日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)19 千八百九十七年の亰城    

2019-09-05 11:01:18 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯

  

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

19 千八百九十七年の亰城

〔再度の入城〕

  私は一八百九十五年クリスマスに當って朝鮮を去りて支那に遊び六ヶ月間の旅行を續け、夏の三月を日本の男体山に暮らし、一八百九十六年(明治二十九年)十月半ばに又朝鮮に帰って翌年の春迄京城に滞在した。恰も私が日本から仁川に来て、仁川から徒歩で京城に着いたのは十月満月の光冴ゆる真夜中であった。高く聳ち低く崩れた不規則な城璧が繪になるなら日光を浴びた二層樓の西大門も繪であった。開門の手績は容易に渉取らす通譯の李君ど門番との間に稍暫く押間答があった後に鐵鋲打ちたる城門の厚き扉は重々しき音を立てながら数人の手によりて開かれた。私は復た京城裡の人となることが出來た。

 當時京城府尹は代が更って李彩然氏が其の職に在った。李氏は新人であり精力家である。京城は其人を得たと言はなければならない。四時惡臭を放ち到る所行人を惱した埀れ流しの糞小便も餘り目に立たなくくった。夜になれは大路小路には犬眠り猫眠り人一人姿を見せず、灯一つなら漏る窓も無かったのが貞洞即ち外國人區域に着いて見れば露國公使館に至る道々は所々歩哨が立て居る、尤も無様な姿勢で居眠はして居るが私が厄介になって居る家の庭は新宮殿と地鑟で陛下及皇太子殿下は澤山な隨行員を從へ絶へす此處を御通御りなって露園公使館に往来遊ばされる。

〔謁見〕

 着城後後二三日目に陛下は日本皇族接待の爲めに慶雲宮に出御になった。宴會後私は謁見仰せ付けられた。通用門は澤山の歩哨が日本式軍服を着て警戒して居たが曾て断髪令発布後の髪の毛が伸びに伸び耳の後ろに乱雑に垂れ一種の野蠻人を見る感があった。第二の門で輿から下らされ謁見室に参入した。この謁見室を使用遊すのはこれが最初である。横十二呎縦二十呎の小部屋、全體白木造り、窓も戸も障子を立ててあった。陛下も殿下も麻の喪服例のクレノリンの帽子を召され一段高きに御揃で御立ち遊ばせば侍従、御籠姫の朴、玄は無論、其他の女、宮内官等皆規定の喪服を着用して室内殆んど立錐の餘地なき程の人数で裾長のスカートの女達は己を得す其の裾を捲り上げて居た。

 陛下及殿下は莞璽として御會釋遊ばされた。私は教はった通りに三拜の禮を爲し、通譯は宮中禮式により拝跪の儘聞き取り難き程の低聲で通辯申上げた。私が此の前に拝謁したのは正に二年前である。此の二年は陛下の爲めには内豪外患交々至り有為転変叡慮の安まる暇は無かったのだ。けれども陛下は格別憔悴疲労遊はされた風に見上げなかった。

〔陛下御満足〕

 私が陛下の安泰に渉らせられること、御親政の盛なることを御喜申上げたら陛下は如何にも満足に思召されて御答辞を賜はった短時問の拝謁であったが皇太子殿下は往年に比し著しく心身共に健康に復せもたのを拜し種々第言葉を賜ったのが嬉しかった。此の後にも私は新皇居慶雲宮内陛下の御居間に参内して二度程非公式に謁見申上げた。
 御居間は朝鮮第一等の名工の手になれる朝鮮式の建築で瓦葺の深く突き出で、梁には丹青を施し、垂木の端は李王家御紋章五葉の李花を畫いてある。御部屋は温突造りの廣間績く小部屋とは障子を以て隔て、窓も同じく薄葉の紙を張ってある。陛下及殿下の御寝室と覺しく極々手狭の部屋には青絹張りの寢臺が見へる。家具と名くべきは僅かに十枚折の屏風う一双あるのみ、簡素とも極端な簡素振りでてある。

