日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)16 女房、巫子、白拍子(続)「巫子、白拍子」    

2019-08-25 21:10:40 | 朝鮮・朝鮮人 

 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯

 

 

 

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

 

 

16 女房、巫子、白拍子(続)



〔巫女〕

 又の日私は他の集りに出席した。其の集りは賢さうな信者が澤山に参集して居た。この集りの日私共は鬼神崇拜には無くて叶はぬ儀式に出會った。何でも病気の源だ!恐れられる悪魔の様だ。私は二度平壤に來たが二度乍ら夜に昼に太鼓の音がどんどんと鳴り鐃鈸が尹ャーンと鳴るのを聞た。今日も此の音が連りにするので私達は音する方へ近いて行った。

 行って見れば小さい荒屋の裡に大病人が臥せって居る。窓の外には蓆を引きして台を据へ、台上には餅、飯、煮島、萠し豆其の他種々の供物を載せてある。供物の前には三人のお婆サンが蹲まり、其のニ人が大太皷を叩き一人か鐃鈸を書して居る。お婆サンに向ひ合って緋色の衣裳に紗を羽織り、絎は長く床に引摺る程の筒袖せる巫女が紗の帯締めて立って居る。そして髮は日本の社に見る御幤に似たる紙ぎれを以て飾り、紗の帽子を載き、餘りゾットしない服装である。扇子を持参しては居るが之を用ゆる踊りは少い様だ。左肩に色とりどりに塗り立てた棒を擔ぎ、棒の先きに銅鑼を吊し、唄に合せて拍子をとりなら時々叩いて居る。一渡り踊りが濟むと供物を小皿に集めて鬼神に勧める。此の時「此の上にこの家を困しめ給はぬ様にお祈り致します、私共は御好きな物を拵らへまして御気に召す様致します、どうぞ病人をお助け下さいまし」と祈願するのである。
 尤も此の巫女なる者には有力な鬼神が乗り移って居るものと信ぜられ、其の呪文により病人を苦しめて居る鬼神を追ひ出すのだそうだ。若し病気が癒えなかったら更に澤山の供物を供へ、一層強い鬼神をお招きして巫女に乗り移って貫ふ外は無い。

 

 私共が見たお祓ひは翌朝四時前後通して十四時間績いて漸く効驗現はれ、病人は稍々気持よくなったさうだ。蓆ろを廻りて群る人は重に女子供だが、彼等はこの中に疉み込んで行くのである。

 

〔狂女〕

 私が平壌で宿った宿屋は普通の宿屋と違って客主呼ぶ仲買業兼営の宿屋である。通譯の林君は都の宿の特に西洋人珍しさに群る見物人に閉口して退いて呉れ退いて呉と絶へ間なしに追い拂った。但し一人の狂女と白拍子は例外として歡待した。彼女は容姿湍麗なる美人で私が平壤に来てから毎日毎日朝から私に付き纏って離れない。見物に行く時も教會にお詣りする時も私の側を離れなかった。其の言ふ所を聞けば私は彼の女のお祖母さんださうな、だから孫の彼女は到る所にお祖母さんの世話を燒いて呉れるつもりなのである。思へばイヂラしくも可愛想にもある。

 此の狂女は以前平壌府尹の妾であった。そして彼女が避難する以前に平壌は日清戦爭の戦場と化した。而も彼女の眠前で支那兵は日本軍に征め立てられ銃劍の犧牲となって血烟を擧げて死んだ。殘殺の悲劇を見た彼の女は身も消へ入る程に驚き且っ恐れた。哀れな彼の女はそれから気が狂って仕舞って魂の抜けた屍を引摺って行く。行く所に情知ら群集は彼の女の後を蹤けて笑ひ罵り囃し立てて居る。

 

〔官妓〕

 平壌は白拍子の名産地として名高い。白拍子と唄女のこと舞妓のこと、最もよく日本の藝者に似て居るもの政府の手に養成せられ宮中の玲人と共に政府の監督の下に置かれてある。故に普通之を官妓と呼んで居る。彼等はまだうら若く稚児の頃より弾琴、謠曲、簽、舞踊、詩歌を始め女の嗜を仕込まれ読み書き手習繪画に至る迄普通の女の敢えてせぬ事に熟して居る。

 白拍子の役目は上流縉紳の間に雑りて接待に努め気持よく時間を過させることだ。朝鮮人が其の妻の無智たると無識たると少しも意に介せぬのは之れ有るが為だ。何時も華美な衣裳を着て、暇ある時も遊ぶ折も平壌の泥道を行くさへも、目も醒むる粧をする。そして幽囚生活より解放せられ幼き頃より男女の自由交際を續け來れる彼等の所作も態度も勝れて麗はしい。敢えて朝鮮と謂はす東洋の舞踊は穏かな所作事で決して活発な不作法な振舞をせぬ。

