
菊池寛著『二千六百年史抄』
目次
序
神武天皇の御創業
皇威の海外発展と支那文化の伝来
氏族制度と祭政一致
聖徳太子と中大兄皇子
奈良時代の文化と仏教
平安時代
院政と武士の擡頭
鎌倉幕府と元寇
建武中興
吉野時代
足利時代と海外発展
戦国時代
信長、秀吉、家康
鎖国
江戸幕府の構成
尊皇思想の勃興
国学の興隆
江戸幕府の衰亡
勤皇思想の勃興
勤皇志士と薩長同盟
明治維新と国体観念
廃藩置県と征韓論
立憲政治
日露戦争以後
鎖 国
秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮を討つためではなくて、大明国(だいみんこく)を征するのが目的であつた。
そして、この半島出兵は、結局失敗に終つたが、
当時の日本は、民族的にも国家的にも、このくらゐエネルギーが横溢してゐて、
倭寇以来の大陸進出の風潮が、国家的に発現したのだ。
然し、この旺盛な海外発展の本能も、徳川氏の鎖国政策によって萎縮したのである。
秀吉は、聚楽第(じゆらくだい)の造営や大仏殿の建立、大坂、伏見の築城、朝鮮出兵と、
華美(はで)好きに任せて莫大な費用を使つたやうに見えてゐて、少しも金には困らなかった。
大坂城が陥るまで、秀吉が蓄(たくは)へ置いた金銀は、家康を怖れさせたといふのである。
家康は、あれほど質素倹約を旨とし、金銀の貯蓄に努めながら、
彼の死後40年で早くも財政の窮乏に苦しんでゐるのである。
だから、秀吉の天下は、制度や法令の力ではなくて、財政の力で支へられてゐたと言へる。
しかも、その有力なる財源は、外国貿易に依つたのである。
それを、江戸幕府は、何故に鎖国したか。表面の理由は、キリスト教〔註〕が口実になってはゐるが、
事実は、海外からの活気ある自由な商業資本主義的風潮が、
土地と農民を経済的基礎とする封建制度を侵蝕すると信じたからである。
徳川封建政府を維持して行くためには、日本を永久に農業的鎖国にしておく必要があったのである。
鎖国令の実施は、寛永10年(1633年)が第一回で、13年(1636年)、16年(1639年)と、三段階に分れ、
次第に厳重になつてゐる。
以後、日本の造船術は、全然後退してしまったし、
日本人の頭には、鎖国は祖法であり、国是であるといふ観念が成長し、
外国人と交ることを、極度に怖れるやうになったのである。
そして、日本民族が得意とする、他国文化の吸収同化作用は、一切止んでしまった。
だから、鎖国以後は、固有の文化は発達したが、何となく不具的で盆栽的で、活気のない、
いはゆる島国性を感じさせるやうなものとなったのである。
しかも、江戸時代に、日本の人口が殆んど増減しなかった理由は、50年毎に襲った大饑饉のためで、
鎖国令が国外からの食糧輸入を遮断してゐるから、饑饉になると、
今なほ古老が語るやうな悲惨な状態を現出したのである。
もし、鎖国令といふ桎梏(しつこく)を受けないで、
日本民族の進取の本能に任せて海外発展が続けられてゐたなら、2、3世紀前、
すでに南洋一帯は我が版図になつてゐて、
今ごろは日本は、東洋の平和、世界の平和のために、有力な役割を果すことが出来ただらう。
いかにも残念なことである。
維新後、日本は再び開国して、世界文化に追ひ付かうとして焦った。
その焦躁は今日に於ても、欧米の模倣や、模倣から生ずる種々の社会風俗問題などとなつて露呈してゐる。
一たい、我々の祖先は、他を蕪雑(ぶざつ)に模倣するには、あまりに高い文化的感性の持続を伝承してゐた。
それは大陸文明の輸入時代に建立された法隆寺が、大陸の原物よりは建築学的にも美術的にも、はるかに優れてゐるといふ事実を見ても明らかである。
この高い文化的感性の伝統と、天才的な吸収同化力とが、弱まつたことも、鎖国が与へた大害の一つである。
しかし、300年前の西欧の文明は、それほど高いものではなかったから、
日本は、まるきり300年、西洋から後れたといふのではない。
