3/10にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムは下野竜也指揮で、前半が三善晃のアン・ソワ・ロアンタン《遠き我ながらに》とチョーリャン・リンのヴァイオリン独奏によるバーンスタインのセレナーデ、後半が伊福部昭の倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスクとバーンスタインの「ウエストサイド物語」からシンフォニックダンスです。2月の定期は18日にあったんですが、引越疲れで「こりゃ行っても爆睡するなぁ」と思って、3/14の池袋での名曲シリーズに振り替えました。読売日響の場合、定期会員だと当日に電話するだけで他の人に席を譲ったり、近い時期の別のコンサートに振り替えたりできるんでとても便利です。ということで今週は2回コンサートに行くことになったんで、ブログはあっさり片付けましょう。
三善晃の作品はスコアが60段もある大規模なもので、実際画板のような譜面台が用意されていましたが、音楽の内実は大したことはありません。ちょっと前の「現代音楽」で、「よく西欧の音楽をお勉強しましたね」って感じのものです。霞か霧がもやもや~んとしたような出だしから、2回ほど早くなっていくんですが、そこがストラヴィンスキーやバルトークっぽいから苦笑せざるをえません。自治体の公共施設のロビーに飾ってあるやたらでかい抽象画みたいと言えばイメージがわくでしょうか。
次のバーンスタインのセレナーデはプラトンの「シュンポシオン(饗宴)」を元にした曲で、アリストパネスやソクラテスなどの愛についての演説を5楽章の協奏曲に仕立て上げたものです。というと哲学的な内容だとか、同性愛的な傾向だとかが表れているってことになりそうですが、そうは聞こえません。アリストパネスの第2楽章はユーモラスで、アガトンの第4楽章は悲壮っていう程度で、プラトンの作品はきっかけに過ぎないでしょう。ウエストサイド・ストーリーの音楽よりはずっとマジメ(少なくともこの日の演奏はそう感じました)なものですが、とはいえユダヤっぽい交響曲ほどでもないという中途半端な印象でした。管楽器がなく、弦、ハープと多数の打楽器というオケ編成で舞台の中間がぽっかり開いているのも妙な感じで、内容もバロック協奏曲と現代的な響きが併存したようなものでした。
後半はゴジラの伊福部からですが、まあ大規模なオケで演奏するお祭りのお囃子みたいなもので、なんにもむずかしいところのない音楽です。その意味で彼は三善よりも長く残る可能性があると思いました。ブーレスクなんて言わなくても彼の音楽はユーモアが自然と漂うわけで、あんまりしつこくおっきな音が出るから最後には笑えます。でも、和太鼓が途中から入るところや和声を細かく変化させているところとかは意外と理知的で、破綻なくまとめられているところはオートマティズムみたいな感じすらします。わざわざ倭太鼓と表記したことで、「火の鳥・ヤマト篇」みたいな、いつのどこだかわからない古代風なあやしさは出ていたように思います。
これを聴いているうちに今日のプログラムのテーマは、日本人作曲家とバーンスタインによる前半は芸術性、後半は大衆性みたいなことかなって思いました。ついでに言うと下野の指揮は見かけによらず客観的(日本で指揮をする以上は必然かもしれませんが)ですから(大ざっぱな意味で)芸術性の高い曲は向いていないというか、何を言いたいかわからないとりとめのないものになりやすい感じです。であれば無理しないで大衆的な音楽を中心にやればよさそうですが、これまた日本でそんなことばかりしてるとまずいんでしょうね。
最後のシンフォニックダンスは更に大編成で、ドラムス、ピアノ、ビブラフォン、マリンバ、ハープ、ギロ、マラカスなどなどのほか、指パッチンや「マンボ!」という掛け声が入ります。たくさんの楽器を登場させてもそれを十分に使いこなし、絶妙の音の重なりをつくり出していて、単なるミュージカルの器楽演奏版ではありません。器用でサービス精神旺盛なバーンスタインならではの音楽で、下野のキャラにも合ったのか演奏もうまく表現していましたが、どちらかというと楽しくなるというよりはこのオケの技術に感心する方が勝っていたようです。"Somewhere"でのピアノが硬いのが甘いムードに水を注して残念でしたが、フィナーレのミュートの掛かった金管はかすれ声で愛を歌いながら死んでいくヒロインを巧みに表わしていました。