 居間の向川は先っ年の秋凶漢の毒に斃れた給ふた閔妃を祀るお霊屋となり廊下績きになって居る。

〔新宮の工夫〕

 新宮に参内して第一に目を惹くは一旦緩急の場合を慮って逃げ道を工夫せられてあることだ。元より護衛兵は澤山に屯して居るが御居間に参進するに二の門を開き、その一つは露国陸軍士官の詰所に通じ此比處を抜け出たら露国公使館の庭先だ。他の一つは兵營への通路になって居る。露國士官とは千八百九十年秋の頃軍隊組織の為めに國王陛下態々露國より招聘せられたる者で兵営とは露國士官が教練する朝鮮兵の兵舎である。兎角陛下の胸の中には「逃げるには」と言ふ御考が第一に浮んでたに相違ない。
 次に目を惹くは宮中人数の多い事だ。小さい建物は相接して立ち並び其の部屋々々は全く兎小屋同様の混雑である。此の宮殿完成の暁には侍從、宦官、宮内官、書記、侍講、女官、官婢、料理番、使丁、下男、東洋特有の取り巻連中彼れ此れ合計したら千人以上に登るだらう。而して斯くの如く有象無象の群居する兎小屋は圍厳重に警戒せられ私を参内の折りに護衛して呉れた護衛兵すら門内に入ることは禁せられた程である。

〔撮影を許さる〕

 陛下は英國ビクトーリャ女王陛下に献上する写真の撮影を私にお許し下さった。私は撮影の準働を終わり通譯が其旨言上したら陛下と殿下は宮内官と閣員数名を従へ出御になった。陛下は不相変御親切で陛下御正服姿も撮り度くばと夘せられた御正服は真紅の縫ひ模様に金線の縁を取りたる御胸飾り、御肩にも同様の縫ひありて見るから高責の有様であった。陛下は親しく殿下の姿勢やら位置やらに心を配って下さったがそれは無効に終った。撮影後に陛下はカメラを御取り遊し興味あり気に御覽になって喜ばれた。数週後に暇乞の爲めに参内した折に陛下は英國々務大臣の事に話頭を向け其の制度に反対し寧ろ朝鮮の制度を信用遊された。

 通譯が常に閣員任免に震襟を惱まして居られる旨話して呉れた。

 國王陛下は一年以上も露國公使館内に御起居遊ばされ、群臣は一國の元首にして外國公使の保護の下に在るを以て國家的耻辱と心得て甚しく不服であった。元より然るべきであらう。軈(やが)て又た流言連りに起って陛下に舊王城第還御を奏請する由叡聞に達し陛下は露國士官の護衛無くしては閔妃の御霊屋参詣すら暫くは止めになった。

〔露國公使ウエバー氏〕

 期くも信頼を受ける露國公使ウエバー氏は京城に駐箚すること実に十二年、在留外國人の尊崇を受け、朝鮮人民の朋友として暮して来た大政治家である。彼の忠言あって陛下の不当なる官吏の任命を廃し、無法の逮捕監禁を廃し、理由なくして官吏を轉任せしむるを止め、單に形式を整ふるが爲めに各國に公使を派して巨費を投ずるを止め、無用の軍隊警察官を增加して國費を濫用するを防ぎ得たる等の事少しとせぬ。

〔不可思議なる露国の政策〕

 然し乍ら露國の対朝鮮策は一種不可解な遣り口である。露國は懷に飛び込む窮島に恩を賣るとも進んで救ふ親切は有たぬ。露國は肉は自分の肉汁丈で煮る事を知って居る、朝鮮も料理するに人手は要らぬ自分で人の食膳に登って來る時機あることを知って居る。朝鮮が自ら衰亡するは朝鮮の自業自得で他人は知らぬと済して居るのは露國だ。首を吊るのに綱が欲しければ綱造りにも御手するのは露國だ。
 露國はウエバー氏の始き辣腕家を京城に置き而も絶対的の地歩を占めながら他の外國使臣以上に差出口するでもなく、進んで陛下に忠告を事るでもなく、手を拱いて朝鮮自ら内政干渉を慫慂(註、シュウヨウ、さそいすすめる)して來るのを持つ風があるのは不可思議千萬である。