我々の血の中に、祖先の天才的な力を目覚まして、鎖国が生んだハンディキャップを克服し、邁進して行くべきである。
〔註〕
足利義輝の天文18年(1549年)、
イスパニヤ人フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に来て、我が国に初めてキリスト教を伝へた。
当時、異国の風物が珍らしいのと、乱世の為め、国民は不安に戦(おのゝ)いてゐたので、
神の愛を説くキリスト教は、吉利支丹(キリシタン)宗或ひは天主教と云はれて、非常な勢ひで信者を獲得した。
ザヴィエルが薩摩に教会を建てゝから2年ばかりの間に、九州や山口などで、5000人程の信者が出来た。
信長は、本願寺の勢力を制する為めと、外国の新知識、文物を入れる為めに、吉利支丹宗を保護した。
秀吉も、信長の方針を踏襲して、宣教師を保護し、キリスト教の伝道を放任した。
「日本西教史」によると、秀吉は宣教師の一人に向つて、
殿中の侍女のうちキリスト教を信ずる者は操行端正である、
キリスト教の宗規がもっと寛大であれば、自分も信者になると言ったと伝へてゐる。
従って、諸大名の間にも、キリスト教の信者が多くなり、
九州の大友・有馬・大村などはローマ法王に使節を出すと云ふ熱心さであった。
高山右近、石田三成、小西行長、黒田孝高、細川忠興(たゞおき)、
その夫人なども、有名なキリスト教信者である。
ところが、大村純忠が財政に苦しんで、宣教師に金を借りて長崎を奪はれたことから、
天正15年(1587年)、秀吉は、ポルトガルの宣教師を追ひ払った。
慶長元年には、イスパニヤが領土を狙つてゐるとの疑ひから、
吉利支丹(キリシタン)を禁じ、宣教師や信者を殺したが、
家康は、又、初期の間、貿易の利益を得る為めに、吉利支丹(キリシタン)を黙認した。
その結果、九州・畿内の各地に、教会・ミッションスクールが出来、
ラテン語、ポルトガル語、地理、文学、西洋音楽などが伝へられた。
が、幾何(いくばく)もなく、宣教師はキリスト教を伝道して日本を侵略する下心ありとして、
家康は、慶長17年(1589年)、天下に令して、キリスト教を厳禁し、
外国宣教師をことごとく海外に追放した。
然し、外国商人が裏面で布教し、国内のキリスト教信者の反抗も意外に強かったので、
3代将軍家光は、数度にわたって、外国商船の往来を禁じ、
遂に、寛永16年(紀元2299年、西暦1639年)7月、
オランダ人と支那人を除く他の外国人との貿易を一切禁止したのである。
江戸幕府の構成
徳川家康は、秀吉の死後15年も待ってゐたが、
余命が幾ばくもないことを覚つて、遂に秀吉の子秀頼を大坂城に攻滅(こうめつ)した。
百年間も戦乱の舞台にされてゐた社会の全体は、戦争には厭き/\してゐたから、
家康が立てた江戸幕府は、その徳性はともかくとして、
天下安定の重鎮としては大磐石(だいばんじやく)であったから、
平和に飢ゑてゐた人心は、これに帰して行ったのである。
江戸幕府の政策に一貫してゐる精神は、善政も悪政もない。
自存であり自衛であって、徹頭徹尾徳川本位である。
家康は、頼朝の鎌倉幕府の組織に傾倒したが、単なる模倣はしなかった。
旧制度の研究に熱心ではあったが、法制道楽ではなかった。
彼は時代に順応して巧みにこれを参酌した。
彼は天才的な立法者であり、巧妙な運用者であった。
だから家康が立てた政治の根本方策は、
「神君(しんくん)が定め置かれた通り」に自動的に適用されて、
代を経るに従って、どこまでも巧緻精妙化されて行く力を内蔵してゐたのである。
家康は、鎌倉幕府や室町幕府の政策の跡に鑑みて、
皇室に対し奉って十七箇条の公家諸法度(くげしよはつと)を制定し、陽には尊崇して陰には圧迫した。
天皇に専ら花鳥風月の学問を御奨めし、天下に行ふべき経世有用の学は、それとなく御止めしてゐるが如きである。
その他、皇室に対しては、色々誠意を欠いてゐる。
諸大名に対しては、私(ひそか)に婚姻するを禁じ、築城や無届の修築を禁止するなど、