三善晃の作品はスコアが60段もある大規模なもので、実際画板のような譜面台が用意されていましたが、音楽の内実は大したことはありません。ちょっと前の「現代音楽」で、「よく西欧の音楽をお勉強しましたね」って感じのものです。霞か霧がもやもや~んとしたような出だしから、2回ほど早くなっていくんですが、そこがストラヴィンスキーやバルトークっぽいから苦笑せざるをえません。自治体の公共施設のロビーに飾ってあるやたらでかい抽象画みたいと言えばイメージがわくでしょうか。
次のバーンスタインのセレナーデはプラトンの「シュンポシオン(饗宴)」を元にした曲で、アリストパネスやソクラテスなどの愛についての演説を5楽章の協奏曲に仕立て上げたものです。というと哲学的な内容だとか、同性愛的な傾向だとかが表れているってことになりそうですが、そうは聞こえません。アリストパネスの第2楽章はユーモラスで、アガトンの第4楽章は悲壮っていう程度で、プラトンの作品はきっかけに過ぎないでしょう。ウエストサイド・ストーリーの音楽よりはずっとマジメ(少なくともこの日の演奏はそう感じました)なものですが、とはいえユダヤっぽい交響曲ほどでもないという中途半端な印象でした。管楽器がなく、弦、ハープと多数の打楽器というオケ編成で舞台の中間がぽっかり開いているのも妙な感じで、内容もバロック協奏曲と現代的な響きが併存したようなものでした。
後半はゴジラの伊福部からですが、まあ大規模なオケで演奏するお祭りのお囃子みたいなもので、なんにもむずかしいところのない音楽です。その意味で彼は三善よりも長く残る可能性があると思いました。ブーレスクなんて言わなくても彼の音楽はユーモアが自然と漂うわけで、あんまりしつこくおっきな音が出るから最後には笑えます。でも、和太鼓が途中から入るところや和声を細かく変化させているところとかは意外と理知的で、破綻なくまとめられているところはオートマティズムみたいな感じすらします。わざわざ倭太鼓と表記したことで、「火の鳥・ヤマト篇」みたいな、いつのどこだかわからない古代風なあやしさは出ていたように思います。
これを聴いているうちに今日のプログラムのテーマは、日本人作曲家とバーンスタインによる前半は芸術性、後半は大衆性みたいなことかなって思いました。ついでに言うと下野の指揮は見かけによらず客観的(日本で指揮をする以上は必然かもしれませんが)ですから(大ざっぱな意味で)芸術性の高い曲は向いていないというか、何を言いたいかわからないとりとめのないものになりやすい感じです。であれば無理しないで大衆的な音楽を中心にやればよさそうですが、これまた日本でそんなことばかりしてるとまずいんでしょうね。
最後のシンフォニックダンスは更に大編成で、ドラムス、ピアノ、ビブラフォン、マリンバ、ハープ、ギロ、マラカスなどなどのほか、指パッチンや「マンボ!」という掛け声が入ります。たくさんの楽器を登場させてもそれを十分に使いこなし、絶妙の音の重なりをつくり出していて、単なるミュージカルの器楽演奏版ではありません。器用でサービス精神旺盛なバーンスタインならではの音楽で、下野のキャラにも合ったのか演奏もうまく表現していましたが、どちらかというと楽しくなるというよりはこのオケの技術に感心する方が勝っていたようです。"Somewhere"でのピアノが硬いのが甘いムードに水を注して残念でしたが、フィナーレのミュートの掛かった金管はかすれ声で愛を歌いながら死んでいくヒロインを巧みに表わしていました。
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なんかいろんなものがあるサイトです。
なんかいろいろしゃべります。
なかなか辛辣な評価ですが、この作曲家に関わらず独創性と技術移植という意味で、否定出来ない芸術文化論議ですね。
逆にバーンスタインと伊福部が同じプログラムにのるのも面白い試みかもしれません。
間違い探しなら三善ですか?その代わりに入れるとすれば誰の曲でしょうかね?
「ポピュラー文化コンサート」もなかなか粋な選曲が難しいかもしれません。
シンフォニックダンスはきっと知ってるけど演奏会用はまた別バージョンなのですね、お腹に響きそう。
伊福部さんの曲は、楽譜を作る勉強のために(この文章のとは別の曲ですが)スコアとしばらくつき合いましたけど、譜面づらからもパワーあふれる、いい意味での泥くささ、という感じが伝わってきて印象に残っています。
最近の現代曲(といってもあまり聴いているわけでもありませんが)はけっこうポップな感じのものが多いように思います。少なくともバリバリの12音主義やセリー主義とかってあんまり流行らないような。。
伊福部さんは意図的に土俗性を出しているんでしょうね。それが作品の生命力につながってるかどうかは別としても、日本人にはめずらしいユーモア漂うものになっているのは確かでしょう。