日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)12 韓帝と閔妃    

2019-07-27 09:38:48 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 

12 韓帝と閔妃

〔変わる仁川〕
 奉天を逃れて牛莊に落ち延びた著者は便を求めて長崎に出て、浦塩に渡り、西比利亞を仔細に見て、特に同地方に於ける朝鮮移民の状態と西比利亞鉄道に注意を拂ひ、浦塩から又た元山に出た。元山の山々は最早雪で白くなって居た。曩に此処に上陸した一萬二千の日本軍は既に平城に向け出撃をした後で少数の歩哨の外には軍隊の姿は見えなかった。元山から釜山に來た。釜山には僅かに二百の日本兵が屯し、丘には戦病死者の墓が夥しく作られて居た。それから一旦長崎に寄港して漸く仁川に上陸したのが千八百九十五年(明治二十八年)五月五日の事である。昨年六月牛莊に私が逃れた当時に較べて餘りに閉靜なのに驚た。 

〔支那町のさびれ方〕
 沖には二隻の外国軍繿が浮び港内には日本商船三隻が碇を下ろして居る。曾て群がる軍隊に活躍して居た町々も今日はホンの僅かの守備兵が居るばかりで、十棟に餘る野戦病院と木の慕標が整列する墓所が新らしく眠を惹た。晝は商賣の掛引に聲を嗄らし、夜には鋼羅太鼓の音喧しかった支那町は寂として淋しく、私が支那ホテル怡泰棧に行く.途中-一人の支那人にも逢はなかった。夜は人無き家と思はるる家から幽かにかに洩るる登火にそれかと人の疑はしきも、語る聲など聞く可くもなかった。日本軍の仁川占領は支那商人に徹底的の打撃を興へ、中世紀頃ベストに襲はれた西欧の都市なら斯くもあったらうかと思はれる。

 支那町に引き換へ日本町は上々の景気、出卅入舟は荷物を満載し、路といふ路は米、豆を山と積み、叺や俵の梱包に忙はしく、牛は並び、擔軍は群り、肩磨穀撃の有様だった。物価は昂り、賃銀は倍加し朝鮮人は喜んで働いて居た。

〔変わる京城〕
 私は雪降る中を馬で京城に行った。昔危険だった田舎道も今日は極めて安全で私は護衛も無く馬子も連れずに旅を績け得る程であった。過くる道は日本軍の兵站線で、幕舍毎に私は親切に待遇せられ、茶を饗せられ、火鉢に温まることが出來た。そして京仁鐵道布設の準備として測量隊か居るし、往き来るさの牛馬と人夫で道は常に賑やかであった。

 京城では五週間程英国總領事ヒリー氏の食客となった。空朗かに、日麗かに京城入りの日は気温零下七度の寒さながら気持よき日和であった。これが今年のレコードである(譯者日く著者は華氏寒暖計を使用して居るから零七度は接氏の零下三十度五分になる)。京城では居留外人圑の温き歓待を受け馬に騎り護衛もつけられて渦巻く京城の内外を視察することが出来た。

 冬去って春の日の輝くが如く日本は今、日の出の勢である。駐屯する大部隊は日本兵である。内閣を組織するは親日派である。陸軍は日本の士官之を教練し、改正も改造も悉く日本の後押しで行はれて居る。国王陛下は王権をして統治するも、目前の事實、大勢の赴く所は如何ともすることが出来ぬ。皇后陛下は排日の辣腕を振ふにも振はれぬ。日本公使井上伯は沈毅果断の有力なる政治家である、少くとも表面上に波風を起させぬ程の力がある。

〔朝鮮独立宣誓式〕
 千八百九十五年正月八日は朝鮮史上永久に記念すべき日なった。日本は此の日を以て朝鮮をして完全なる獨立国たらしめた。国王は支那の宗主權廃棄の宣言を布告し、政海の廓清を期し、官吏の腐敗を矯め、有爲有能の士を擧げて重用するころを社稷に告げ、獨立を宣し、改革の斷行を祖宗の霊に誓った。
 この事たる實は韓国皇帝の頗る好まざる所で嫌でたまらない。宣誓式の前夜祖宗の神霊陛下の夢枕に立て古来の遺風を變革すること勿れと宣ふと共に亡霻は消え去り陛下をして益々危惧の念を抱かしめた。然し乍ら井上伯の意思は頑宗の神霊よりも強かった。式は最も神聖なる地を撰み、林間に祭壇を築き、貴臣官悉く参列した。