十三箇条の武家諸法度を厳に励行させた。
福島正則の家や、加藤清正の家は、この法度に触れて断絶した。
江戸幕府の制度は、外面は最も地方分権的体裁を示してゐるが、
内面は最も精緻な中央集権制で、自領内では行政権、警察権をもってゐる百万石の大名も、
幕府の一片の命令で蟄居(ちつきょ)、国替(くにがへ)、減石、断絶せしめられるので、
その何れも今の内閣が地方官の変更任免を奏請するよりも、まだ容易であった。
かうして、幕府は諸大名が臣事するも支持しないも問題でない。
自身の財力と兵力とで絶対的に服従させたのである。
これは、家康が手本とした頼朝さへも、企て及ばないところであつた。
江戸幕府の制度が整備したのは、3代の家光の時代で、その職制は、幕府の重職に大老、老中、若年寄の三役があり、その下に三奉行がある。
大老は一人で、諸役の上にあつて大事を総裁した。
これは適当な人物がなければ、闕(か)いたまゝであった。
老中は年寄とも云ひ、譜代の5、6万石から10万石の大名を任じ、一切の政務を執り、大名の取締を掌(つかさど)った。
定員は5人である。若年寄は、老中の見習のやうなもので、旗本の取締りをした。
定員は6人で、5、6万石の譜代大名が任ぜられた。三奉行は、寺社、勘定、江戸町奉行の各奉行である。
大目附、目附は、それ/″\老中、若年寄の耳目となって諸大名及び旗本を監掌した。
何れも旗本の士を任じたのである。
側用人は、初めは将軍に近侍して老中へ取次役をしてゐたのであるが、
後には五代綱吉の時の柳沢吉保のやうに、政事に参与して、権勢を振った。
やはり大名を任じたのである。
地方行政機関としては、幕府直轄領に郡代または代官を置いた。
特に京都には所司代を置いて、朝廷守護の名の下に、公家及び畿内以西の大名を監視させたのである。
なほ、大坂と駿府には城代を置き、その下に町奉行を置いた。
この外、奈良、伏見、山田、日光と、金銀山の佐渡、貿易港の長崎、堺、下田等にも奉行を置いたのである。
大名の取締りは最も重要問題だが、
徳川氏の一族たる親藩と、関ヶ原役以前から家臣であつた譜代と、関ヶ原までは徳川の朋輩であった外様とを、
大小親疎に従って、その領土を犬牙錯綜させて配置し、牽制の妙を極めたのである。
又、参覲(さんきん)交替は、信長、秀吉の時にも、安土や大坂に諸大名が邸を置いて滞留したことがあつたが、
家光の時代に制定したものは、全大名の大がかりな定期点呼であり、人質制度でもあった。
この参覲交替は、諸大名の財政難や地方の疲弊など、いろ/\な弊害も生んではゐるが、
国内要路の発達とか、貨幣制度及び流通組織の急速な発展、地方産業の振興、都市の繁栄、
中央文化の地方伝播など良い意味での副作用をも起してゐるのである。
又、徳川幕府は、頻々として諸大名の移封を行ったが、
それは鎌倉、室町の時代のやうに、諸大名を同じ領地に定着させては、
中に財政家がゐて民心を得、富強を致す者ができては、
江戸幕府が危いからであった。
尊皇思想の勃興
家康、秀忠、家光と、江戸幕府三代の将軍は、
朝幕問題、諸大名問題、切支丹(キリシタン)問題、外国との通商問題、その他法制、経済、教化などに腐心してゐたが、
彼等は幕府の政権の永続化を図る以外、何等高遠の理想を持つてゐなかつた。
そのために、日本の民族的発展の機運を阻害した点が甚だ少くないのである。
その上、織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、皇室に対する純粋な敬意を持つてゐたが、
徳川氏はそれを継承せず、徳川家康にしろ秀忠にしろ、皇室に対して、終始政略的であり、
江戸幕府の朝廷に対する態度は、国史を読む者にとつて、痛憤を感ぜしむる点が、甚だ多いのである。
後水尾(ごみづのを)天皇の
葦原やしげらばしげれおのがまゝ
とても道ある世とは思はず
の御製に依つても、幕府の横暴が察せられるのである。
