日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」) 13 過渡時代

2019-07-28 16:29:29 | 朝鮮・朝鮮人 
 「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 
 

13 過渡時代


〔日本の指導〕
 千八百九十五年(明治二十八年)の正月は京城には旧制減びて新制未だ定らす一種混沌裡に暮れた。海に陸に連載連勝を博した日本は常然支那を挑して改革の後見たり指導者たる立場に在った。曾て権勢並ぶ者無かりし閔氏一族は悉く斥けられて其の位置を去った。昨年九月十七日清軍に平城に破るや日本は最早改革の断行に何の遠慮も要らなくなった。
 明治維新の功臣井上伯は公使となって十月二十日京城に赴任し、皇帝の名により事實上政府を監督した。即ち各省に監督官を置きて行政を指導し、軍隊の編成を変更して日本式に之を訓練し、警官も亦新編成せられ日本式の制報を着用させた。尤も其制服たるや不格恰で見つともなかった。改革案作製の爲めに會議体を組織し他日の韓国議會の階梯たらしめ、而して井上伯は顧間として何時にても陛下に拜謁するの権を得、内閣會議に列する折には必ず速記者を帯同した。官吏の任命、規則の發布、舊法の廢止、改革の聲明は日々行はれ正に日本は沖天の概があった。 

 日本は其の意思行政の改善に在るを宣言した。恰も英国が埃及に爲せると同様の意味である。私は日本に自由に手腕を振はしめるならば其の成功敢て難くないと思って居た。然し乍ら井上伯は改革事業は、曾て豫想したるよりも遥か困難で、到底一朝一タに爲し得べからざるを發見した。伯は考へた、朝鮮は改革の大任を托す可き人物が居らぬ、改革を遂行するには人を養成しなければならない、此の上は改革の準備として貴族の子第の大多数を日本に送り、一年は教育を施し一年は實地を見習はせ、帰国の後之を重用するより外に道は無いと。成程改革には組織の改革よりも人の改革が先立たねらぬ。


〔五か條の要求〕

 日本が要求した種々の要求は暫し国王の手に握り潰されて居たがそれも束の間十二月に至り井上伯が提出した五箇條の項目は速時實行せられた。五箘の條項とは
  一に日く千八百八十四年(明治十七年)の謀反者の罪を許すこと、
  二に日く大院君及王妃は国事に容嘴すべからざること、
  三に日く皇族を官吏に任命す可からざること、
  四に日く宦官及女官の數を最小限に減少すること、
  五に日く貴族平民の別を撤廃することである。
 此等の項目が新聞に掲載せらるるや夥しき宦官は女官と共に荷物をまとめ夜陰竊かに宮中を逃れ出た。けれども翌朝になって廣い宮中ガラとして人無き淋しさに陛下は直ちに命分を発して逃れ出た宦官と女官を呼び戻した。歸來せざる者は厳罰に処するとあるから彼等は無論再び宮中に舞ひ戻った。陛下の意思の動搖して朝分暮改の様子が覗はれるではないか。


〔兩班の憤慨〕
 朝鮮の兩班階級は少々の親日派を除き盡く新制に反對し舊制の変革を目靚して憤慨に堪えざるものの如くであった。一般の人民亦自分等の国王が国政の改革を●(不鮮明で読めず)許することを恰も王家傅來の尊厳を傷くること甚しきものとて激昻した。
 朝鮮人に真の忠義観念は欫げて居る。彼等の言ふ所、欲する所は間違って居る。然し乍ら国王を犯すべからざるものと信ぜる以上憤慨し激昻するは已を得ざる所である。兩班は比の改輩・を以て被等特権の新奪であり、取權の停止であるど思ひ込んだ。果して然うすれば被等貴族階級にとりては由々敷大事である。飽く迄も改革を阻碍し妨害せねばなら。彼等は彼等の一族郎党を提げ積極に消極に改革反対の態度を採るに至った。官吏の腐敗は京城に於て最も甚しく、彼等は徒らに人民の膏血を搾って私腹を肥して居た。

 首府然り、地方官庁は首府を学ぶぶ。破廉恥な懶惰な官吏は常民を誅求するを是れ自己の職務とした。朝鮮官界の廓清に當る日本こそオージーアス王の廐舍を掃除するヘラキュレスである。朝鮮の官吏には名誉も誠実も無い、有っても數百年前に喪はれて居る。服務規律の如き彼等の曾て想像せざる所である。私に言はすれば朝鮮には只二つの階級があるばかりだ。一は掠奪階級であり、他は被掠奪階級である。而して前者に屬するは即ち官吏及軍隊に外ならぬ。搾取、誅求は貴属が常民にする常例である。官金浪費は官吏の慣例である。


