4/12の日曜日に池袋の東京芸術劇場で行われた読売日響のマチネーシリーズに行って来た。本来なら7日の定期演奏会に行くところだが、下野竜也の指揮を見る精神的状態ではなかったので、振り替えたのだ。
指揮はシルヴァン・カンブルランで、モーツァルトの劇場支配人序曲、ベートーヴェンの交響曲第4番、第5番というシンプルなプログラムだった。この方が疲れた心にはいいのかもしれないと思ったのだ。
以前にも書いたが、このホールは音が硬くて、3階席だと変な聞こえ方をする場所もある。当日も3階の前の方の左隅だったけれど、音自体はそれほど悪くなく、細部がはっきりと聞こえた。
演奏はさほど言うべきことはない。モーツァルトが意外なほど重厚な音がしたことがプログラム上の工夫だったのかもしれない。第4番は第1楽章で音の溶け合いがちょっと汚かったこと、第3楽章が少しもたれたことなどがあったけれど、肉付きのいい美人のような印象で悪くなかった。
第5番は第2楽章の木管の聞かせどころで、かえって弱体ぶりをさらけ出してしまったが、ベートーヴェンが新しいシンフォニーの構成方法を思う存分に駆使していく様がよくわかる演奏だった。それは彼がほとんど独力で創り出したものなのだ。そう考えると音楽はどこにあるのかと問うてみたくなる。もちろんこうやって鳴り響いている間だけ存在するのだ。楽譜の中にある、CDの中にあると思う者は愚かである。
ベートーヴェンがどこにいるのかと問うても同じことである。見慣れた肖像画や伝記やウィーンにいっぱいある彼の住んだ家なんかにはいない。音楽が演奏されている間、それを我々が聴いている間にだけ存在する。ほんの短い間だけ現れ、消える。でも、それは誠実な演奏家さえいればいつでも、いつまでも可能だ。だって、全身で彼は音楽の中に自分を投げ込んだから。……そう思うといつものことながら自分の不甲斐なさを感じずにはいられない。
カンブルランの指揮はスマートなものではなく、まるで日本人指揮者のようだった。ぼくが席を立った後で、アンコールをやっていたようだが、そこまで同化することもないと思う。
指揮はシルヴァン・カンブルランで、モーツァルトの劇場支配人序曲、ベートーヴェンの交響曲第4番、第5番というシンプルなプログラムだった。この方が疲れた心にはいいのかもしれないと思ったのだ。
以前にも書いたが、このホールは音が硬くて、3階席だと変な聞こえ方をする場所もある。当日も3階の前の方の左隅だったけれど、音自体はそれほど悪くなく、細部がはっきりと聞こえた。
演奏はさほど言うべきことはない。モーツァルトが意外なほど重厚な音がしたことがプログラム上の工夫だったのかもしれない。第4番は第1楽章で音の溶け合いがちょっと汚かったこと、第3楽章が少しもたれたことなどがあったけれど、肉付きのいい美人のような印象で悪くなかった。
第5番は第2楽章の木管の聞かせどころで、かえって弱体ぶりをさらけ出してしまったが、ベートーヴェンが新しいシンフォニーの構成方法を思う存分に駆使していく様がよくわかる演奏だった。それは彼がほとんど独力で創り出したものなのだ。そう考えると音楽はどこにあるのかと問うてみたくなる。もちろんこうやって鳴り響いている間だけ存在するのだ。楽譜の中にある、CDの中にあると思う者は愚かである。
ベートーヴェンがどこにいるのかと問うても同じことである。見慣れた肖像画や伝記やウィーンにいっぱいある彼の住んだ家なんかにはいない。音楽が演奏されている間、それを我々が聴いている間にだけ存在する。ほんの短い間だけ現れ、消える。でも、それは誠実な演奏家さえいればいつでも、いつまでも可能だ。だって、全身で彼は音楽の中に自分を投げ込んだから。……そう思うといつものことながら自分の不甲斐なさを感じずにはいられない。
カンブルランの指揮はスマートなものではなく、まるで日本人指揮者のようだった。ぼくが席を立った後で、アンコールをやっていたようだが、そこまで同化することもないと思う。
音楽は時として本当に心にしみ込んできますね、ライブだと尚のこと。