 

 亞米利加公使館秘書官ドクター、アレン氏はコーレアンレポジトリーに舞踊の事を書て居る。或る時王室の御招待で蓮華舞なる舞踊りを見た。見ると舞臺には將に綻びんとする大きな蓮華を壺に挿してある。鶴が二朋現はれて羽ばたきをしたり嘴をパクつかせたりして蓮の花の美しさに見とれて踊る。其の踊は實に見事である。鶴は静かなる音律につれて段々花の側に近寄ってトウトウ花欲しさに花を壺から引き抜く、引き抜かれて搖るる花から紅の花弁が散る、散る拍子に花の精の小さな綺麗な白拍子が現はれる仕組みである。元より二羽の鶴はピックり仰天するが見物する若き公達の喜びたらない。

 

〔妓生は人妻たり難し〕

 男を惱殺する情を含み傾城の粧を有する美妓は多く平壌から出るが夫等は必しも平壌生れとは限らぬ。嬌名天下に馳する者は八道の何処から出て來るか判らなぬ。上は皇帝陛下より下は下級の官吏に至る迄多少の産ある者は宴席に舞妓を侍らせて興を添ゆるは欠く可らざることとしてある。白拍子は外務省の宴會にも陛下賜宴の際にも京城近郊の野遊にも必す唄ひ興じ舞ひ踊ることになって居る。而も普通の紳士と雖も必要ある時は白拍子を政府から借り受けることも出来る。

 彼等は期の如く高位顕官の間侍して見聞を廣め藝道の修養を志し普通の婦人に比し数等の智識を有しては居るもの、決して人の正妻となることは出來ぬ。日本に藝者が責族或いは政治家の妻となる風習あるに比すれば遥かに賤しきものに看倣されて居る。

 

〔恋に悲しむ〕

 朝鮮内房生活に通じて居るドクター、アレン氏に言はせると白拍子は曾て恋を知らず夫の愛情を知らす只正妻の虚名を宿して居る夫人にとりては気を揉ませる種である。由来朝鮮の昔噺には白拍子に繞る家庭の不和やら、若き公達が白拍子に恋して恋されて夫婦の約束は固めても世の慣習の冷さに遮られて泣くことやらが頗る多い。妻は空閨を守るものと定められ、空閨を守る妻いいじらしと同情して我子の耽溺生活を悲む父も、幾年の昔同じく白拍子と甘き恋に陥り其の父をして悲しましめた人に相違無いのである。

 

〔宴會〕

 私の宿れる宿屋は前に書いた通り宿屋にして問屋を兼ねて宿る客は概ね商人である。宿の亭主は客の為めに口銭を貫って商売の世話をすることになって居る。だから毎日呼んだり呼ばれたり取引上の宴會が績く。李君其の度毎に御馳走になって居るから出立の前の晩に李君はお返へしの意味で皆の爲めに一タの宴を開いた。お客一人に就きセントゼームス、レストーラントの晩餐位の費用を要する。

 

 朝鮮では静かなる宴會は無い。宴會とは喧噪會で聲を限りに唄ひ怒鳴る猛烈な集りある。尤も宴會は旅館に限らぬ實は平壌を擧げて宴會場と心得て居る。公人の家は來客の爲めに開放せられ主人の接待馳走の費用として毎日少くとも六十弗を降らぬさうだ。有閑有産階級の人達は隙潰しに家から家に飲み廻り喰ひ歩いて居る。想を練るでも無く智見を廣くする譯でもない。又た政治を論する――政治を口にすることは其の身が危い。酔生夢死、只た僅かに宮中市中の出来事を話し合ひたわいもない噂の交換する位である。

 内房又は内室に対し舍廊とは男の部屋であり客間である。此の部屋には來る者は拒ます去る者は追はず案内無くして訪問勝手である。上品な家庭では此の舍廊で朋友和集り詩文を作り之を評して楽しむが此の部に屬する人は最も少数である。詩文とは勿論支那の詩文である。

 

〔道聴途説の國〕

 以上は両班階級の様子であるが常民は酒色に耽る隙はあるも金が無いから無駄話で日を暮らす。或いは路上に佇んだり門前に蹲んだり時には宿屋の一隅に陣取ったり愚にもつかぬお喋りを無限に喋べる。其の中何か新らしい事を聞き出すと尾をつけ鰭をつけて觸れ廻る。噂は噂を生んで話は段々大きくなる。 

