小津安二郎の映画は題名もストーリーも互いによく似ていると言われます。特に今回の「秋日和」(1960年)についてはそういう感が深いですね。秋という文字の入ったタイトルだけで、「麦秋」(1951年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)とある中で、もっともひねりがないですし、話の内容も未亡人の母親が心配で嫁に行く決心がつかない娘を中心に、亡父の友人3人が母親と娘の両方の縁談を画策した結果、結局は娘は結婚するものの、母親は孤独に残されるという、親子関係を描き続けた戦後の作品の典型的なパターンといった感じです。
では、この作品がおもしろくない平凡なものなのかと言うと、私はとても好きです。このブログを初めて間もない頃(3/16)、「東京物語」を採り上げましたが、違った意味で名匠の余裕を感じます。通常は娘と父親(東京物語の場合は嫁と舅)という関係が軸なので、エレクトラ・コンプレックス的な気配が漂うのですが、その点がこの作品では母親と娘なのであまり強い感情は呼ばず、そのためかえってコメディとして機能しやすくなっていると思います。友人役の佐分利信、中村伸郎、北竜二の会話はとてもおもしろく、大人の無邪気な駆け引きといった趣があります。特に佐分利信は東大出の丸の内の商社の重役という役柄がぴったりしていて、今はこういう役を演じられるような風格のある人がいないような気がしますし、何よりこんな昼間からゆっくりうな重をご馳走したりするような紳士自体が現実にもいなくなってしまったのかも知れません。
そのように考えると、とても母親には見えない若い原節子と娘の司葉子が中心の物語というよりは、それを見守る佐分利信の視点から映画が組み立てられているような気がします。それに対して、岡田茉莉子演じる娘の同僚が会社にとっちめに来るところから実家の場末の寿司屋にそれと知らせずに連れて行くところは、この作品に鮮やかな破調を作り出していて何度見てもおもしろいものです。岡田茉莉子は初期の小津作品に多く出演した岡田時彦の遺児で、彼女が生まれてまもなく死去したため、フィルムを通して父親に会うことができると語っているそうですが、であればこそ思う存分、ヴェテランの名優たちを相手につけつけ言いたい放題言っていえて、それでいてどこかユーモアがあって、若々しい魅力を感じさせてくれます。
戦後の小津作品には多くの食べ物が出てきますが、戦時中に不自由した反動ででもあるかのように大体はカロリーの高いものです。冒頭の法事の場面からビフテキだのトンカツだのの話が出てきますし、先ほどのうなぎ屋で佐分利信は母と娘と別々にご馳走し、母娘はトンカツ屋でビールを飲んで、娘はいったんは断りながら交際を始めた佐田啓二とラーメンを食べています。寿司屋で注文されるものもハマグリだの赤貝だの何やら意味深なものです。
さて、この作品に限りませんが、非常に似たような何気ない場面が少しずつ変化しながら登場します。例えば司葉子と岡田茉莉子が会社の屋上から、新婚旅行に行く友人を見ようと湘南電車(当時の新婚旅行ってそうだったんですね)を見る場面では、手前に都電が走り、更に手前に中央郵便局の郵便車がたくさん見えます。その場面が何回も登場し、最後には司葉子がいなくなって岡田茉莉子は渡辺文雄と並んで見ます。つまり友人の結婚=退社が、司自身に及ぶという時間の経過が変わらない風景によって強調されているのです。
こうしたテクニックはあちこちに使われていますが、最も強い印象を与えるのは最初と最後の方に出てくる高橋とよがやっている料亭でしょう。法事の後と結婚式の後に清澄橋の優雅なシルエットが出て、料亭の廊下の絵に水の反映がゆらいでいるショットがあって宴席の場面になるのですが、これが時間の経過を表すとともに、法事と結婚式という正反対のものが結びつけられます。この額縁のような構造があるからこそ、結尾の原節子の孤独が際立つという効果を挙げています。彼女を訪れた(見舞ったと言ってもいいでしょう)岡田茉莉子の「おばさまが元気そうで安心したわ」という台詞が残酷にさえ思えます。
蛇足ですが、2年後の遺作「秋刀魚の味」でヒロインを演じる岩下志麻が佐分利信の秘書役で出ています。姿勢がよく気品がありますが、注意していないとわからないでしょう。
大いに笑わせてくれるコメディでもありました。
映画公開の3年前にできた東京タワーが最初のカットですが、今で言えば六本木ヒルズを出したようなものでしょう。そういう高度経済成長が始まっていたわけで、たぶん当時としてもああいう余裕はだんだん失われ始めていたのではないかと感じます。
やもめの北竜二のかゆいところにはメンソレータムでも塗っとくんだなっていう中村伸郎の台詞は秀逸で、本当にかゆいのかなって感じの北竜二の人の良さそうな大学教授も好きです。
その彼が岡田茉莉子におだてられ、いいようにおごらされるのが何ともおかしいですね。
つまらない世間話をしつつも、そこから大人の男の余裕が感じられるなんていいなぁ。「古き良き時代」と言うと陳腐過ぎる表現ですが、今はとにかく文化も生活も、子供・若者中心といったような感じですものね。
小津監督のサイレント時代の作品はキートンみたいなギャグ映画が多いですから、こうしたコメディは自信と余裕があったのでしょう。
「間違い探しの絵」みたいな感じで、時間の経過を見せるのは小津監督の発見だったと思います(仮に先行例があったとしても)。
今の文化が若い人中心だというのは、全く同感です。作り手の問題もありますが、それ以上に大人が大人になりきっていないことも含めて、年取った連中が文化を生み出すような中身をもっていないことが最大の問題だと思います。