〔日露地位を代ふ〕

 露国の対朝鮮政策の如何は別として、国王が露國公使館内に於て有せられたる自由は必しも朝鮮に利益を齎(註、もた)らさなかった。曾て公道に基き進歩の階庭を辿って居た日本勢力時代の政策に比し惜しい哉悉く反對の方面に萬事逆転して居る。舊時代の弊風は日に復活擡頭し、内閣諸公其他陛下の寵臣は地位を恃み寵を笠に着て臆面も無く賣官を試みて金を儲ける様になった。陛下の愛妾を相手取って訴へた所が原告は間も無く文部次官に任命された。今や陛下は硬骨直諫の臣を遠けた。勢力陛下の上にあった閔紀の制射より免れた。
 曈々たりし日本の勢力は自ら蔭に引き込んだ。玉體は多くの護衛兵に衛られて安全である。李朝代の悪習は芽を吹き返した。幾分の制限はあっても王命は法律でり王の意思は絶對的になった。而も其の意思たるや陛下の愛錢欲に付け込んだ人が、陛下の恐怖心を捕へた人が陛下の寵姫朴氏又は玄氏の何れかに取入った人か、又は閔氏一族が賣官により推薦したる愛妾か嬖臣を抱き込んだ人か、何か一つ陛下の弱點を握れる人々の意の儘な御意思であるから叶はない。
 陛下は十二分の王室費を有し其他にも少からぬ收入を有ち給ひつつ、其の實領土内第一の赤貧者に在らせられる。総體朝鮮では陛下に限らぬ或る官職を有する人の周圍には無数の乞食根性の居候が付き纏ふてアレも頂載コレも賜はれと人の財産で腹を肥す奴等か群って居る。坐して喰へは山も空しやと陛下の御手元は常に窮乏して御不自由勝だ。

〔世は逆轉〕

 世は豢々逆轉して野蠻の古へに戻る。多くの人々は罪無くして獄に投せられた。或は暴徒にして國務移大臣に任命された。金玉均を毅害せる下手人か禮式院長になった。悪徒の生活に終始し而も有罪の判決を受けたる人が所もあらうに司法大臣の椅子に坐った。官を買った役人は國庫の收入を途中で橫取りして腹を肥す。位階を奥へる爲めに三日大臣も出来る。友達やら親戚やらを養はねばならぬ貧乏官吏は官金を使用せざるを得ぬ。高位高官と雖も其地位は不安定である。

 行政に何が何だか薩張り判らぬ。善人ながら意思薄弱なる國王は何にして統治すべきか見当が付かぬ。途方に暮れた陛下は愛妾と日夜耽溺する。其嬖妾と称する者は無學低級、陛下の寵に狎れ、貪懲飽く無き居候の餌食であり時には外国人の道具に使はれる。善政を紊り良制を破り、財政の改善も經済の進歩も行はれ難く、佞臣出でては陛下に盡くる無き浪費贅沢を勧め、整理も改革も手の下し様が無くなった。陛下の治世紊れたらと雖も露國公使館移御以來の如き悪政弊政乱世蔟出した時代は又とあるまい。

〔治績挙がらず〕

 私は好んで陛下の治世を罵らんと欲する者では無い。陸下は個人的には實に叮寧慇懃に亘らせられる、御性格は愛すべき御方に坐まし深い憂國の念も抱かせられる。然し乍ら陛下は朝鮮の現在及将来の運命を雙肩に担って立たせられる唯一の御方である。お人善しで丁寧なばかりでは國は立ち行かぬ。陛下の期の知き御性格、御統治法が朝鮮を不幸に導きつつあることを看過してはならぬ。陛下の祖先は五百年来朝鮮を統治し既に典体統的に府中の事務と宮中の事務は混淆して陛下には其區別が無いかも知れぬ。陛下から見れば公益を廣むるも國事を●(註、?不明)すも寵臣に官を授け嬖妾に財寳を賜ふも同一であるかも知れない。政治とは申乙の閣臣が内閣を争奪する遊戯と御召してるかも知れない。

