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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「日本的言行」 第一日本的言行 二 道そのものと道の説明  三 聖人の教と祖先の遺風

2016-10-16 20:05:06 | 大川周明

                                          
大川周明「日本的言行」

第一 日本的言行 


二 道そのものと道の説明 

 太宰春台が日本に元来道なしと主張したのは、
事実と説明と混同せるもの、一層詳かに言へば『道そのもの』と『道についての教』とを混同せる者であります。此点に関しては、平田篤胤が共著『入学問答』の劈頭に説くところ、実に其妄を論断して適切無比であります。
彼は下の如く言ふ――『一体真の道と申すものは、実事の上に備わりあるものにて候を、世の学者はとかく教訓の書ならでは道は得られぬことのやうに心得居り候へども甚だの誤りに候。その故は実事があれば教えはいらず、道の実事無きが故に教は起こり候なり。されば教訓と申すものは実事より甚だ卑しきものに御座候。老子の書にも大道廃れて仁義ありと申候は、ここをよく見ぬき候語に候。』

 まことに篤胤の言の如く、春台が日本に道なかりしとせるは、
道の説明なかりしを道そのものがなかりしと速断せるものに外ならぬ。われらの祖先は常に自ら『言挙げ』せぬことを誇りとし、いたずらに議論を多き支那人を『言さへぐ唐国人』として蔑しんで居た野であります。かかる祖先が、道徳に関する論議後世に遺さざりしを見て、直ちに道徳的意識なかりしかのの如く考えるには、驚くべき断見といわねばなりませぬ。

 吾等の祖先が如何なる生活をして居たかを知るためには、祖先の言論に非ず其の行動を見なければならぬのであります。

 而してわれらの祖先の行動は、些かも包み隠すところなく、
古事記・日本書記乃至万葉集等の古典に書き残されて居ります。われらはこれらの古典を通じて、われらの祖先の生活が、啻に春台の言の如き非道徳のものならざりしのみならず、実に雄渾荘厳なりし事を認めざるをえませぬ。吾等の祖先は、自ら『天の益人』と称へて、崇高なる自尊の念を抱いていたのであります。天の益人とは、天意を奉じ弥栄え行く民の意味で、取りもなおさず天意を地上に実現すべき使命を荷へる民の意味であります。天は即ち神であります。神はすなわち至高の理想であります。

 而して至高の理想の具現者は皇祖皇宗であり、
天皇は即ち皇祖皇宗の延長に亘らせられる。故に天意を奉ずるということは、天皇の大御心を奉ずることに他ならないのであります。かくて天皇の大御心を奉ずる日本国民が、一人でも多くなれば夫れだけ至高の理想が地上に実現されて往くというのが、実に吾等の祖先の自覚であり自信であった。

 之を今日の吾が同胞が欧米の人口論に魂を奪われ、人口過剰などと唱へて日本民族の繁殖を却って持余して居るのに比ぶれば、その意気の差は、天地雲泥の如きものありと言わねばなりません。

 吾等の祖先は晴れたる空の如き朗かなる心を以て生活し、常に『清き明るい心』を有たんとし、常に『天晴れ』の気持ちを失うまいと努めて居ました。これを公明にして 雄大なる理想を奉ずる者ののみが能くすることであります。

彼等の祖先は是くの如き理想と自信とを以て日本国の建設と契約に従ったのであります。

 而して此の態度と精神とは、
戦争の場合において最も顕著に現れております。彼らの戦争は実に『まつろわぬ』ものを『まつろわす』ために他ならなかった。まつろふとは祭り合ふこと、即ち同一の神を崇拝すること、従って同一理想を奉ずることであます。彼はかつて私利と貪欲の心を以て戦はなかった。彼らはその誇りとする細戈(くわしほこ)――精鋭なる武器を執って起こったのは、実に同一理想を奉ぜざるものをして、彼の理想は奉ぜしむるためであったのであります。それ故に如何なる敵といへども、一度びまつろひさへすれば、悉く吾が同胞となり、相携えて至高の理想を実現するために精進することができたのであります。かくてこそ吾等の祖先は、天壌と共に弥栄え行く国家を建設し得たのだ。

 

 是くの如き国家を建設せる其事が、
何よりも雄弁に祖先の荘厳なる生活を物語る者であります。そは『道といふこと無かりし』民の決して能くする所ではありませぬ。さらば吾等をして再び本井宣長の言を引かしめよ。