 但し老臣やら頑固の人々は二日に亘り斷食して之を悲しみ、黒帽白衣の群集は稀代の儀式を拜観せんとて周囲の岡に押し寄せ、崇厳なる光景をいと静かに跳め、私語する者なく胲の聲すら聞えなかった。恰も天曇り、日曛く、寒風凛として寧ろ凶氣として山河を包んだ。

 朝鮮特有の鹵薄は一種蠻的なる装飾で私達欧州人の目を惹た。實際未開とか野蠻とか評する外なき光景であったが、然し隱約の間に新時代の曙光を認め、西洋文明の大浪が澎湃として寄せ來つつあるのを感ぜざるを得なかった。宮城外の道路の兩側は騎兵隊堵列して警備し(彼等は背を国王に向けて居た)行進する歩兵の数は隨分多数に登った。
 其の歩兵たるや垢じみた黒木綿の制服に綿入足袋を穿き草鞋を履き、或る者は地に曳き摺る程に着込み、帽子は例のチロル風のフエルト帽にリボンの縁をとり、種々雑多の銃を擔ぎ、歩調もなければ列伍も無く進んで行った。最近に創設された警官は洋服を着込んで彼等の間に伍して居た。就中異彩を放ったのは一群の宮内官吏であった。彼等は毒々しく飾り立てた小馬に鞍置いて揚々と進み、群集は身動きもせず見送って居た。

〔国王迷ふ〕
 国王は御發輦の時刻過ぎても此の曠古の祭典を行ふべきか行ふべからざるかにお迷ひになった。日本の忠言に從はざるを得ないのか、何とか逃れる方法は無いものか。時刻は過ぎた。一刻も二刻も延引して漸く行列は動き出した。大施は門を潜って出た、旗竿の頂は三叉の槍になって居る。緋色の服に緋の帽子の一隊、靑色の服に青の帽子の一隊、次て黄色の服に黄の帽子は陛下近待の廷臣だ。
 陛下はと見てあれば、今日は興丁四十人擔ぎの大輿にはあらで四人擔きの小興に召され顔色憔悴して通御になった。皇太子殿下も同様の御仕度、績いて各部大臣其他の顯官、將校各々馬で扈従した。馬は例の飾り馬。乗るにも下りるにも人の手を借り行くに馬丁左右より馬の口を取り、更に二人し挽き繩を引く物々しさ。

〔朴永孝氏〕
 かくても笑止や一人は内務大臣の後ろに落馬した。内務大臣朴泳孝氏は千八百八十四年(明治十七年)の改革党の一人、曾ては陸下の逆鱗に触れ遠島申付けられたるが、時節となれば致し方も無い。陸下は嫌々ながら其の罪を許し、曩に貶黜したる朴氏の祖先を新たに叙動した。氏を擧けて内務大臣の願職に任じた。氏の周圍は武装せる日本巡査護衛の任に當り、氏自身は驢馬の太く逞しきに西洋鞍置ける凛々しさ一際衆目を惹いた。

〔宣誓文〕
 祭壇では要職顯官及侍從のみ扈従して其他は皆門外に屯した。茲に陛下の祭文の冒頭を譯して見る。 

 時維れ開国五百三年十ニ月十二日、皇朕れ、皇祖皇宗の神靈に詰げ申さく、皇朕れ幼冲にして皇位を紹ぎ今に至りて三十有一年に及びぬ。其間国歩多屢艱難に陥りしも祖宗の遺制に則り幸いにして過つ事無かりしは祖宗の神祐の然らしむる所なりとす。而して祖宗王統を肇め給ひしより既に五百有三年、今や時勢大に変し人事共に舊態を存せす、信義の友邦外に援け、忠實の諸臣内に計り、朝鮮を富強に導くの道は一に独立の統治を始むるに在ることを知れり。云々