〔米國陸軍顧問の異彩〕

 日本陸軍士官の敎育を受けたる軍隊の反抗を買って米國人陸軍顧問は遂に失敗したがプチアタ大佐が堂々たる體軀に制服を着用し下僚たる三人の士官と十人の教官を伴ひ行く有樣は京城市中の偉観であった。此のお雇外園武官は勇気を徹底とを信条として教育に從ひ、凛々しい服に演習帽を被り長靴を穿って闊歩する所は常に衆人の羨望の的となった。

〔少年隊〕

 尚ほ京城の新名物とも称すべきは良家の子弟三十七名より成る少年隊が七名の士官に卒ひられ、露國公使館背後の營舎と景福宮近き練兵場との間を日にニ回、太鼓を叩き旗を捧げ、足拍子揃へて往来する光景であった。此の少年隊は二年間露國士官の教育を受く可く厳格なる規則生活をして居る。彼等が兵舍に收容せられ最も驚いたのは下男を仲ふこが出事ぬ事であった。下男は無用の贅沢として厳禁せられ、三十七名の公達は自ら銃器、装具の手入、それも一點の曇りを許さぬ最しさに驚いた。更に一日絶へ間なき猛烈なる練習に魂げた。今や京城に在る兵数四千三百名、内八百名は近衛兵として訓練せられ、地方に駐在する兵数千二百名、小銃三千挺は所謂ベルダン銃にして露国が朝鮮に贈輿したものである。而して軍隊語号令は悉く露語を使用せらるるに至った。

〔露國の野心〕

 朝鮮治安の爲めなら現役兵二千で充分であるのに之を六千に増加せんとするは財源の乏しきを顧みざる無謀なる濫費である。然し乍ら成る可く澤山の兵を露国式に武裝し調練し露国士官に絶対服従の習慣をつけて置くのは露國の飽くなき野心の現れであって、露國は朝鮮人が傳統的に日本人を憎悪せるを幸ひ他日一旦緩急の場合に之を有効に利用せんとする伏線に外ならない。

〔朝鮮軍人〕

 繪の様に綺麗な着物を着て茜染の羽毛の長きを飾って居た憲兵即ち旗守は其の数漸く減じて僅かに大官の徃來に随行するを見る位になった。之に代って巡査が殖へた。而もそれが多すぎる。京城丈けで千二百名もある。此の四分一もあれば澤山だと思ふ。一寸日本の軍服に似た洋服姿にニッケル鞘の劔を吊り至る所五人十人と所在無さにブラブラして居る。
 元来軍隊及警察の編成は日本制に傚ったのだが
過分な俸給を貰って居る。軍人には衣食全部給輿した上に五圓五十錢を與へ、巡査には食料以外全部を給輿して八圓乃至十圓を興へてある。朝鮮軍人は恐らく世界第一の高給者であらう。

 總じて朝鮮人は寛濶なる股引を穿ち、例の鍔廣の帽子を載き、廣袖の上着、周衣の長羽織で服装から言へば文雅温厚の趣があるが之に洋服を着用せしめると獰猛な、不逞な、殘忍な人に変わって権勢と職禄に渇したる無情不忠の漢となって仕舞ふ。陸軍の地方分遣隊は地方人の之を憚ること虎の如く千八百九十七年の殘忍なる撩奪的行爲に震へ上って居る。
 実際軍人の多きは朝鮮には考へものだ。国富に不釣合な程の人数を擁し過分の給興を施して居ては却て力を減殺し秩序を紊乱する基とならとは言へぬ。露國士官たるものは此の點を慮って軍紀を振粛し教育を真に峻厳にせねばなるまい。

