
〔手紙055〕
慶応三年二月十六日 三吉慎蔵あて
坂本龍馬
此頃出崎の土佐参政後藤庄次郎(象二郎)近頃の人物ニて候。
内御見置可レ被レ成候も、よろしからんと存じ、さし出し候
龍
慎老台
おうち様まで御頼申置
慎蔵先生 左右
龍馬
追白、此頃も相不レ変御いそがしきよしにて候。
御出かけなどハ、御無用、其内又参上候。弟拝首。
此十日助太夫方まで帰り申候。
折柄、満珠艦出帆の時にて、同人にも吉太夫ニも御目にかゝらず。
○此度ハ又家内のおき所にこまりしより、勢止お得ず同行したり。
此儀ハ飯田在番(ママ)ヘハ耳に入置たり。
御聞置可レ被レ遣候。
○長崎の勢ハ一向常ニ変りたる事なし。
○其内、土佐国の勢がよ程なおり、
長崎ニ出たる参政後藤庄次(ママ)郎共、
小弟に面会、十分議論致したりしに、
大ニおもしろき勢、
当年七八月の頃ニハ、土佐も立なおりて、
昔日の長薩土となりハすまいかと相楽ミ申候。
○長崎ニて会津の家老神保修理に面会。
会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり。
其時小弟ハ土佐人高坂龍次郎と申て出かけ、
色々おかしき談ありしが、変りたる事なし。
十六日
龍馬
〔手紙056〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慶応三年二月二十二日 三吉慎蔵あて
坂本龍馬
近時新聞
○薩州大山格之助廿日関ニ来ル。
則面会。此人築(ママ)前ニ渡リ本国ニ帰ル。
其筑前ニ渡る故ハ此度、
朝廷より三条卿を初メ五卿を御帰京の事被二仰出一候よし、
此儀ニ依而の事なり。
○先日井上聞(馨)太が京師より下りし時の船ニて、
西郷吉(吉之助)ハ帰国致セし。
此故ハ薩侯御上京の儀を以て下りし。
○此頃幕ニも大ニおれ合、
薩州にこび候事甚しく、
然レども将軍ハよ程の憤発にて、
平常に異り候事共おゝく、ゆだん不レ成と申合候。
○薩の周旋此頃よ程行ハレ、
先ニ御引込ニ相成候、廿四卿の御寃罪も相解ケ、
築(ママ)前の三条卿ハ御帰京の上ハ、
天子の御補佐とならさせられ候よし、
此儀ハ小松、西郷など決して見込ある事のよし。
然レバ先ヅ天下の大幸ともいうべきか、可レ楽(たのしむべし)。
○此頃将軍ハ海軍を大ニひらかんとて、
米国へ大軍艦一艘船人ともに借入候よし。
五ヶ年ニて八十万金程費と申事のよし。
幕、原一之進が咄し致し候よし。
以上五条
二月廿二日 認
龍馬
慎蔵先生
足下
〔手紙065〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慶応三年五月五日 三吉慎蔵あて
坂本龍馬
此度の御志の程、士官の者共に申聞候所、
一同なんだ(涙)おはらい難レ有がりおり申候。再拝ヾ。
拝啓。
昨日御申聞被レ遣候事共、実に生前一大幸、
言語を以て不レ可レ謝(やすべからざる)御事ニ御座候。
然ニ先日此地を上方に発る時ニ福田扇馬殿、
印藤猪、荻野隣、羽仁常諸兄御出崎被レ成、
土人(土佐藩士)の名を以御修行被レ成(なされ)度御事ニ付、
御やく束仕候所、
不レ計(はからず)此度の危難、
又此度も上件の諸兄に御面会仕候所、
諸君皆云、何分出崎の志が達度(たつしたし)との御事ナリ。
夫で小弟が曰ク、
私し出崎の上ハ此度の紀土の論がどふかた付申かも不レ被レ計(はかられず)、
故に小弟が命も又不レ被レ計、
されども国を開らくの道ハ、
戦するものハ戦ひ、
修行するものは修行し、
商法ハ商法で名(めいめい)かへり見ずやらねバ相不レ成事故、
小弟出崎の上ハ諸生の稽古致す所だけハしておき候まゝ、
御稽古ハでき候べしと申けれバ、
諸君云、万一の時ハどふなりても宜しく候間との御事ニ候間、
御聞取可レ被レ遣候。
猶、御考可レ被レ遣候。
私は諸君の出崎、
戦国のさまハ此よふなものでもあろふかと存候てずいぶんおもしろふ存候。
別ニ申上候事在レ之候。
梶山鼎介兄是ハ去年頃よりも御出崎の御事、
小弟も御咄し合致し在レ之候。
此人の論ハ兼而(かねて)通常人の形斗(かたちばかり)西洋を学ぶ所でハこれなく、
ほんとふに彼が学文道にいり、
其上是非を論じ申度との御論、
いやしくも論ぜざる所、
小弟ニハ誠におもしろく奉レ存候。
上件四人の兄たち御出しニ相成れバ、
此人も御出わどふであろふと、
私よりも希ふ所ニて御座候。稽拝首。
五月五日
龍馬
三慎大兄
三吉慎蔵様
左右
直柔