日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)17 斷髪令    

2019-08-29 12:41:34 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯

 

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

17 斷髪令

〔日本の勢力衰ゆ〕

 新玉の年事ち返り朝鮮にも千入百九十六年(明治二十九年)の正月が迎へられた。然し乍ら舊年が暗澹の裡に暮れたるが如く新年は陰惨たる程に明け初めた。

 京城市中所々小暴動が起こり、官吏の誰れ彼が殺され、反乱者は却て市中を横行して民を恐させた。日本の勢力は日に日に衰へて段々撤兵し始めた。各省の日本人顧問は免ぜられ、日本の提議によりて成れる諸種の改革は逆轉した。反改革運動は現實に起って來た。政府は全土に信を喪ひ瓦解に近づきつつある。

 国を挙げて不安に襲はれ、所々の暴動は一段と險悪になってきた。他國人にと何でも無いことであるが朝鮮人には祖先の遺風を破壊すべき大事件に直面したのである。と言ふのは千八百九十五年十二月三十日斷髪令が發布さ鼎の沸くが如き騒動が持ち上がった。王妃の暗殺事件にも大君院の專横なる振舞にも國民は大人しく忍んだ自己頭上のチョン髷問題に至っては最早我慢ならぬ。眉に火が着た様なものである。頂髷の朝鮮人に於けるは辨髪の支那人に於けると意味を異にする。
 支那人の辨髮は満州朝廷に対する服従の形式である。夫れ以外に何等の意義を有たぬ。子供の髮長くして組むに足れば即ち辮髪とする。言はば強られたる習慣である。之に反し朝鮮の頂髷は國籍を標榜し、神聖なる祖宗の遣風(或は五
百年來の風俗と称し、或は二千年來の民風ご称する)を顕彰彰する所以である。

 

 假分若年たりとも頂髷を結べる者は一人前の男たるを示し、家庭の呼び名たる幼名を捨て、堂々社會的に名乗りを揚げたる證據となり、誇る可き系図に其の名を列することとなり、妻を娶れる看板となる。中年者であらうと老年者であらうと妻帯せざる者は名無しの木偶の坊であり無力者であり尊き頂髷を頭上に結ぶことは出來ない。
 極々稀には未婚者たる肩身の狭い名と未婚者の印に組み垂れたる總角を隱さんが為めに無理に無理して無け無しの金を掻き集め綱巾、帽子を求め周衣と呼ぶ長羽織を求めることもあるが百人中一人も無い。九十九人迄は頂髷は結婚に伴ふものである。頂髷に対し總角は年の老幼を問はす敬意を拂はねばならない。

 

 頂髷の櫛入式は即ち元服で人事の大禮である。其の子の新嫁定まり結婚の日も近けば両親は財布の底を叩いて衣服帽子等成人に要する調度を仕度し、ト者を呼んで吉日を澤ばしめ、縁起の時刻、方角を定めて貰ふ。比のト者は新郎新婦の運命を左右する專門家で報は頗る高いから昔通には座頭坊主を招いて占って貰ふことなって居る。
 斯くて定められた吉日が到來する家族は一室に和集まり定刻に元服の式か治まる。本人は部屋の中央設けの席にト者が教へた方角を向いて坐する。少しでも向き方が違へば北の日から悪運が一生涯本人を困しめるから最も愼重に注意せねばならぬ。
 それから結髮が始まる。父親の運勢吉ならば父之を行ひ、凶なれば他に適常な人を選んでく。静々と立ら上って今ぞ男になる人の總々と組み垂れたる總角を解く、頂上直徑三吋ばかり圓形に髪を落す、残る髪は之を束ねて今剃った真中程に集め元結で根もとを堅く縛る。縛り寄せた毛は更に長さ二吋半及万至四村位に括って髷が出來る、髷は角の如く天に冲する。

 網巾は馬毛を以て造る鉢巻眉際より後頭部にかけて堅く後年前額骨にさへ型が残る程に締めつける。網巾の上に帽子が乗る、帽子の纓は顎の下に重れる。加冠が済めば周衣とて外套に似たる上着を着せる。これで元服の式を終りて一人前の男になつた譯である。新成の男は衣冦を正し父母より父母其の他家族に成人の挨拶を告げ恭々しく禮拜を交換する。
 次で祖先の位牌に対し供物を捧げ謹で滞りなく頂髷の式が済んで本日元服成人した旨を告げる。真鍮の臺には燭台には蝋燭輝いて之を祝福するやの感がある。式終って宴會となる、成人の待遇を受ける交際の.始りである。夜は父の家に祝宴.が催され友達は悉く招待せられる。