〔勅令雨下〕
 恰も私が朝鮮を去った千八百九十五年二月十二日に至る過渡期は頗る注目に値する。官報を繙いたら当時は特殊の時代を劃して居ることと判る。或る日の勅令には長さ三尺以上の煙管を取持するを禁ずてな滑稽なのがあれば、次に日の官報には京城周囲の禿山に植林すべしてな具面目なものがある。

 又た或る日の官報には陛下皇震御拜可有之に付き吉日ト筮方を命ずてな辭令が見えるかと思へば、残酷なる刑罸を廃するなど文明的法令が掲載せられ、或るは支那人追放虐待の旨を告示し之
に違背する者は百弗の罰金又は百笞の体刑を課する由も見える。何しろ矛盾撞着の法令が相隣りして雨の如く發布され、而して結局は日本の失敗に終った。
 就中、それが不可解な政治的必要に迫まられた結果だとは云へ、從前の反逆者の罪を許して高位高官.に列せしめた事、長煙管の禁止、宮延服の改正等は些細の様に見えても朝鮮百年來の慣習を破ることで人民の反感を買ひ新制度反対の気勢を畯るに過ぎなかった。
 

〔臬首と斬り捨て〕
 皇帝に既に外国人の補ふる所となったと訛傳行はれ東學党は陛下を見捨てた。そして他に新帝を擁立したが正月匆々討伐せられ、新帝は斬られて西小門外義州街道に梟せられた。其処は最も人通りの多い市場の外側であって、私が見た時は新帝の首なるものは三つ竹を細み他の首と二つ並べてプラ下げてあった。首は冷静な寧ろ荘重な表情をして居た。少しく離れて更に一組の曝し首があったが、首は竹から振り落されて路傍の埃の中に轉がって而も犬に喰はれ、其の顔からは最後の苦悶が消えて居なかった。
 轉げた首の側に蕪青が一つあったが一人の子供が其の蕪青を取り上げ如何にも軽蔑した態度で黒ずんた死人の口に捩ぢ込んだ。こんな無惨な光景が一週間も続いた。

 其後三日間は朝鮮のお正月でこれぞと云ふ事件も起らす静謐なものであった。私は此の機會を利用して一人の友達を語らひ南大円と東大門の外側、松の小山の高く低く打績けるあたりに馬を騙った。雪は道をひ蔽ひ、曇れる空は何となく嵐ではないかと思はれた。風は寒かつれ。手繩取る手は凍へる程だったのに三人の苦力が夏服着たる儘路傍に眠れるのに少からす驚かされた。けれども段々近いて見て眠れるは永久の眠、首は鈍刀で叩き斬ってあるのが判った。さもさうづ道には迸れ血汐赤く氷って居る。彼等は東學党の一味、昔とぜルサレムに行はれたる如く何等の審を受けず朝鮮の所謂大罪を此処で贖ったのである。それから数日後の官報に斬首の刑とか、嬲殺の刑とか、民事に絞殺の刑を用ゆるとかを廃止する記事が掲載された。此の勅分は国王の勝手に振って居た生毅与奪の権を事實上將來に向って棄したのであった。


〔改革と世評〕
 日本人顧問の推攀により舊制の宜しからざるは次々に廃せられ一日一日と改善せられて行った。尤も其の改善たるや一般の気受宣しからす不満不服を以て迎へられ、未だ混沌たる状混を脱することを得なかった。
 而も朝鮮として見れば改革の断行は甚だ心苦しき話しで、右して全然日本の意に從はんか他日支那が勢力を輓回し來れる場合が恐ろしい、左して支那を頼み日本の忠告を拒まんか支那が遂に敗戦国として終わる場合が恐ろしい。全く板挾みの立場に在る朝鮮は見るも気の毒な有様である。


〔正月の行事〕
 同じくお正月の話である。或日のタ、京城市中は髪の毛を燻べる嗅気に包まれてしまった。松葉を焼く臭気も強烈なものであるが其日計りは松葉の煙も物の数でない。町より町に、戸毎戸毎に戸の前は毛を燒く焔がノロノロと赤い舌を出した。これは朝鮮の年中行事の一つで髪を櫛る時、結ぶ時に抜け落ちる毛は丹念に一年間蓄へ置き、今宵これを燒き捨てるのである。かくすれば臭気に辟易したる厄病神は逃げて其の年丈けは近寄らぬさうな。