〔井上伯の言明〕
 期くして朝鮮は独力を以て改革に從ったが、無論一歩一歩日本の指導を仰がねばならぬ。
 井上伯は日々新聞記者に「余の眼中皇室と国民とあるのみ」と語ったのも此際の日本の立場が窺がわれる。伯の意見は明治二十八年早春の事情としては正当である。自分達も之に依りて申分なき内閣の成立を喜んだ。間も無く私は皇后陛下から御招待を賜って面目を施した。其の節の付添いは亜米利加の牧師にして皇后宮の侍医たるアンダーウッド夫人、総領事ヒリュエール氏の斡旋により公式人憺ぎの輿に乗じ、朝鮮正規兵の護衛を従へ景福宮に参内した。其の後私は前後六回も参内し、参内する毎に宮中の入り組んだ事情に驚き、珍奇と華麗途に眼を睜った。

〔陛下の御座所〕
 景福宮の正門を光化門と名づける。巨然たる石を畳みて築き、石階を登れば樓となる。三箇のアーチを仰ぎ見る程に高い。門前には左右に石造の唐獅子石造の台上に踞し、門を潜れば石畳みの廣場、廣場の彼方此方にも樓あり、台あり、亭あり、石橋あり、廻廊あり、夫々の趣がある。
 正門は日本の警官之を守り、門内の各門―それは数知れる程ある―は朝鮮兵.の歩哨之を守り、八百の軍隊、千五百の従者、、宮内官、大臣、秘書官、使者、其の他に無官の太夫たる居候等群れを爲し、宮城内は宛然たる一小都曾の賑やかさである。私は門を出て門を潜り、半哩も樓閣相連る所を過ぎて非常に綺麗な池の端に出た。池中島あり、島の中中央に亭あり、亭に近く洋館があった。此の亭こそは当時国王及び王妃の御住居となって居る。私共は二三の宦官と数多くの女官及び通譯官の出迎えを更けて王妃に拝謁すべく案内せられた。

閔妃の御召物〕
 私共か最初に招せられた所は黄色の絹を垂れた簡素なる部屋であった。其処で茶菓を賜り、次いで昼食を賜り、食事には端麗な女官達か倍侍した。食事は洋風で、スープ、魚肉、鶉、鴨、雉、コールドビーフ、野菜、クリーム、何れも上手に料理されてあった。食事後稍暫くしてから通譯に伴われて謁見の間に参内した。上段には緋色の天鵞紙を張りつめた椅子並び、椅子の前に国王陛下、皇太子殿下、王妃殿下の順に立たせられた。私共の爲めにも椅子を用意してあったのは有難い。

 王妃殿下は御年四十を越されたかスラリとした優型の美人に渡らせられ、御髪は漆黒で御化粧に真珠の粉を用ひ給ふものから玉顔蒼白に見へ、眠は鋭く冷静で、御様子全体が機敏な性質の方だと察せられた。さても見事の物召物、眼も覺むるばかりの瑠璃紺の長袴を腰高に着け、かき合せたる上衣の御衿は頸近く珊瑚の玉を以て止め、青赤とりどりの紐六條を合わせて帯となし、一條毎に珊瑚の飾りを付して止金となし、尚ほ帯には絹の總燃めるが如く垂れ、御冠と申すべきか天井なき頭巾の毛皮の縁を取りたるに寳石を鏤め、赤き總は御額を飾って居た。御靴も亦御袴同橇に縫とりがしてあった。妃殿下は斯くして親しみ易き態度で話を始められ、話が興に乗れば御顏色輝き一人美はしく見上げ参らせた。
 

