手でむしるしかない。こうした苦労はほとんど年寄りの仕事。整然とした水田地帯でも手のかかるものは同じなのである。それを避けようと思えば、新潟で見た除草剤の景色となる。

 帰り道にある本郷のため池に久しぶりに寄った。まだ工事がされていないがまもなくこのため池は手が加えられるはず。土手の上にあるタンポポを見るとほとんどニホンタンポポである。やはり手が入っていない空間はかつての植生がよく残っている。ということは少しでも手が入るときっとこの光景はなくなるのかもしれない。たかがタンポポなのだが、惜しい気分にもなる。今年は山に雪が多いという印象を持っているが、ここから南駒ケ岳を望んだものを昨年の雪形と比較してみると若干の違い程度に思う。いや、この若干の違いが大きい違いなのかもしれないが…。土手には気付かないほど小さなフデリンドウが咲いていた。周りの雑草の葉の方がはるかに大きいことからその小ささはよくわかる。

参考に「雪形」


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