然し、天下の政権を握った徳川家康が、治国の道徳的基礎として、従来の戦国武士道を、学問に依って、
新らしい君臣道徳に体系づけようとしたことは、やがて天下の武士に、君臣の大義名分を知らせることに役立った。
彼等は自分と主君との名分を知ると共に、主君と将軍との名分を知り、
それと同時に将軍と朝廷との間に、より一層大なる名分の存在することに気がついたのである。
幕府の学問奨励に依って輩出した江戸時代初期の大儒たる山鹿素行、熊沢蕃山(ばんざん)、山崎闇斎(あんさい)等は、
漢学に伴ふ支那中心の思想を清算し、日本の学者たる自覚を獲得すると共に、日本主義に徹底し、
日本の国体の尊厳なる所以は、尊崇すべき皇室あるが為めだといふ結論に達してゐた。
聖徳太子が「日出処(ひいづるところ)の天子」と書かれた国体精神が、
北畠親房の「大日本は神国なり」の神皇正統記となり、
而して之等の学者に正しく承け継がれてゐたのである。
幕府が、御用倫理学と頼んでゐた朱子学派の山崎闇斎が、尊皇賤覇思想の一つの源とさへなってゐるのである。
かうして、江戸幕府が、自家の道徳的立場を擁護せんとして奨励した学問は、国体観念を勃興せしめ、
それと不可分なる尊皇思想の擡頭を誘起してゐるのである。
しかも、徳川の御三家として、その藩屏(はんぺい)たるべき、水戸の徳川光圀(みつくに)の好学は、大日本史の編修となり、
其の中に現はされたる大義名分の精神は、勤皇思想の温床となつてゐるのである。
しかも、その修史の事業は、当時に於ける国史の定本を提供したと云ふだけではなく、
水戸35万石の財力を傾注したと云はれる編史事業そのものが、
学問の奨励となり、学者の優遇となり、国史の研究を促し、国学勃興の動因となり、
尊皇精神の昂揚に多方面から寄与してゐるのである〔註〕。
〔註〕
義公以来連綿として続いた水戸の藩学は、会沢伯民、藤田東湖の二碩学(せきがく)の出現により、
鬱然たる体系をなし、後世、水戸学と称されて、尊皇論の中核となってゐる。
水戸学の定義を強ひて定めるなら、それは大義名分の学であり、
皇道第一主義の思想である。
その背後には、大日本史と云ふ力強い史論を持ち、
その実践方法に於ては、あく迄も実行第一を主として、
この点では、陽明学の実践主義も遥かに及ばない位だ。
その思想の中心が、国体明徴だから、勢ひ覇者である幕府否認に傾き、
しかも、それをどし/\実行したのであるから、幕府に取つてこれ程恐ろしいことはない。
井伊直弼が安政の大獄で狂気じみたテロリズムを行ったのも、
この勤皇思想の中核水戸学の総主たる斉昭を押へる為めだったのだ。
水戸学の基礎を大体築いたのは藤田幽谷だが、
これを体系ある思想として完成したのは、その高弟である会沢伯民と、その子である藤田東湖である。
会沢伯民は、諱(いみな)は安(やすし)、通称正志斎とも言はれた。
東湖その他の水戸学者の稜々たる野性ぶりとは違って、温厚篤実、心の底からの学者肌の人であった。
後進を戒めて、常に、
「口を以て書を読むことなく、心を以て読め。」
「士は弘毅でなければならぬ。弘なるが故に之に安んじ、毅なるが故に少しも撓(たわ)まない。」
などと、佳い言葉を遺してゐる。
然し、何と言っても、彼の名を不朽にしたのは、44歳の時に著した「新論」だらう。
「日本国民のすべては、何を措いても、日本国体の自覚の上に立て。」
と云ふのが「新論」の冒頭で、正志斎が絶叫した趣旨である。
その巻一の初めには、
「謹みて按ずるに、神州は太陽の出(い)づる所、
元気の始まる所にして、天つ日嗣(ひつぎ)、
世々、宸極(しんきよく)を御し、
終古 易(かは)らず。
固(もと)よりに大地の元首にして、万国の綱紀なり。
誠に宜しく宇内(うだい)に照臨し、
皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇(ゑんじ)あることなかるべし。」
と、堂々、日本国の優越を宣言してゐる。