〔帽子〕

 帽子は立派なクレノリン製で重さ僅に一オンス半位、頂鬢は帽子越しに幽かに見へる。所で此の帽子たるや、濡れたら臺なしになって仕舞ふから始修心配の種になって居る。外出する時は扇形に疊んだ輸子蔽ひを必す持参し、之を冠らざる時は飾り立てた箱に蔵むることになって居る。朝鮮では脱帽して人に接するを非禮とし官吏参内して陛下に謁する時は尚更の事、只極親密な友達と和會する時に帽子を脱る位である。硬玉、琥珀、土耳古石などが能く頂髷の飾りに用ひられる。

 若き公達は好んで鼈甲の小櫛を挿す様だ。劍を取りて國家に反抗しても尚保存せんとする程の大事な頂髷の飾としては餘り簡單に過ぎるが別に事変った趣向も見付からなかった。

〔青天霹靂〕

 祖宗より相承けて其の風を紊さず、國籍の證據となり、忠誠の標榜となり、人格の要件たる頂髷に國民が強い執着を有って居るは勿論、子孫に之を傳ふべき不易の良俗心得るのに斷髮令は青天の霹靂の如く国民を震駭せしめた。蓋し此の斷髪令は早くより亜米利加帰りの數子により提議劃策せられ、内閣に於て審議せられ、只だ國民全部の反感を虞れて其の發布を躊躇して居た。

 所が勅令發布前訓練隊の将校三名抜刀の儘内閣會議室に侵入し斷髪分の即時を発布を要求し、苟も政府の使用人たる者は一人残らず先づ頂髷を切すべしと強要した。諸大臣は白刄を見て命が惜しくなり強迫者の言ふが儘になった。只一人之に反對し閔妃葬送後迄其の發布を見合はせることを主張せしが其實は間もなく國王の御裁下を得て十二月三十日に突如として公布せられた。

 次て國王陛下、皇太子殿下及大院君の断髪となり、軍隊と警官が其の範に傚った。翌日の官報は勅令を掲載し尚陛下既に断髪せられたれば官民共に速に之に則り陋習を改めて世界の文明に浴すべきことを通達した。左に内部大臣の告示を譯して見る。

     其の一

斷髪は衛生的で執務上便利である。聖上陛下は行政改革と国民向上の御見地からして最先に範を臣民に垂れ賜ふた。大韓國民たるものは謹んで叡慮を奉載しなければならない。

尚今後服制は左の通り定める。

一、国喪期間中衣服帽子共に白色のこと
二、網巾は爾今之を廃すること
三、洋服着用は各人勝手たるべきこと

臨時内部大臣  兪 吉 春

   十一月十五日     

 

     其の二   

本日御發布になった勅語には左の御言葉がある。

股率先斷髪して其範を爾臣民に示す、衆庶能く朕が意を體して列強と比肩すべき大業の達成を期せよ。

方今革新の期に際し聖旨を拳戴熟読したら、朝鮮國民たる者は感涙奮起せざるものはあるまい。我々臣民たるは心肝に銘じ革新の聖意に答へ奉らねばならない。

                         臨時内部大臣  兪  吉  春

     開國五年十一月十五日

 

〔斷髮令反対の他面の理由〕

 斷髮分が人民に不評判だった理由は元より舊慣を一朝にして破壊するからであった。尚ほ他の理由は斷髮すれば坊主と區別がつかなくなるからだ。朝鮮では僧呂は社會の尊敬を受ける所か世の邪魔者と賤められる、其坊主が髪を短く刈り込んでいる。斷髮令は庶民を驅りて賤しい坊主の風俗を學ばしむるになる勿論である。

 加之一旦頂髷を撤したら何を以て日本人と区別するのか、斷髮は日本風俗の採用である。無論不愉快である。命より大事な頂髷を切り取るのだ。何とかしなければならなぬ。乃ち所謂頂髷騒動が所々に持ち上がった。大官連中も右せんか左せんあか戸惑せざるを得なかった。斷髮すれば暴民の襲撃を受けて動々もすれば命が浮雲ない。斷髮せざれば馘首せられるは必定、今日の栄誉を捨てねばならぬ。
 或る地方では新たに赴任した官吏の頭に頂髷が無かった。之を見た出迎えの群衆は承知しない。彼等は激怒した。我々の郷土は在来朝鮮紳士を牧民官としか戴いて来た。安んぞ知らん今日頂髷なき者来つて我々に蒞とは、賣僧か非國民か、どえらい見幕で詰め寄せ新任の官吏は踵を廻らし京城に逃げ戻った。