 甲も乙も誰も彼も、春の日永も秋の夜長も、耳と口とで日を送って行く、朝鮮は實に道聽途説の國、流言輩語の國である。一旦聞いたら真僞を問はす話さないでは置かぬ民である。自分の事は僞はらざる告白を爲し得ない癖して人の事なら不謹慎を極めて憚らぬ。胸に持ち耐へることを知ら國民である。家には澤山の人が同居しながらお互に信頼し和愛する家庭の情合を知ら國民である。男の子は早く、内房から引き離されて朝夕不規律な不實な生活を見聞し何時とはなしに自尊自大の風を養ひ婦人を虐待し輕蔑することを覺へて來る。

 

〔江を下る〕

 私は小さい小さい舟に乗せられて大同江を下り保山に着た。一行六人と其の荷物を載せて二十哩六時間の波の上は心細かった。心細い六時間の後にハリオン號の姿を見た時は嬉しかった。其の實私は保山に船が來て居るのやら何等の確報を手にしないで冒険的に江を下ったのだ。幾日かを過し様々の事を見聞した平壌を捨て將に使船に乗じて別れを告ぐる身には名殘が情しい。

 領事カールス君が語る如く平壌は商業地として充分の資格を具へて居る。大同江は市を過って舟揖通すべく格好の河港である。此の河口を利用して大豆を出し得べく棉花を出し得るだらう。事實多少の豆と綿は江を下って黄海の対岸牛荘に送られて居るでは無いか。饟鑛は江岸に橫はり金鑛は二十哩の彼方にある。豊富なる石炭亦師顧の間に埋れ、毛皮は現今人肩馬背によりて仁川送られて居る。加工絹工業地として將來を囑望されて居る。平壌には未来がある。

 

〔大同江の史實〕

 大同江は史實に富む。箕氏は五千の部族を伴ひ此の江を遡って朝鮮の始組となり交化の建設者となり平壌に都を奠めたのだ。江を下りつつ三千年前箕子の築けりと稱する域壁なるものを眺めた。江の右岸に沿ふこと約四哩にして北に折れ、其の向ふ所の岡に箕子の廟がある。流域一蔕土地肥へ能く耕やされて居た。支流も尚ほ小舟が絵に似たる遠き連山の麓迄通ふと聞いた。

 

〔強いてハリオン號の客となりて〕
 ハリオン號には乗り込みさへすれば大丈夫だ。綺麗な室を有する乗り心地よき船だと聞いて居る。霧雨に濡れそばち、足も伸ばされぬ窮屈な目に数時間逢って來て、私は未だ汽船に乗り移らぬ中から嬉しさ楽しさ心地よさを想像し早く乗り度いと懇望した。ハリオン號は今日本式の艀に取り巻かれ舷門には日本の兵隊が群り、士官は荷積を指揮して居る。私達は舟を艀に縛いで一時間餘も雨の中に待ったが何の昔沙汰も無い。耐らなくなって李君は汽船に懸合に行ったが待てど暮せど歸って來ぬ。

 

 其の中に宵闇の暗くなってから李君は漸く顔を出したが懸合の結果は船室は一つも明いて居ないから陸に上る外道無いとのこと。陸に上ればとて宿るべき家は無い。家が在っても待つべき船は無い。ハリオン號が今年の最終船だ。今更途方に暮れるべき場合でも無い。私は汽船に駆け登った。林君は私の荷物を取急ぎ船に担ぎ上げた。南は降る、風は吹く、濡れて寒い、覆いも無き甲板に下等船客然として込み合ひ押し合ひ小さくなって居なければならなかった。日本兵と兵站將校連がいい場所は皆占領して仕舞って居るのだ。

 季君は朝鮮の官吏である而も日本兵は彼のめに非常に便宜を得て居ながら待遇の方法を過って居るとして立腹して顏膨まして居る。此の船は兵站部の御用船で仁川に寄港し長崎に行くのだ。私共はほんとうに心ならずも厚かましい厄介者になったものだ。寳際船室は一つも明いて居ない。最初に連れられた所は全然日本式であったが間もなく兵站部將校の部屋に都合して貰へたのは有り難かった。

 

 事務長は朝鮮人であったが面喰って姿を隱して仕舞って見当たらない。背の低いキッとした男が代理して居たが其の男中々に如才ない仕事の隙を求めては手帳手にして英語の稽古に來た。事務長は只一度元気を振って「日本人は嫌いだ。己達の船を勝手にや爲がる」と怒たのを見た限りついぞ顔を合はせなかつた。

 幸に海は穏やか快晴だった。鎮南浦に約一日停泊し、保山出帆後第三日目のタ方、唐紅に沈み行く日を眺めつつ、又しても懷かしき仁川に上陸した。

 



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