 尚厄病避けの呪として薹人形を作り二三文の銭を抱かせて道に捨てる風習がある。此の人形は家の災難を背負って出て拾った人に取付くと信せられて居る。此の夜は木の小枝に白赤の紙片を結び付けたのを屋根の上に振り上げて月に祈り災難避けの呪とする。まだ奇習がある自分の嫌いな人の似顔を書いた紙を子供に燒せて咀の呪とする。それから、これは京城のみの風習か知らぬが、正月の或る真夜中に男も、女も、子供も、自分の年の數だけ橋を牲復する。期うすれば其の年は足に煩ひが無いそうだ。


〔石合戦〕
 正月十五日は石合戦の日だ。石合戦は無くてはならぬ年中行事だと信じて居る。乱暴な話である。墓所には親戚相集り食物を供へて祖先を祭る。宮中の宦官は松火を打ち振り打ち振り祈願の歌を誦する。此の秋も豊作なれかし祈るのである。
沢山の栗を潰して其の皮を口に含み吹き飛ばす、此の夏も無病息災なれとの呪だ。尚ほ正月十五日には小竹を割って十二の豆を並べ、又た竹を合せて堅く縛り、糸でつるして井戸に浸し、翌朝之を引揚げて今年の雨を占ふ風習がある。豆は一端から數へて月々を代表しフヤク加減で其の月の雨量を豫告する。 

 若しひからびた豆でもあったら大変、それは旱魃の兆である。子が生れたら其の軒に長い竿を建て、晝は紙製の魚を吹き流させ、夜は提灯に灯をともしてつり下げる。そして親達は燃ゆる蝋燭を飽かず挑めて居る。中途で消えたら其の子は短命だし、仕舞迄燃へ盡したら長命の吉兆だと言はれる。


〔仁川の戦時気分〕
 私は二月五日京城を辭去して仁川に下った。恰も京城に日本から人力車が始めて輸入されたのを幸ひそれに乗ったが輓子が不慣な爲め途中でにヒックリ返され一年計りを云ふものはその痛みがとれなかった。戦争開始以來何時汽船が入港するのやら全然見当付かす、私は仁川に肥後九を待っこと一週間、其の時が戦爭談の最高調に達して居る際であった。
 日本は勝ち続けに勝ったけれどもほ尚ほ最後の勝利を收め得べきや疑を抱く人すらあった。然るに威海衛陥落し、北洋艦隊を捕獲せると確實となって疑を抱くにも抱かれなくなった。勝利の報知が來た折には私は日本郵船會社の事務所に行って居た。事務員は又た勝ちましたと弁舞雀躍した。仁川は晝は旗夜は提灯に飾られ、祝勝の行列があり李鴻章の人形を燒いて氣勢をげ、辻々には酒樽の鏡を破って來る人の酌むに委かせてあった。
 
 日本は勝ち績けた。然し勝つ可く多くの犧牲が拂はれた。見よ仁川の野戦病院は滿員だ。軍人墓地は日に日に埋まって行く、軍人の葬式は幾つとなく町を通過するでは無いか。満洲から選り還された軍夫六百は身に襤褸を纏ひ、或る者は生の毛皮を着て店る。彼等の手も足も唇も霜燒に罹り、繃帯から露出した手足の指は凍傷で黒になって居る。

 總體日本の學校では国家の爲めなら一切のものを捨て、顧みるな、生命を犧牲とするも惜しむなと数へ、この数育が今日實を結んで居るのだ。曾て私は大阪の波止場で義捐になる軍需品が山を爲し、市民熱狂裡に第三師圏が出征するのに出會ったが、こんな熱烈な光景は生來見たことが無い。

 送還された前記の軍夫が病院に収容せられ新らしき服を着せられるや、身の傷病も忘れ果たるが如く又これを着て戦に出懸けるんだと喜んで居るでは無いか。軍人が死する折には載場たると病院たるとを問はす大日本萬歳を唱ふとかや、えらい国民である。

 右の様な有様を見す見す私は仁川を去った。当時の状況を掻い摘んで記せば、朝鮮政治の改蓍を朝鮮自己の手により成就せしめんとて日本は全力を挙げ誠意を盡して居る。而して既に少からぬ改革が行はれ、或いは其共の計画中である。国王は絶對専制の権力を制限せられ、十省の大臣は内閣を組機し、国王の名によりて行政に當ることになった。真に過渡期であると私は思って居る。






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