〔陛下と殿下〕 
 国王陛下は背丈け餘り高からず、薄き口髯と頥髯を蓄へられ、神経質と見え時々引き釣るが如く手を震わせられた。全體平凡の御風格だが御姿勢御態度何処かに威厳備はれるは争はれぬ。陛下は常にニコヤカで親切で、王妃は何時も陛下の話を助けられた。陛下と皇太子殿下は共に綿入れの絹股引と白靴白足袋、上衣は薄青色と白無垢の襲せ着、瑠璃紺の袖無しを召されて居た。
 皇太子殿下は御體質を虚弱にして頗る肥満せられ、強度の近眼だが儀禮の作法として眠鏡を許さぬのは御気毒である。殿下に拜謁した人は皆言ふことであるが、私も殿下の健康には重大なる歃陥がある様に見上げた。何しろ殿下は妃殿下の一人子である。妃殿下が殿下の御健康に対しては朝タ絶え間なく心遣ひ遊ばされ、特に庶子の方が皇位に登られる場合が起こらないとも限らぬとの危惧の念に駆られて遂に妖僧の手を籍り屡々無残なことを断行せられた。私の拝謁して居る間も王妃は王子殿下の手を握って椅子にかけられて居た。盡きぬ母親の心からである。

 王妃は上品で聡明で私に色々御物語あらせられ陛下は直に物語に加はって二三十分間も寬がれた。私がお暇を申上げる時に拝謁した御殿撮影の許可をお願したら、陛下はこの家のみか彼も寫せよこれも撮影せよと親ら手を挙げて示して下すった。私共は喜ばしい楽しい時を過して御前を下れば時刻移りて既に薄暮の頃故陛下は兵を読んで私共を護らせ、紅緑ダンダラの竹の提灯の幾つかは私の道を照して呉れた。それから二日して私は又た禁裏を拜観した。此日は軍隊の半箇大隊に将校五名及若干の宮人の群の騒がしさに悩まされた。

〔勤政殿と慶會樓〕
 勤政殿は實に見事な建物である、私は少からす其の荘厳美に印象を得た。地上高さ五尺の基礎を盛りて臺とし、御影の石階は中央と左右に分れて居る。臺上に巨然として格好の宮殿が聳つ、殿裡に入て仰げば格天井は赤に青に繰に色どられ、朱塗りの大柱之を支へる。廓然として廣きが故に全体薄暗く、薄闇き奥に玉座は幽に爆たる光を発つて居る。これに劣らぬは夏宮慶會樓である。慶會樓は廣き玉池の中に建てられた大建築、池は一面の蓮、蓮を超へて石橋があり、橋を渡れば即も樓である。三沢四角の石桂は総て四十八本、各々其の長さ十六呎、二階を支へ大屋根を支へて居る。其の場所と云ひ光景と云ひ中々に見事である。

〔閔妃の御生活〕
 三週間の問に私は更に三度程参内した。二度目には前回同様アンダーウッド夫人に伴はれ、三度目は儀式に招待を受けて之に参列した。四度目は全然私一人で拝謁仰せ付けられ一時間以上も御前に侍った。そして私は参内の度に王妃の優雅で、愛橋があって、お話上手なのに、且つ又た其の智謀、精力に関心せざるを得なかった。私は敢えて王紀の政治的勢力が国王陛下を凌げるのに驚かぬ。さりながら王妃は陸下の父君大院君を中心とせる敵黨圍繞せられて居られる。

 此の敵黨は王妃の手腕を憎み、勢力を憎み、重要の大官に妃殿下が自己の親族を挙げ国政を縦まにせしめるのを憎み切ってるではないか。王妃の生活は寝ても起きても戦である。王妃は国王陛下と皇太子の尊厳と安全を保障し、大院君を一蹴し去らんが爲めに愛嬌と機敏と、聡明とを以て、巧みに勢力を維持せられた。

 王妃は已を得ず多くの人の生命を奪った。けれども人を毅すにも舊慣を破り傅説に反く様な事はせぬ。王妃の生活は正に朱唇に毒を含み玉手に刃を隔せる振舞である。女としてあるまじき事だが人或いは之を弁護してこんな實例を挙げる。それは陛下即位後間もない時であった。大院君は王妃の兄様の家に麗はしき箱を贈った。家族の人々は尊き贈物を打寄りて眺めて之を開いた。中には何があったか誰も知らぬ。轟然たる音は近隣の人を驚した。煙の下には王妃の母君、兄君及姪の方と其他幾人かの死屍が横って居た。事来王紀は一変して妖姫となった。陰謀家となり、大院君との間には火焔の如き情悪の念が消へぬさうである。 