「新論」は、熱血溢るゝ当時の勤皇の志士達には、経典の如く読まれ、奮起の原動力となった。
吉田松陰は、肥後の宮部鼎蔵(ていざう)と手を携へて上京する船中でも、
この「新論」を読んで感激措く能はず、幾度も船中で雀躍して、快哉を連呼したさうだ。
そして、会沢に逢ひたくてたまらず、遂に水戸の寓居を訪れて、その謦咳(けいがい)に接して、
「吾れ今にして皇国の大道を知れり。」と述懐し、
「会沢先生は、人中の虎なり。」と、死ぬまで、敬慕の念を寄せてゐた。
高杉晋作は、「新論」を読むと、すぐ藩公の世子に献上してゐるし、
真木和泉は、「新論」を読むや、矢も楯もたまらず、水戸へ出掛けて、会沢門下に加はってゐる。
「新論」の名声は天下を風靡して、
「新論」を読まざる志士なく、「新論」を読んで勤皇志士たらざる無し、と云った有様であった。
会沢は、水戸の南街塾で、諸国から集まる好学の志士を教導しながらも、
万巻の書に埋り、清貧の中に、文久3年(1863年)83歳の天寿を全うして生涯を終へた。
藤田東潮は、会沢の学者肌に対して、寧(むし)ろ、悲憤慷慨する稜々たる気骨の政治家肌の男であった。
東湖は、天下の諸侯有司志士と交はって、積極的に水戸学を鼓吹した。
西郷隆盛は、大先輩として、事ごとに東湖を敬ひ、
「天下真に畏敬すべきは、東湖先生である。」と晩年に至るまで語ってゐる。
東湖は、土佐の豪傑殿様山内容堂とは非常に親密で、常に置酒高会(ちしゆかうくわい)して、盛んに時勢を語り明したが、
或る時、「水戸は親藩でダメだが、山内侯一つ幕府に対して御謀叛(ごむほん)なさつては如何でござる。」
と云つて、容堂の荒胆をひしいでゐる。
東湖の著書で、有名なものは、「常陸帯(ひたちおび)」「囘天詩史」「弘道館述義」「正気歌」などである。
中にも、「囘天詩史」「正気歌」は、維新の志士に愛誦好吟されてゐる。
東湖の政治的活動には、常に、藩主、烈公斉昭の推輓がある。
之を要するに、水戸学は、会沢伯民、藤田東湖に至って大成し、
しかも、これに配するに烈公斉昭といふ当時の諸侯中の冠冕(くわんべん)を得て、一藩をあげて、
鬱然たる反幕府の一大中心となってゐたのである。
国学の興隆
江戸時代に勃興した学問で、わが日本の社会に最も大きな影響を与へたものは、第一に国学であり、
第二に洋学であるが、この国学の興隆に、直接有力な刺戟を与へて国学復古の気運を創(つく)ったのは、
前章に説いた如く水戸光圀の修史事業であつた。
光圀は大日本史の編纂に当って、和文の本原を索(たづ)ねて古語を研究する必要を感じて、
日本全国にその史料を捜討(さうたう)し、それを整理した。
仍(すなは)ち、扶桑拾葉集(ふさうしふえふしふ)や、礼儀類典(れいぎるゐてん)や、神道集成(しんたうしふせい)を編纂し、
さらに万葉集の研究に手をつけたのである。
このことは、日本の国典研究に大きな影響を与へ、難解とされてゐた国学書、
就中(なかんづく)国文学書の一般的研究に、一筋の道を拓(ひら)いたのである。
当時、大坂に下河辺長流(しもかうべながる)、釈契沖(しやくけいちゆう)のやうな古典古語に通じた篤学の人々があつて、
はやくも光圀の物色するところとなつた。
その上、漢学者も刺戟されて国学の必要を感じ、古典研究に余力を用ゐるものが多くなつたが、
新井白石や伊藤仁斎、貝原益軒などは、その主なるものである。
長流、契沖についで現はれた専門の国学者に荷田春満(かだのあづまゝろ)がある。
春満の家は代々京都伏見稲荷山の祠官である。
彼は家を弟に継がせ、自らは国学の復古を以て任とし、
国史、律令、古文、古歌および諸家の記伝に至るまで渉猟(せふれふ)した。
当時は支那かぶれの荻生徂徠(おきふそらい)が、日本を東夷(とうい)と称してゐた時代だが、
春満の「ふみ分けよ、大和にはあらぬから鳥の、跡を見るのみ人の道かは」の一首は、
実に彼の一生の抱負であるばかりでなく、門下から門下へと伝承して行くべき建学の根本精神であつた。
