日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』 國家組織と社會組織

2024-02-21 22:34:12 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』

  
  

 
   
國家組織と社會組織
 

 端的に云へば
支那は國家でなく、民家の寄り集まった一つの社會に過ぎない。
民衆は、多年無慈悲なる統治者によって、苛められ、搾取せられ、
そして然かも年々北方の寨外民族からは、迫害を受けて來て、
ツクヅク、政府の不甲斐ないのを、熟知すること、ここ四千年。

 政府が、自分達の實生活に、寄與するところのないことを、
ツクヅク政府の不甲斐ないのを知って居る。

 従って彼等は、自ら自己を保衛するのに急であって、
また他人をアテにしない。加ふるに支那の社會的實況と、
民衆の間に行はれて居る利己本位の宗教的観念とは、
人の為めに奉する義務犠牲の観念から遠ざかって、
極度に、自己防衛のみに專念する
やうな状態となり、
これ等の思潮は、相率ゐて國家否認の思想となり、
統治者を呪ふ心理となる。
 
 殊に歴代の政府は、何等かの名目で、
金踐を横領し徴収し、税金を横領し、
權力を笠に着て、賄賂をフンだくるし、
さらに軍隊は、その上に民衆
を、武力を以って搾取する。

 ところが人民も、また斯んなことには諦めが善く、
天災、水災の外避け得られないものに、兵災と云ふやうなところで、
安心立命して居る。

 兵災と云ふのは、兵乱や、掠奪やらのことである。

 内乱の度ごとに、今年は兵災だからとて、
沒法子(仕方がない)と諦めると云ふのが、支那人である。

 彼
為政者、軍隊に對する人民の観念は、斯の知くであるから、
その結果勢ひ自衛の團結たる自治の社會が出來、
自存自立の集團が出來て、利害相通する一村一族、または同一業者が、
一つの結社結合を形成することになること、上述の如しである。
 
 話が少し横道にソレたが、上に述べたところだけでも
『支那は社會ではあるが、國家の形態を備えて居ない」と云ふ命題が成立っことが分らう。

 前にも述べた如く、この國民には、國家思想と云ふものがない。
また從って国家観念がないのみならす、
國内の政治も、亂脈なる場合が多い。

 彼等は自からを、中華など、云って、ま威張って居るけれども、
實際のところは成って居ない。

 例へば、清末の革命以来ことにここ20年になるけれども、
その謂ふところの統治の内容を見たならば、法律関度は整はす'内治は擧らす、
さらに警察でも、刑務所でも、官吏の服務でも、
有らゆる方面に於いて、國家の實質を備へたものが一もないと云ってよい位である。

 孫文出でて、三民主義、五憲憲法なぞと、一廉心得たやうなことを云うけれども、
總てこれ口頭禅。官吏の搾取上の新看板に利用された外、
何等の實質もないと云ふのが、遺憾ながら事實である。

 斯くして支那は、依然として四千年来の郷村政治であると云ふのが、
適評であり、少なくとも近代的國家組織の要件を、備へて居るとは云へない。
すなはち表面的にも實質的にも、世界稀れに見るの非法治國である。

 支那を斯くならしめた原因の一つは、
この國民の極度の融通性、御都合主義にある

 彼等は、外國を眞似て憲法を作り、法律を發布し、商法、民法を公告して居るが、
一度その制度の運用を直視したならば、全くアキれ返る。 

 例へば司法制度の内幕を窺って見よ。
その裁判が、如何なる事を爲しつつあるか。

 その刑務所が、如何なる状態にあるか。
統治者は、無裁判で以って、死刑やら、首切りを、今尚ほ平然として行ひ、
青龍刀を以ってする野蛮なる首切りと、街上の晒し首とが、
今尚ほ公然と行なはれつつあるのである。
 重ねて云ふ。彼等は御都合主義である。

 さらに禪學者でもある。
故に二と二を加へて、五にもなれば、
その時の風向き次第で、三にも
なること位は、平気の平左である。

 従って刑法でも、民法でも、そめ時の賄賂と袖の下次第、彼等の風向き次第で、
如何やうにも變更し得るのである。
彼等は端的に云へば、法的無責任者なのである。

 それにも拘わらず、彼等が、國権とか、愛國とか、八釜しく云ふのは、
彼等の對外、對内上の一種の體面からであって、
外國に對する必要上からのみ、國家と云ふことを意識するけれども、
支那人なるものは、煎じつめたところ、個人以外には、何ものもない民族である。
  
 だから支那人の用ふる國家とか、國民とか、愛國とか、国權とか、国益、國境などの言葉は、
悉く『國』の字を取り去って『我』と云ふ字を、置き換へるべきもの
であり、
然うすれば意味は極めて明瞭になってくる。

 また、従って愛國とは利權回収とか云ふものは、名前は堂々として居るけれども、
所詮は我利、我欲を遂げるまでの売名的看板に過ぎない場合が、頗る多い。 

 支那人の統治観念は、前にも述べたやうに、國威の及ぶところ、
すなはち天下である。『天下は天下の天下である』との観念が濃厚である。

 すなはち蝋燭の火光の及ぶところが、天下なのある。
従って國境観念などは、極めてアヤフヤであり、
この民族は、何處までも超國家的の民族であるか、
分からない一種のコスモポリタンであると云ふ、
強い印象を受ける。

 國民教育などと云うものも拠るべき根拠はなく、
孔孟の教のようなもので、為政者の便宜主義から、
利用せられて居たに過ぎないし、社會主義、共産主義の如きも、
早く四千年の昔から、唱へられ、考へられて来たと云う國柄で或る。

 かかるが故に彼等に取っては、國家組織など云うものは、
他人の着ているオーヴァー・コート見たやうなもので、
彼らに何等の實在と利害があるものではないと云ふものは、
當然以上の當然でなければならなぬ。

 これを要するに、漢民族は、謎の民族である。
ユダヤ民族と共に、世界に於ける最も頽廃したる、
然かも社會的、民族的には、未久不減の民族である。

 支那人は、能く我等に向って云ふ。
『我々はアナタよりも、数百年だけ、文化が進んで居る。
 だからモウ二、三百年も経てば、歐米人もアヘンを吸い、
 麻雀もやる、賄賂も取ると云ふことになる。 
 さらに五、六百年もすれば、日本人も、我々と同じ程度の個人主義となり、
 バクチでも毒殺でも、アヘンや、モヒでも朝飯前になる』と。

 これは彼等の眞實なる半面を遺憾なく發揮するところのエピソードである。

 つまり支那人は、散砂の如き民族である。
水か、
セメントか、強力な媒介者があれば、團結し得るが、
一度強力のタガを取去れば、砂は何処までも砂である。

 個人として、良好なる勤勉家であり、
個々の砂は、堅實そのものであって、永久に不減であるが、
他力なしては、國家組織などの出来る國民ではない。

 再言するが、支那は、國家でなない、社會である。
 或は民衆の集團村である。



最新の画像もっと見る