〔陛下の弱行国を危うくす〕
 李朝の礎は動き出した。陛下は誠に愛すべく敬すべき御方であるが、性來意思弱く渡らせられ、侍臣の言ふが儘に政を行ひ、特に王妃入内後は王妃の言の儘になられた。私は陛下の意中は民を憐み国を憂ひて居られるものと信ずる。陛下は国政の改革を志して改革を給はぬのは一に陛下の意思の悪しきに非ず意思の弱きが為である。
 朝鮮では綸言は直ちに国法である。然るに陛下の綸言は奏聞する人ある毎に動揺し、朝に変わり、タに改まる有様である。人民は殆ど適従する所に迷ふて居る。實に国家の不幸である。陛下に一片の硬骨があつたら、主張を固辞することが出たら、今迄に試みられた改革改善の良法が斯くも敢なく水泡に帰すが如きことはなかったらう。
 

〔大院君と陛下〕
 陛下実算今年四十有三、王妃は少しく年上である。而して陛下幼少の頃、未た支那式の漢學数育を受けさせられる間、陛下の後見として政を摂すること十年に及びし大院君は随分乱暴な我儘をした。人民は大院君を鐵腸石心の暴君として恐れに懼れた。千八百六十六年〈慶応元年〉には舊教徒二千人を惨殺した程の剛の者である。實際被は無遠慮に横車を押す所の手腕家であり、彼の手を擧くる所人命害はれ、足踏む所碧血流れた。彼は自分の子すらも殺すに躊躇しなかった。 

 彼の摂政時代以後王妃暗殺に至る数年間の朝鮮史は大院君と王妃及王妃の一族閔妃氏の暗闘明闘の記録に外ならなかった。私は宮中に於て只一度大院君に拝謁した。老人とは言ひ條総て活動的で、言薬に力籠り、眠光閃々、動作亦元気溌剌として居た。之に反し皇帝陛下は物腰総て軟かで、現代よりも将来よりよ、過去の歴史に趣味を有って居られる。宮中で何か故實を知る必要がある場合に之を陛下に質せば陛下は直ちに史實を挙げ出所を明にして明快なる解決を与へられるさうだ。従て圖書頭は決して楽な役目ではない。又た景福宮の書庫は其の結構形式共に有数の建物の内に数へられ、蔵書から尠からずと聞いた。而して陛下は父君に反し決して排外的思想を有せず、却って近年の国難の苦楚を甞め益々外国に信頼する念を萠し、我々外国人には懇切叮嚀に応対せられる。

 私が二度日に参内する節は日本の勢力宮廷の内外を風靡して居たが陛下及王妃は欧州人に対しては殊遇を給はり池中にスケート大會を開き外人全部を招待せられた。陛下が又た基督教会に心を寄せられれるのも正に父君大院君と丸反対である。陛下及王妃の侍医は亞米科加人で外国人と宮廷の間に立って忠實に働いて居る。此等事情を省みて見ても人民は必しも王家に不服を抱くのでは無い、単に閣僚に対して反抗するのだと私は思って居る。
 

〔陛下の御軫念〕
 私は陛下の御一身に関して書き過ぎた。然し乍ら朝鮮では陛下は直ちに政府夫れ自身である。陛下に就て書くのは朝鮮政府を説明すると同然である。朝鮮には未だ成文の憲法も無ければ曾て不文の憲法も無い。代議士有らざれば從って国會も無い。勅語を離れて法律も無い有様である。實に朝鮮国王は統治すると共に行政もする。内閣各省の事務に精通し、報告を受け、命令をし、政府の名を以てする一切の事件に関渉せればならぬ。真面目に国王の仕事を爲しなら到底一人の身の能くする所で無かろう。況んや大綱を総攬するに長ぜざる陛下には御無理と申上ぐる外は無い。陛下は自ら無能を嘆じ精力.の不足を悔しいがって居ながら小人の言を聞きては国政を通り、意思弱くして愈々国難を滋くされるばかりである。
 私が従来拝謁した折々陛下の御言葉より察すれば、陛下は充分に改革の実を擧げ度い御志望のみならず、日本が進言する改革にも頗る敬意を払て居られる。
 陛下は私に日本及西比米利亜の鉄道状況、一哩の建設費用、支那の内物、日本の戦爭気分等細かな點も御質問になった。尚ほ英国に於ける官吏登用法、貴族以外の有為の材を起用する方法、特権貴族階級の地位及其の勢力失墜応ずる貴族の態度等も御質間になった。