彼は契沖のやうな後援者を持たない一介の町学者でありながら、
独力で契沖とは別の方面において古学を開拓した功労者である。
そして彼が遺した功績の中で、最大のものは、
彼が樹てた学統から、賀茂真淵や本居宣長(もとおりのりなが)のやうな偉大な復古学者を輩出させたことである。
真淵は遠江(とほたふみ)浜松の新宮の禰宜(ねぎ)岡部定信の二男で、
享保18年(1733年)37歳で京都に出て、荷田春満の門に入つた。
足かけ4年で師の春満は死んだが、平田篤胤(あつたね)は玉襷(たまだすき)の中で、
荷田の門の人も多かりしと聞ゆる中に、
一人ぬけ出て、その正意をば得られてぞ有りける。
其は荷田の門に大人(うし)(真淵)をおきて、
外に大人の如く、師に勝れる人なきにて知るべし。
と、評してゐる。
その門下にも加藤千蔭(ちかげ)や村田春海(はるみ)のやうに、
国典の研究者といふよりは、寧(むし)ろ歌文の秀才が輩出した。
真淵の学統を真に受け継いだ者は、本居宣長唯一人と言つてもよい。
それだけに宣長は、国学の真精神、大眼目を、いかにも鮮明に照し出してゐる。
彼の著書「玉くしげ」に、
凡て天下の大名たちの、朝廷を深く畏れ、厚く崇敬し奉り玉ふべき筋は、
公儀の御定めの通りを、守り玉ふ御事勿論也。
然るに朝廷は、今は天下の御政を、きこしめすことなく、
おのづから世間に、遠くましますが故に、
誰も心には、尊き御事は存じながらも、
事にふれて、自然と敬畏の筋、等閑(なほざり)なる事も、無きにあらず。
抑(そも/\)本朝の朝廷は、神代の初めより、殊なる御子細まします御事にて、
異国の王の比類にあらず。
下万民に至るまで、格別に有りがたき道理あり。
(中略)
されば一国一郡をも治め玉はん御方々は、殊更に此子細を御心にしめて、
忘れ玉ふ間敷(まじき)御事也。
是即ち大将軍家への、第一の御忠勤也。
いかにと申すに、先づ大将軍と申奉(まおしたてまつ)るは、
天下に朝廷を軽しめ奉る者を、征伐せさせ玉ふ御職にまし/\て、
此ぞ東照神御祖命(あづまてるかむみおやのみこと)の御成業の大義なればなり。
と、いってゐる。
仍ち宣長は自分が仕へてゐる紀州侯に向って、朝廷尊崇は幕府に対する第一の忠勤であると説いてゐる。
彼は将軍職を、朝廷のために不義不逞の徒を討伐する役目で、幕府は独立して存在するのではなくて、
朝廷のために存在するのである、と大義を説いてゐるのである。
彼が師の真淵を超えて、国学者の魁首とされた所以(ゆえん)である。
秋田の人平田篤胤は、宣長の門に入つて2箇月にして宣長が歿し、親しく教へを受けることができなかったが、
宣長を先師と尊んで、その遺著によって国学を励み、さかんに尊皇愛国の精神を鼓吹した。
篤胤は、春満、真淵、宣長と共に国学の4大人と呼ばれてゐるが、
その尊皇愛国主義の主張は実行的であったために幕府に忌憚され、
天保12年(1841年)江戸を逐はれ、秋田に帰郷を命ぜられ、その著「扶桑国号考」は絶版となった。
ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の
跡を見るのみ人の道かは
荷田春満
みたみわれ生れけるかひありて刺竹(さすたけ)の
君がみ言を今日きけるかも
賀茂真淵
さしいづるこの日の本のひかりより
高麗もろこしも春をしるらん
本居宣長
人はよしからにつくとも我が杖は
やまと島根にたてんとぞ思ふ
平田篤胤
国学の研究は直接的には江戸幕府の脅威ではなかった。
多くの国学者も幕府には何等の反抗的思想を懐いては居なかった。
だから幕府は国学に対して幾分の保護を加へてゐるほどである。
併し、国学の究極の観念は、皇室中心主義である。
幕府絶対中心主義とは根本的に相反するのである。
この尊皇思想は、江戸幕府の内部的な矛盾が発展するに伴(つ)れて、
国学の大先輩たちも予期しなかったほどの国民的な力と化して、
700年も続いた武家政治を根柢から覆(くつがへ)すやうな偉力を発揮したのである。