 『皇国の古は、さるこちたき教も何も無かりしかど、下が下まで乱るることなく、天が下は穏かに治まりて、天つ日嗣いや永遠に伝わり来ませり。さればかの異国の名に習ひて言わば、これぞ上も無き優れた大道にて、実は道あるが故に道てふ言なく、道てふ言はなけれども道はありしなり。そを事々しく言ひ挙ぐると然からぬとのけじめを思へ。

 言挙げせずとは、異国の如くこちたく言い立つることを云ふなり。例えば才も何も優れた人は言い立てぬを、なまなまのわろ者ぞ、反りていささかの事をも事々しく言ひ挙げつつ誇るめる如く、漢国などは道乏しきが故に、かへりて道々しきことをのみ言ひ合へるなり』


 

第一 日本的言行 

三 聖人の教と祖先の遺風 

 東西の歴史が明瞭に示す如く、
一教一派の祖師は常に混沌乱離の世に出現しています。老子が道波はせるが如く、仁の教は大道の廃れたる時に興り、宣長は指摘するごとく、道なきところに却って道々しき言挙げが行われるものであります。孔子も釈尊も基督も、みな乱世か亡国か、然ら袁世に生まれて居ります。

 

 彼らは道なき世に生まれ、
人々が道行はざりし時に、之を正しき道に復帰せんと努めた偉人であります。それゆえに彼等は、謂はば魂の医者であり教は病める魂の薬であります。そは薬であるが故に決して糧食ではない。基督は、右の頬を打たれたら左の頬をも、せと言ひ、上衣をとられたら下衣を与へよと教えて居ります。 

 

 住む当時の猶太人が、
それほど激烈に戒めなければ尋常の人間に立ち帰らぬほど、貪欲苛酷になって居たからであります。釈尊の説くところは厳格であり、実に婚をさえも成道の妨げとして居ります。それほどまでに戒めなければならなかったのは、当時のインド人が性欲的に激しく放肆であったからであります。
 孔子の教は両者に比べてはるかに穏当ではあるけれど、尚且礼儀三千威儀三百といて居ります。それは春秋戦国の乱離に滅び去らんとせる周代文化を、如何にして護持せんと苦心せるが故にほかなりませぬ。

 かくて此等の教は、吾等の精神のための薬であり、
われらの魂の病はこれによって癒されるるが故に、固より謝恩の心を抱いてこれに対さねばなりません。さりながら吾等は、此れを以て日々の糧と思ひ違えてはならぬ。此等の教訓は決して一々守らるべきものではない。若し強いて守らうとすれば、現地の生活の間に矛盾杅格を来たし、必然に無理を生じて偽善に陥ります。吾等は幾多の例証を、牧師や僧侶の生活に於いて見て居ります。

 されば吾等の生命の糧は、
決して証人の教えに非ず、実に祖先の遺風であります。祖先の遺風を守ることが、取りも直さず健全なる日本国民の生活であります。吾等の古典は、教を説かずして遺風を伝えて居る点に於て、吾々の生命の糧として無比の宝であります。孔子が一巻の教訓をも遺さず、ただ唯春秋を著せるせることを思へば、孔子の本旨もまた恐らく祖先の遺風を伝えんとするに在ったのであろうと思います。

 さればこそ『吾が志春秋に在り』と言ひ、また『我を知る者はそれた“春秋か、我を罪する者はそれただ春秋か』と言って居るのであります。然るに志那に於いては、孔子の此の真意が充分に会得せられず、却って其の『教訓』のみが持囃されて来たのであります。

 


大川周明 「日本的言行」 第一 日本的言行 一 太宰春台と本居宣長

2016-10-15 21:54:43 | 大川周明

                 大川周明 --ウィキペディア    

大川周明 「日本的言行」

第一 日本的言行 

一 太宰春台と本居宣長

 「日本には、元来道ということ無之候。近き頃神道を説く者、いかめしく我国の道とて高妙なるやうに申候へども皆後世に言ひ出したる虚談妄説にて候。日本に道ということ無き証拠、仁義礼智孝悌の字に和訓なく候。凡そ元来有る事には必ず和訓有之候。

 和訓なきは元来日本に此事無き故にて候。礼儀と言ふことなかりし故に、神代より人皇四十代のころまでは、親子兄弟叔姪夫婦になり給ひ候。その間に異国に通路して、中華の聖人の道此国に行われて、天下の万事中華を学び候。
 それよりこの国の人礼儀を知り、人倫の道を覚悟して禽獣の行いをなさず、今の世の賎しき輩までも、礼儀に反く者を見て畜類の如く思ひ候は、聖人の教えの及べるにて候、日本の今の世を見るに中華の昔に及ばずといへども、天かは全く聖人の道にて治まり候と存じ候。
 日本はまた殊に小さき道ちて政を助くること能わず、畢竟諸子百家も仏道も神道も、堯舜の道を戴かざれば世に立つこと能わず候」