 或る日のこと陛下及王妃殿下は熱心に英国王室と内閣の関係、特に皇室費に就て御質問があり、其の御質問たるや細日に亘り徴を穿ち私は殆ど応に窮して仕舞った。尤も陛下の御心配は若し大蔵大臣が勝手に皇室の御内帑或に容喙したり、或いは王妃の御費用は王妃自身の財布から出さねばならなかったり。或いはそんな些細な費用すら国庫の手を潜ったりしなければならぬなら面倒だと思召して居られる様だ。

 尚は国務大臣の事務権限に就ても種々御下問があった。宮務大臣の権義、総理大臣の地位、各大臣及王室に対する関係を御訊問あり、更に大臣の任免に就き皇后の意見が行はるるべきかものか、最も耳を傾けて在らせられた。けれども英国憲法にて少しの観念もなき御方に就いて其等を徹底して説明申し上ることは不可能であった。
 

〔暇乞の参内〕
 長い間京城に滞在したが最早京城を去らねばなられ。私は御暇乞の爲めに参内した。例の通り八人襜ぎの輿に乗り、例の通り軍隊から捧げ銃の礼を受け、例の通り王宮に参進した。數名の宦官及士官の出迎により私は輿から助け下ろされた時、恰も陛下は親ら障子を開いて曾釋を賜り、復た御手づから御閉めになった。御居室は方六呎を超えす、内謁見の間に続き、室の一隅には床を置いてあった。

 而も今日は何時もと異ってウヨウヨする待従、宦官・女官等を遠け室内に陛下と王妃と公使館から伴った通譯と私:のみであった。通譯は街立に距てられ、王妃を拝することは出来ぬ所に立ち、頭を垂れ眼を擧ぐるを許されす、聲を立つるを許されず、只囁くが如く通譯申上げた。勿論これは対話の外に洩るるを防ぐ用心であったが、用心が用心にならなかった。私は戸の透間からチラッと人影を認めた。
 通譯も亦ハッと気が付くや俄かに語るを止めた。果然其の人影は陛下が外国人に如何なる秘密を語るやを竊み聞に来たので、而も閣僚の一人、平生陛下の信任を得る能はず遂に国外に亡命した男であった。私は此の日陛下と如何なる対話をしたか其の内容を記し兼ねるが兎も角一時間に亘り興味ある話題が続いた。 

〔王妃と英国女王〕
 王妃は英国のヴィクトリヤ女王に就て種々の御物語あらせられ、こんな御話があった。ヴィクトリヤ女王陛下は大を欲して大を得、富を欲して富を得、力を欲して力を得られた。王子も王孫も共に或いは王たり或いは帝たり、王女は総て王妃たり皇后たり、美しいお方だ。女王は恐らく貧弱なる朝鮮の如きを考へられた事もあるまい。女王は善に忠実にして世界に多大なる貢献を遊ばされた。女王の御在世そのものが既に善事である。自分等は女王陛下の萬歳と御隆昌を祈らざるを得ないと。
 陛下は王妃の語に継いで英国は朕が最善の友邦なりと仰せられた。王統古けれども動揺常なき国の元首が英国の王家を羨望せられる時私は一種の感に打たれざるを得なかった。 

〔握手を賜う〕
 私が暇乞申上る時に陛下は立って礼を受け、王妃は手を伸べて握手の礼を賜ひ再び朝鮮に歸り来たって更に詳しく観光する様に誘って下すった。私は九箇月後に王妃のお言葉通りに京城に帰って来たが、此の時は哀れ、王妃は既に在されず陛下は幽囚同様の身となって居られた。

 


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