〔市街の整頓〕

 京城は到る處不規律不整頼不清潔であるが特に西大門方面及南大門方面に於て甚しかった。所が大通は少くとも五十五呎に其の幅を懭げ、両側に深き石畳みの溝を作り石蓋を以て虎列拉養成所を隠蔽し、横道も擴張して小溝を設け、以前は大通りと雖も自轉車なら無事に走らせられなかったが軈ては馬車を驅っても差支ない程にならんとし、場所を撰んで佛蘭西ホテテル建設の目論見となり、障子戸立てた商店も追々に増加し、汚物を街路に捨てる慣習は法令を以て禁し、且つ汚物一切官費を以て掃除人夫を傭ひて市外に送らせることになった。期くて無類に不潔な都は東洋一の清潔な都にならうとして居る。

〔尹李彩淵氏の功績〕

 都市の美化作業は、特に京城の整頓は大事業であるのに右の如き市區改正を四か月間に埒を設けたの税関監督のブラオン君の誠意と手腕でであって、而も氏をして其の手腕を振るわしめたる京城府尹李彩淵氏の見識技量と謂はなければならない。李彩淵氏は元米國ワシントン府に在って親しく都市事業を観察して帰れる新人であって、市區改正事業の功を全然ブラオン氏に帰せしめ自ら謙遜して其の功を誇らざる紳士的の政治家である。

 私は京城は不潔だ不潔だと繰返して言ったが、舊京城がどれ位不潔であったか一口で之を言へば道は掃溜塵捨場、臺所のお餘りも二便も道に捨てて顧みぬ。冬の日に捨てては凍り、凍る上に捨てたる汚物は、春の日の雪消ゆる頃となればドプ々々に解けて泥の深さは踝を埋める程だと思へば大凡の様子が判る。此の穢き道路を改造すべく前期の事業が起されたのだ。然し乍ら大改造大修築と思った事業は其の實復舊に過ぎない。と云ふのは曲りくねった細道も昔は整たる道路だったらしく両側に道幅を限れる小濤がチャンと存在してるのが発見されたからだ。

〔面目一新〕

 府尹は道路擴張の爲めに取り毀はした家には賠償した。廣げた道路には舊下水道を修理した。新築の家屋は道路面より一定の間隔を置くべきことに定めた。大通りに沿ふた家は悉く瓦葺になった、曾ては璧の裾から温突の煙湧き出でて、行人を惱まして居たのが亜米利加から輸入した石油の空罐を継ぎ足して烟突を作るのが流行し出した。店舗に幾分か整頓の心か仄見える樣になった。今や数哩の間は敵歩路として格好のものとなった、商賣は以前に比して頗る活発になった気がする。店舗は段々充實する。香港上海銀行は支店を仁川に置き、更に京城にも之を設けんとし其利用漸く盛りとなり、京城は繁華の運勢に乗りかけた。

 道路の改築は必しも大通のみに止まらなかった。刺激の強いイヤな臭気は京城から消へなんとし、衛生思想が芽生へ、自分の家の前の雪丈けは自分で掻きのける丈けの公徳心も普及した。私は京城特有の貧民窟を撮影し度いと思ったが夫れ等は早く除去されて容易に見當らなかった。京城の非文明は過去の世に葬り去られ、新らしき京城は日に月に發達する。
 が然し乍ら市區の改造は到底朝鮮式であって泰西の進歩したる式に則って居ない。若し国王陛下が慶雲宮を新築遊ばされなかったらアノあたり一蔕は外国の公使館、領事館、敎曾等を以て理められ、商店は西洋人の経營に成り全く朝鮮趣味を脱したる區域になったに相違無い。佛蘭西公使館は新たに高地を撰んで聳ち露国公使館と其の偉観を競って居る。亞米利加メソジスト、エピスコバル協會も大きな赤煉瓦建を建てた。仏蘭西教曾の建物と共に京城の雙璧である。