〔到る處に悲劇あり〕

 兎も角も斷髮令は朝鮮中に喜劇悲劇を巻き起した。商人百姓など所用あって都に舞ひ上った人達は無理強に頂髷を切らされた。手を髪にやれば最早頂髷は無い。妻に顔逢はす面目もなければ、郷黨の迫害も恐ろしい。帰るに家なく行くに處なき身となった哀れを悲まざるを得ぬ。食糧も薪炭も京城にはバッタリ來なくなった日用必需品は無暗に騰貴した。身分ある人達は年賀の参内もせぬ。仮病を遣って引籠る有様。期くてはならじと使を以て召し出して断髮励行する。宮中にも官署にも到る所の門と言ふ門には鋏(註、キヨウ、やっとこ)の昔が絶へ間ない。或る老人は其の二人の子供が断髮したるを見て憤慨措く能はず世と交りを断って自ら幽囚の身となった。

頂髷なる哉、朝鮮社會組織の基礎は實に挙げて頂髷に繁がれて居る。頂鬢亡びて秩序は紊乱し始めた。

 

〔道尹惨殺〕

 一旦頂髷を切り取った人々は京城を離れて遠く旅行することは困難になった。

地方暴民の憎悪を受け菲道い目に逢ふからだ。京城を距る五十哩にして江原道の首府春川がある。春川の道尹勅令を奉じて斷髮を勵行せんとするや暴民大擧して起り道尹及職員を惨殺し市街を包囲攻撃して之を占領した程である。ウカウカ出歩くことは儉難である。

警官は各城門を固めて入城者を片端から捕らへて断髪してやる結果、正月半に及んで物價は人の生活を脅威し京城内にも一騒動起るべき形勢となった。事態刻々悪化し、凶兆々濃厚にーなって來た。

 

〔國王露国公使館に逃る〕

 果然千八百九十六年二月十一日極東諸国を震駭せしむる底の電報が京城より傳はった。電報に曰く「韓国陛下秘かに宮中を離れ露國公使館に遷御し給へり」。

此の日早朝、天未だ暗きに女官の輿二つ竊かに景福宮を出て露西亜公使館の門内に消へた。其の一は陛下であり一は皇太子殿下であらうとは知る人ならでは知る由も無かった。爾来一年有餘陛下の御座所となつた部屋に入らせられた時は陸下は蒼白となって打震へて居られたさうである。

 抑も此度の陛下御逃竄は早く計劃せられ、一週間前より殊更朝夕に南輿の住來を滋くして歩哨の疑を避けられて居た。而も陛下の御日常は深更政を臠せられ朝御寢所に人らせられるから、貴願大官連が御座所に呼ばれ新内閣組機が進行中の噂が立っ迄は閣員も監視人も陛下は未だ御寢中とばかり信じて居た。露公使館で陛下は始めて周園の圧迫千渉より逃がれ長く失はれて居た大権を恢復せられた。間も無く左の効語が發表せられた。

 

     勅  語

 噫々、朕不徳にして政治宜きを得ず奸臣進み賢臣隱れた。特に最近十年間或は験の股肱頼む人を擧げ用ひ、或は骨肉の人に大政を託して見たが一人も無事に動め上げた者は居ない。連綿五百年の李朝は為めに國礎揺ぎ、億兆益々窮乏になって仕舞った。期のき事實は實に朕の耻辱で汗顔に堪へぬ。惟ふに国歩の艱難は朕の不明と我見に本づく所にして爲めに不逞の徒を化して草賊たらしめた。徹頭徹尾朕の過失である。

 然し乍ら幸にも忠實なる臣民は好臣を除く可く蹶起した。朕は忠臣の苦節能く國歩の艱難を救ひ得て暴風一過晴天を望み得るものと信じて居る。人道は長き壓迫の後に非ざれは自由を実へ與ぬ。天道は長き試練の後に非ざれば成功を許さぬ。朕は仁政を布き徳政を行はんと努力して居る。けれとも千八百九十四年七月事件及び千八日九十四年十月事件の巨魁を許す譯には行かぬ。天人の共に許さゞるには相当の罪科に處せなければなら。其の他は罪の大小を問はず文官も武官も、市民も苦力も共に大赦に圴霑し完全なる自由を享有することが出來る。朕か愛撫する臣民よ。爾の心を改めよ。爾の心を和げよ。行けよ而して爾等の公私の業を勵めよ。

 

