1920年、平元兵吾著『日米戦ふ可きか』
二十一 日米戦争の実現奈何(いかん、なりゆき)
果たして日米戦争なるものが、近き将来に於いて実現されるべきか如何、という疑問は今や日本国民挙って、懸念しつつある重大問題である。
隨而、私はここに軽々しくその朦朧たる懸案に対して真否を事実いらしく断言すべきでない。例え、今両国間に戦うべき多くの理由を有していても、我々は開く迄も我々の理性に訴えて判断しなければならぬ。
日本の財政力、日本の軍事力が、現在の如き状態である以上、戦うか戦わざるを論決する以前いまず、まずとるべき道は左の二つしか発見し得ない。即ち戦端を構うることなくして、日米両国利害協調のの一致点を見だすこと、もしこの方法が完全に行われずとあれば、吾は彼を威圧するに足る一層の力を得るにあること、この二途である。
否、両国協調が行われて行われなくとも吾々の力を養うことの緊急は変わりない。
戦わずして両国利害協調の一致点を見出だすことは、云うまでもなく軍事上では守勢的防御の方法で国民全般の覚悟よりすれば即ち両国実業家又は有識者の努力を待ちて、日米共通の利益を図るにある。支那に於いても、シベリアに於いても、何処に於いても両国共通の各種事業の提携即ちこれである。
また商業貿易の旺盛もその有力な一助である。日米貿易は幸いにして、年々これが繁栄を極めてきた。大正6年(1916年)の取引総額は約4億万円にも達して、日本は約2億万円以上の輸出超過を見た。越えて大正7年(1918年)には。例の米国禁輸で大打撃であったが、それでも約2千3百万円以上の輸出超過であった。
解禁後の大正8年(1919年)には、たちまち前轍に恢復し来たって総取引が5億万円以上にも達したのである。斯くの如く貿易関係より見るときは、容易に両国は戦はれるものではないと、この点より非戦論を唱えている者も少なくない。
次に、所謂戦わずして彼を威圧するとは、勿論陸海軍の充実を意味している。分けて日米戦争を予想する時、第一着に憂慮されるゝは、陸軍にあらずして海軍である。即ち海軍の充実問題である。彼の山本内閣瓦解の当時に於いて、政治上の問題を以て、海軍軍政上の問題と混同し、遂に海軍充実の大部分を犠牲に供したのは、洵にもって日本朝野の愚の極を暴露したとともに、返す返すも口惜しき極みである。既往は追うべからず、吾々は将来に於いてこれが懺悔を一日も早く恢復する覚悟なくてはならない。
前にも説明した如く、国際連盟の理想も、遂に理想に過ぎない。
ウイルソン氏の明誠も、彼の仏国レパブリック、フランセ紙が評したる如く、ウ氏の理想の美なること彼の蜃気楼の如しと揶揄されたのを最初として、今やウ氏の高遠なる理想論は、消滅しさって地に落ちた。して其の理想論を産んだ米国は、厭が上にも軍備を充実している。
戦わずして、両国利害協調の一致、戦わずして彼を威圧する。これも現実でなくして一種の理想であるかもしれない。案外下らない一小事件で両国は戦端開始となるかも測られない。戦争の発端は、盲目なる感情の発作であるから、吾々は保証は出来ない。国際競争の極地は、何時でも戦争を惹起するの例が多い。商業競争の緊張は知らず知らず戦争に導くものである。されば日米戦うべきかの疑問に対しても、将来若し日米間の国際競争が今日以上著しく緊張し来れば、或いは日米戦争も開始されはすまいかと案じられるのである。
私はこれ以上深く立ち入って、不確定なる開戦の夢を辿りたくないと同時に、戦争が必ず開始されないかと言うような、子供らしき易者の言致を学びたくない。唯私の此れに付言したきは、日本は全力を盡して国防を充実せしめよと叫びたいのである。
日本の朝鮮統治策は斯くの如く横暴であるという所
果たして然らば、日米間の国際競争が、幾何の程度迄緊張しつつあるかが問題であると言わねばならぬ。前叙の所謂三東問題に関する米人の暴論、シベリアにおける日米軍の不和、加州における排日、志那人の日貨排斥、朝鮮の独立騒動等、これ等は即ち、両国国際競争の齎したる緊張の賜物である。洵に日本国民としては遺憾である。残念である。然しながらこれらは原動力でない、一つの飛沫である。原動力は隠れて吾人には見えない。