〔北京街道の面影なし〕

 或は丘を登り或いは下り、路面凹凸甚しき北京街道は幾世幾代駄馬を疲れせ人を困らせたことであらう。支那皇帝の使臣は派手な行列之れ見よがしに此の街道を通って来たものだ。朝鮮国王は支那の使臣を此の道迄出迎へたものだ。然し今は此の壯観此の儀式は見ることが出来な:なって北京街道の意義が無くなった。 道に迫る岩角は削られ、躓く石は捨てられ、危き穴は埋められ、峠の岩の堀切道は廣められ、岸は平となり、昔の峻道は変して今の大道となり、廣々として往来安全となった。

 桑滄の変は市區の改正、道路の改修に止まらぬ。多年政界の中心人物として偉を振ひ腕を鳴した大院君も事實上幽閉せられて姿を消して仕舞った。東西の王城は其の無数の建物と秘苑玉池と共に空屋となり廃墟となって仕舞った。曾て景福宮に迄も兵舎を作り駐屯した大部隊の日本兵は居留地に引挙げ、其の数は僅かに公使館守備に充つるに過ぎなくなった。真洞一圓外國人區域に塊って居た各宗派の教會は市中到る所に進出發展した。學校と言ふ學校は軍隊的氛分が横溢して非常に活発に景気よくなった。學者も小供も之を飲迎して居る様だ、萬事進歩主義である。但し新舊思想は陰に陽に或いは絡み合ったり渦巻たりする。

〔文部大臣申箕善の著書〕

 滑稽なのは文部省だ。千八百九十六年時の文部大臣申箕善は一書を著はし文部省・参輿官二人の序文を添へ官費を以て出版した。其の第五十二頁に日く「歐羅巴は文明の中心即ち中華大帝國を距ること遠く、彼の露西亞人、土耳古人、英吉利人、佛第西人、獨乙人又は白耳義人の如きは之を人と言はんよりは寧ら野獣に近きものと知るべし。
 彼等の言語は即ち鴃舌にして聞く可らす云々」又た日く「西人の所謂耶蘇教と称するは野卑、淺薄誤謬に充てる蛮族の邪宗に過ぎす、君子の以て論ずるに足らざる所也。西人鬼神を尊んで父毋を顧みす、天を称して世を紊る、斯の如きは一に夷狄の風俗にして吾人の範とすべきに非す、況や時艱にして宗教の要を見ざる時に於ておや。
 近世西人勢に乗じて鴟張を縦にし、地球上彼等の厄を被らざるもの獨り大清帝国あるのみ。而して此等鴟族の尊信する所は耶蘇教に非すや。大清の學者すら又た漸く彼等の誘感汚染に陥らんとす。惧る可き哉」。

 其の第四十二頁には「輓近耶蘇宗は夷狄の敎を以て世界を荼毒せんとし、祖先崇拝の善風は天堂地獄を説く荒唐無稽の邪宗の爲めに覆されんとしつつあり。狂人の囈語到底耳を借すに足らず庶民之を誡むべし。其の第五十頁に日く「嗚呼偉なる哉大清帝國、盛なる哉中華帝國、廣袤並ぶものなく、富は字宙に冠たり、人材雲の如く偉人豪傑世界に比肩する者なし」。此の激越なる官選長談義は外國公使圑に抗議の價値ありと認められた。

〔獨立門なる〕

 北京街道に近く優美なる牌樓がある、歴代の國王は此處に清國の使節を迎へ、清國の宗主権を認め清國ちり冊封を受けたものだ。然るに時世は変化して迎恩門と大字を掲げた此の髀樓は撤去せられて僅に礎石のみ其の昔を語るに過ぎなくなった。而して之に代るべき建築の基礎工事が私の滞在中に進行した。それは千八百九十五年正月の朝鮮國獨立宣言の紀念牌で、名けて獨立門と稱する。門に近き離宮を利用して倶樂部とし之を獨立倶樂部と名け、國民的自治の維持增進を目的とし目下二千の會員があると称せられる。
 恰も獨立門建設の定礎式の當日は獨立倶樂部主催者となって外國公使館員及外國居留民一同を該倶樂部に招待し、交驩の演説が朝鮮人と外國人との間に試みられ打ち解けた宴會が行われた。倶楽部委員は素より漢城府尹、内閣諸公も出席し、主客の間に親しんで狎れず、和して禮を失はざるところがあった。