 頂髷切りに就いては朕何をか言はむ。其の事たる斯の如く火急的強制的に爲さねばならぬのか。不忠の逆臣が其の権成を振ひ亂暴を働いたのだ。朕が意の茲に存ざるは臣民皆能く承知の筈だ。且つ全国の良民が義憤忍ぶ能はずとして起ち、訛傳に迷ひ爭闘死者を出すか如き亦朕の欲せざる所で鎮壓隊を差遣せざれは動亂止まざりしが如き甚だ遺憾に思,ふ。逆臣北は其の毒手を到る所に肆にして居る。彼等の罪.は双手の指を折っても數へ盡せぬ。髮の毛の數より多いのだ。

 討伐に行く軍隊も朕の赤子なら討伐される暴民も亦朕の赤子だ、伐つも伐たれるも我手で我指を切る様な話では無いか。戦が績けば績く程に運輸咬通を妨げ血を流し屍死を積み上げるに過ぎぬ。兄弟墻に閲ぎて和せなければ國民悉く死ぬ外は無い。悲い事だ。朕は反亂暴動の報を耳にし其の結果を瞑想する時に心緒亂れ涙流れて止まぬ。朕は軍隊が遂に京城に帰還し、反徒は直ちに正業に復するを庶幾つて居る。

 頂髷を切るも切らざるも衣寇を革むるも革めざるも勝手である。當今国民を窘める悪政尚ほ存するも、適當に朕が信頼する政府が之を改むるであらう。民朕が意を體し謬ること勿れ。

         陛下の命を奉し

              内務大臣總理大臣  朴 定 陽 
       建陽元年二月十一日


軍人に賜へる勅語

 國家の否運に乗し逆臣年々事を構へ今復た陰謀を廻らして居る報告を得たる故に朕は皇居を露国公使館内に移した。諸外国使臣亦悉く参集した。

 軍人よ来りて朕を衛れ、爾等は朕の赤子なるぞ。過去の禍亂は皆逆臣の企つる所だ、爾等軍人の知る所で無い。爾等にして誤って逆臣に加担した者も其の罪を宥して之を問わぬ。爾等の義務を盡し謹んで動揺するな。爾等若し逆臣の巨魁趙義淵、高麓善、季斗璜、学範來、季軫鎬、横永鎮等に逢はゞ直ちに首を刎ねて仕舞へ。

 爾等軍人よ朕が居住する露西亜公使館を護衛せよ。

   建陽元年二月十一日 
      御 名 御 璽

 

 同日数千の群衆は斷髮令廃止を読んでる間に内閣諸大臣逮捕の命令は発をせられ総理大臣及農商務大臣は大通りの真中で斬首せられた。血を見て群集は狂った。彼等は総理大臣を以て頂髷斬りの首唱首と認め野蛮極まる方法を以て死屍を責.

    (余白)

 奉安式が行われた。此の日陛下の身辺は憲兵八十名警衛申し上げ、列國使臣も亦御座近く参集して居たが、日本公使館のみは其顔を見せなかったのが人の気を惹いたたのも已むを得ない。軸物仕立になって居る歴代の御尊影(.尤も陛下より遡りて五人の王樣迄)は一々に金鋲打たる函に蔵められ宮廷古式に則りて通御になった。

 これを手始に種々な催しがあり、稍々後れて巨大なる葬壇は麻の喪服を着けたる七百の人夫によりて景福宮を輓き出たされた。前後に宮廷の役員を従へ、官兵に衛られ、豫定の道筋を練って新宮に導かれた。陛下と殿下は新宮の門迄御出迎へになる。長い長い行列が幄舍に入り終って零棺は位牌堂に納められた。堵列見物する群集は静粛に奉送した。此の儀式は既に亡びて再び見られぬ朝鮮古式行列の複活であった。

〔ブラオンの財政整理〕

 千八百九十六年(明治二十九年)七月一日税関事務長ゼー、ブラオン君は勅令により國庫支出の監督となり財政の紛紏腐敗を調査し身を以て其の整理に當り大に成果を擧げた。九月に至り日本の推薦により會議體組織はせられた。其の議員十四名、内閣會議に代るものであった。一朝にして瓦解した改革派の擡頭とも看做すべきであらう。

 

 日本が勢力を張れる時代に企てた悪政改革事業は共に閑却せられ國礎安定を缺き宮内大臣は又は其他の寵臣は再び君寵を笠に着て地位を利用して破廉耻な利慾に耽ることになった。國王御自身も亦常に職員録.を懐にして御手許金の蓄積に抜け目あらせられなかった。日本其の他の制肘を離れて陛下は舊慣に帰り、専制君主にお成り遊した、綸言即法律、君意即絶対の世の中となった。此の間日本はと言へは段々影か薄くなって其の喪へる勢望は露西亞之を捨ひ上けた。然し乍ら朝鮮として此の変革か果して幾何の利益を齎すかは不明である。
 

 



最新の画像もっと見る