そこに緊張の秘密がある。競争の黒煙がある。これは今日以上米国的臭味が、東洋に割り込み来れば、それだけ当然の結果として、より以上緊張の已む無きに立ち至れるべきである。
シベリアにおける米軍の撤兵は幾分其の緊張を緩和し得たが、如何に如何にして再び出兵し来らぬとも限らない。観じ来れば、日米両国における国交は、益々重大なる関係を生じ来りつつあるものであると言わねばならぬ。
不幸にして、日米両国は戦端を構えるに至ったとしたならば、日本国民の打算は果たして如何であるか。国民意気の打算、兵力の打算、財力の打算、此の三打算を一丸として彼に対する時、果たして彼を威圧し屈服せしむるを得るであろうか。
先ず意気の点に於いては、吾は彼に優ること固よりであるが、兵力、財力の二点に至ってはまことに心細いと言わねばならぬ。米国の富力は云うまでもなく世界第一である。
二千九百万億万弗の膨大富力は、日本の到底彼が脚下にも達することができない。見よ千九百十八年度の戦時予算総額は、220億万弗即ち日本の440億万円であったではないか。日本の富力を仮に500億万弗と見積もり、その十分の一、50億万弗の戦時予算を編制することすら、最初より容易ではないという有様である。
次に兵力の点に至っては更に心細いのである。日米戦争は主として海軍の戦争であることは、蓋し何人も異論はない。米国の海軍は大正6年(1916年)大拡張このかた、約3回にわたって拡張計画を立てた。しかるにまた、大々的拡張の計画を為さんとするとの意図ありということである。現在にお於いて、日本海軍消息通の調査した、日米海軍の主力、即ち第一線に立つべき艦隊を比較したのに依って見ると、即ち下表のとおりである。
以上は即ち大正8年(1919年)12月の調査で会って、目下日本は計画中である8年計画の分は、計上されていない。若し新計画が議会を通過した暁には、多少の優勢を示すことが出来得べきも、要するに、近き将来の数年間に於いては米国の大袈裟な拡張計画に追従することが出来ない。日本が拡張すれば、また米国も拡張すると言ったように、殆ど競争的拡張状態で折角日本が充実計画が成れば、忽ち米国に先進される。
先ず右表にあるが如く、米国主力勢力位置に対して日本は常に零コンマ3より6,7の間を往復していると言ったような有様である。
軍人精神の勇壮にして、錬磨またその極に達して他に比類なき日本軍人と雖も、現代にありては、優秀なる武器を有してからの問題である。
着弾距離の遠き巨砲、貫通力に抵抗強き装甲の鍛鋳鉄、快速力標準の進歩せる彼の従来のピストン式に代わるに、タービン式の機械に変化せる、其の他無線電信の強力なる、水雷魚雷の速力進歩と長距離に進歩せる、一艦に対して数台の飛行機を備え付くる等、最新式弩級戦艦の威力に対して、従来の老朽なる艦艇に至りては、殆ど能力の低下せることから、かの艀船にも等しいのである。
如何に優勢なる戦艦を具備しても、これを運用する軍人精神の未熟なるに至っても、これまた其の目的を達すること不可能であるが、要するに兵員の勇壮熟達なるに加えて、世界の大勢に均衡して出来得る限りの優勢艦隊を組織せねばならぬ。況や我が日本の地理的四囲の現象と、某国に対する牽制対抗上、これが緊急必須の義務あることを信ずるが故である。
そこで結局の打算が、現況の如き日本海軍の状態では、大正9年(1920年)が、主力米国の一に対して、日本がコンマ41、来年度が同じく一に対して降ってコンマ3と言うような比例では、今日の場合軍力の打算を以ては決して彼を威圧することが出来ないとともに、恒に積極策を樹立することが不可能であるという結論に達せざるを得ない。
更に経済上の不果実的膨張の今日の状性では、ともに有利的打算を維持し得ないと言わねばならぬ。ここに於いてか、私は国防の充実、いな国防の改造を切実に感じると共に、現在軍事当局の計画しつつある国防策に対して甚だしき不備の点あることを発見しつつあるのである。
〔続〕
1920年、平元兵吾著『日米戦ふ可きか』 二十二 国防計画と仮想敵国