〔ゼーソンの新聞発行〕

 京城で特筆大書す可きは千八百九十六年四月英韓字新聞「インデべンデント」がドクトル、ゼーソン氏によりて創刊された事實てある。該新聞は一週三回、ニ頁大のもので英文及朝鮮文を以て印刷し、翌千八百九十七年には四頁に擴大し英文と朝鮮諺文とは別刷にする様になった。

 從來自國内の事件すら道聽途説、嘘が八部の又聞きで朧げに推量する位であった朝鮮國民が――流言蜚語を輕信して突き止めた証拠も見ずに喧嘩の押し賣りした朝鮮国民が――一度新聞出でて社曾の真相は敎へられ國民は迷夢を開き、官吏の悪政、裁判の不當に厳正な批判を加へ、輿論を作り得る様になった。一度新聞出でて、影暗き不正を太陽下に引張り出して世を警しめ、合理的教育、正當の改革を鼓推して人智を開き、不正官更、不正官吏は舌を巻いて驚き該いた。

 實に諺文新聞を小腋に抱込んで町々を走り歩く光景と、店々に新聞を拡げ讀む光景は千八百九十七年(明治三十年)来の新規の現象であった。

〔其他の新聞紙〕

 「インデベンデント」紙の外に目今京城には「コレヤン、クリスチャン、アドボケート」紙と「クリスチャン、ニュース」紙がある、二週一回の發刊である。朝鮮獨立倶樂部は新聞「朝鮮」を発行し、政治、學術及海外事情を主として掲載して居るが既に購読者二千に達して居るさうである。

「漢城新報」は日本人の経營に成り日鮮両文を掲げ隔日に發行して居る。尚ほ釜山及び仁川には日本人新聞がある。

〔楔〕

 弱き者、虐げらるる者は衆相倚りて相互扶助の團體を作りて強き者に對抗しなければならない。朝鮮の「楔」はこのために生れた組合であって最も注意すべき組織を有って居る。楔は保險曾社の濫觴に似て相互的利益のアスソシエーンヨンであり、資金融通のシンヂゲートであり、トンチンでもあり、冠婚葬祭のクラブでもあり、商人團體の大なるギルドでもあるし、其他種々の性質を有して居る。

〔團體企業の核心〕

 数多い楔の中私はホンの二三に就き調査したが之を以て察するに朝鮮人の社會生活は甚だ複雑である。甚だ複雑であって而も其の間に欧米に見る可らざる整然たる組織が立って居る。例えば朝鮮中の商人は悉くギルドの組合員であって必要ある場合は必ず相倚り相助くる義務の下に固き團結を作って居る。此の協同の風習及び真面目なる服従は團體的企業成功の核心であって株式会社成立の骨髄である。製革事業は實に

 此の傾向を利用したるに過ぎぬ。従来朝鮮に産する獣皮は生皮の儘日本に輸出し製造したものである。

 朝鮮人は製革業は迷信的に此を賎しんで賎民の手に委ねてあった。所が會社を設立して教師を日本より雇い入れ古来の迷信より脱し有利なる事業を開拓することとなり、其の他の事業も亦會社組織に做はんとして居る。

〔司法行政の混淆〕

 東洋諸國に有り勝ちの事であるが朝鮮の法規の運用頗る感心せぬ。元来司法と行政の區別が立って居らぬ。裁判官即行政官、行政官即裁判官である。外國人と朝鮮人とで制度改正委員が任命されたが朝鮮人委員は脱退の意がある。司法省顧問グレートハウス氏ハシッカリした法律家で同君の意見により不當な處分を阻止した部分もあるあが矢っ張り京城裁判所は不正不法な行政官庁廳と同一である。

