日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

1920年、平元兵吾著『日米戦ふ可きか』 十九 西伯利と日米感情不和  

2024-10-02 17:53:38 | 作家・思想家

 

十九 西伯利と日米感情不和  

 

 日本を初めとし、英、仏、米列国が西伯利へ出兵を断行する迄に、当時 幾多のトラブルが起こっておった。分けても米国の輿論は其のトラブルの中 心であった。米国の出兵は独特の主義を有すとの名目の下に、日本並に列国との共同行動を執ることを賛成しなかった。

 

 その理由とする所は、米国 には遠く米露協約の存するあり、ポリシビイキに対する米国の主義と利害とは、列国並に日本の方針と全然相反せりというにあった。其の真意に恐らく、彼のルート卿の露都訪問によりて得たる、西伯利鉄道の一部並に東清鉄道の管理権を約した勢ひに乗じて米国の民主主義を西伯利に宣伝し、以て各種の管理の獲得しようと言ふ底意であったことは、一点争う余地 があるまい。

 

 嘗て我日本に対して、彼のノクツス柳をして、満州鉄道の中立を抗議し た米国は、今日遂に西伯利鉄道の一部並に東清鉄道進の管理権を符るに至つて、その画策策する所実に世界の注目に値した。然し其の後米国の消極的不統一は忽ちにして、彼等の不評を高調さるるに至つた。彼の力ルマ、コフ将軍麾下の、コサック兵千五百名抑留事件、武器没収事件、黒龍江附近にて日本本軍の全滅を拱手傍観せる事件、其の他に著しく露人の感情を害して終った。

 斯くて彼等米軍の不評と不人気とがパット世界に伝わるや、彼等の厚 顔を以てしても、これ以上野心の権利問題に手を出す機会が無かったと言う形勢となった。多大の予期と興味とを以て、多くの米人に期待されつつあった西伯利も、殆ど何等具体的の貢献を印刻することなくして、唐突然として撤兵するに立至ったのであるが、吾々を以て言はしむれば、蓋しこれ自明の理であると言ふに帰せざるを得ない。

 

 其の徹兵振りの傍若無人なりしこと、殆ど日本存在を認めないも同然で あった。畢かに我が質議に依って、米国政府は其の理由を付して陳謝の意を表したのだが、駐屯中に於ける行動がまた頗る不統一不見識極まっておった。

 ある時は過激派に味方する如き手段に出でたり、ある時は、セミョノフ軍を圧迫したり、コルチャック軍のみに力を入れたり殆と勝手気儘な振る舞いであった。コルチャック将軍の敗滅は一面米軍の撤兵を促進せしめた理由のーつではあらうが、大体を通じて、日本軍、然も聯合軍の総司令官たる大谷将軍の命を奉ぜず、日本軍と殆と反対的行動を持続した誹りは免るゞことは 出来ない。  

 巷間伝ふる所に依れば、日本軍と変戦した過軍の戦利品より、米軍の所有に係る武器(擲弾)が沢山あったと言ふことである。私は其の真偽は保障する限りではないが、満更虚偽と打消すことも出来ない。然して其の武器たるものも、極く善意に解釈を下せば、過軍が米軍より奪っ たとも解せられ、また過軍ならざる露兵が過軍に投じた結果だとも解せら れないともないが、これを悪意に解すれぱ、米軍が我軍を憎悪するの除り、武器弾薬を過軍に興へて、日軍を悩ましたものと、解釈さられる斯の如き奇怪事は、不統一なりし米軍のあり勝ちのこととして、私は葬りたいのである。

 

 兎に角、西伯利における、秩序回復の可能不可能、過激派勢力の台頭没頭如何は、悉く懸って我日本国の独気台となって来た。而して日本は、 米兵の撤退と同時に断固として増兵を行ったが、其の齎し来る結果は、果して如何であるか、僅少の出兵増加に依って、彼の拡大無涯なる西伯利の寒空に、点々出没巳まざる過軍を、何時如何にして全滅し得るであらうか、 将た叉、彼等の極端なるポルシヴィキヅムを閉止し得るであらうか。

 成る程日本は地理上隣接的である。また日本の思想界より思ふて、憂ふ可き多くを有しているかも知れぬ。然し敵は本能寺にあることを忘れてはならぬ。西伯利は日本に対する大敵の集積ではない。第一過派に対する最近英仏の見解に鑑みねぱならぬ。されば日本は過軍たると否とを問はず、日本の有する抱負をして彼等の一角づゞ啓発せしめねばならぬ愛子であることを忘れてはならぬ。

 

 米軍の撤兵に依りて、問題に遺されなければならぬものは、西伯利鉄道の一部並びに東清鉄道の管理権を全然放棄するの意か、其の他米人の有する各種権利の擁護は如何なる手段によるべきか、それらの協調が日本と如何なる結果に立ち至るべきか、これ亦重要なる問題であると同時に問題の転回によりては米軍はまた再び西伯利の天地に出兵し来らぬとも測り知り難いもので あると言わねばならぬ。

〔参考〕