 司直の官吏が賄賂を貪って居る。但し高等法院は司法大臣及び次官の監督を受け外國人顧問陪席し重要事件に就て忠告を怠らざるが故に最も有望視せられて居るものの、最近嫌忌すべき醜い事件が起こって居る。乱暴な判決、大ピラな収賄、残忍な仕打ち等は、裁判所として是非改正しなければならぬ事共であると言ふ以上に私は何も書き度く無い。

〔ストリブリング氏の監獄改善〕

 千八百九十六年に行われた大變化の一は監獄の改善であらう。此の改善事業は警察顧問ストリブリング氏に負ふ所が多い。氏は曾て上海警察に在った人で朝鮮に招聘せられ、曩きに日本人により提唱せられたる所に従ひ人道的啓蒙的主義によりて改革を實行して居る。第一拷問が廃せられた。但し最近迄政治犯人か過酷な拷問に逢った噂も立ったから果して全部撤廃せられたかは疑問とせねばならぬ。
 私は東洋国の監獄と言へば曾て小亞細亞、波期及支那の夫れも見た。京城の舊監獄も見た。夫の印象は生々しく私に殘って居る。然るに新監獄は大に舊態を革めて居る。四角な大きな中庭の中央には看守室が建てられ、監房に最早昔の穴蔵然たるもので無い。間取は廣く光線を充分に引き通風に注意し、床は高く疊敷になって居る。私が観察した日は寒くて華氏十八度の気温を示し、囚人は震へて特に私の姿を見ると同情を買ふが如く故意に震へてゐた。結搆なことに彼等囚人は日本式の大浴場を有し、食事は一日二度米飯を大椀に盛り上等の汁を副へてある。勞働に出る折には三度の食事を輿へることになって居る。食費一日分一斤四分の一。

 檻房は概ね十二名乃至十八名を収容し、未決囚五十名は一室に監禁してあった。死刑囚両名は長大な首枷を嵌めて居たが足は見ることか出來なかった。囚人等は皆各自白蒲団を携帯入監するを宥されてあるが褥に體を横へ枕するのが一日の喜びである。大體に彼等は清潔で市中の苦力等よりも遥かに清潔である。床の上に幾つも打抜きの孔を明けた横木があるのは囚人の足を縛って置く木である。病室は薄暗い温突であったが何とか明り窓を作ればよいと思った。
 囚人の数凡そ二百二十五人、皆男であった。犯罪別に分房してないから殺人犯人がかっぱらいと同室するのがあれば、謀反罪に問はれた聯隊長が重罪犯人と共に起臥し、つまらい一市民の告訴により收賄罪に問はれ終身刑の宣告を受けたる朝鮮第一の高官が首枷を嵌められ穴蔵の様な所に監禁されて居た。刑期は必しも罪の大小に比例せものと見へヨボヨボのお翁さんが他人の山の松を切って薪に持ち歸った科によりて三年の懲役に處せられたのがあれば、身許賤しから盲目の老人か他人に煽動せられ墓地を發(アバ)いたから十年の禁錮を申渡されたのがある。
 依って按ずるに監獄改善は既に多くを爲されたけれども、尚ほ爲すべき多くが殘って居る。就中囚人の分類最先に試みらる可きであらう。さはさりながら京城監獄は支那の監獄に比すれば格段の相違があるし、其他東洋諸國の旧式監獄に比し数等上等である。

 拷問は少くとも名義上禁止せられ、首を梟し死屍を鞭つ等の蠻風は日本の勢力時代に終を告げた。私は午過ぎに監獄の視察を終った時に僅かに二年前に三つ竹にブラ下って居る生首を見たり、首無しの胴體が血に塗れて道端にころがってるのを見たろした事が夢の樣で自分乍ら真實とは思はれ無かった。



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