 この驚くべき言葉は、太宰春台の著はせる『弁道書』の一説であります。異邦崇拝は今日の日本に於いても甚だしくある。しかもキリストを崇拝し、マルクスを崇拝し、レーニンを崇拝し、ガンディーを崇拝する当今の日本人と雖ども、おそらく太宰春台が徹底して堯舜を崇拝するには及ぶべくもないと思はれます。一人春台のみならず、徳川時代の儒者は若干の例外を除けば、概ね春台と五十歩百歩の支那崇拝者であったのであります。


 是くの如き時に当たり、
 加茂真淵、本居宣長、平田篤胤等の国学者が、
一代の中華心酔に宣戦して、日本思想の簡明日本精神の確立に心を砕けることは、吾等をして雄風を今日に仰ががしめるものであります。わけても異邦崇拝の心を深く国民の魂に巣くひつつある今の世に、日本主義を奉じて屹立するほどの者は、常に感激の泉を此等先賢の精神に汲むむことを忘れてはなりませぬ。

 本居宣長は、当時の支那の経史詩文を学びつつ、却って皇国のことに無知なるを指摘して下の如く言って居ります。――『儒者に皇国の事を問ふに知らずと言ひて恥とせず、漢国の事を問ふに知らずと言ふをばいたく恥と思ひて、知らぬことも知り顔に言ひ紛らわす。そは万を漢めかさんとする余り其身を漢人めかして、皇国をばよその国の如くもてなさんとするなるべし。されどなほ漢人にあらで御国人なるに、儒者とあらん者の己が国の事知らであるべき業かは。ただし皇国の人に向かひては、さあらんも漢人めきてよかんめれど、もし漢国人の問ひたらんに、われはそなたの国の事は能く知れども吾国の事は知らずとは、さすがに得云ひたらじをや。もしさ云ひたらんには、己が国の事をだに得知らぬ儒者の、いかで人の国の事をば知るときとて、手を拍ちていたく笑ひつべし。』 

 この警告は移して直ちに今日の欧米心酔者に加へらるべきものであります。

徳川時代に学問といへば漢学ことなりし如く、
今日に於いては横文字のみが真理の庫を開く鍵なるかの如く考へる者が居る。欧米の事とさえ言へば巴里の横町の小料理屋の話までが、誇るべき知識とされて居る。而して神武紀元何年なるかを知らなくとも、些かの恥ともされて居ない。


 西洋の社会史は研究されるけれども、日本社会史の研究は少数専門家の手に委ねて顧みようともしない。社会の進化乃至改造を論ずる者も、西洋の社会と日本の社会との異同をさへ明らかにせんとせず、直ちに西欧学者の唱ふる原理を日本に適用せんとする。マルクスの思想を真理なりとして、これを立証するために引用したるものは総て西洋の歴史であります。

 試みに『マルクスの原則に基づいて日本史を説明せよ』と設問すれば、日本お歴史は之を知らずと答へて平然たる為態であります。外交上の議論に於いても、例へば米国の邦人移民排斥を論ずるに当たり、ひたすら同胞の米国に於ける行動の非を挙げて、米国の立法のやむを得ざるを弁護する学者が少なくありませぬ。まことに『皇国をばよその国の如くもてなさんとする者』であります。

 吾等は断固として此の主客顛倒を改めねばなりませぬ。而して総じて日本的に思ひ且つ行はねばならぬと存じます。
 

              


大川周明 月間 『日本的言行』 はしがき

2016-10-14 15:59:05 | 大川周明

                                             


大川周明 月間『日本的言行』  はしがき

 茲に『日本的言行』と題して刊行する小冊は、過去数年にわたり、各地において試みたる国民幾回の講演の要約である。予は八篇のうちに含まれる思想を、いろいろなる会合において、いろいろなる題目の下に講演した。講演はすべて草稿なしに試みたが、講演を終わり、後にその内容を想起しつつ自ら筆を執り、これを再現し、多くはこれを吾等の機関たる月間『日本』の誌上に発表した。

 これを一巻とするに当たり、各篇に若干の雌黄を加へ、かつ出来得る限り思想の内面順序に従ってこれを配列し、吾等の抱く日本主義の少なくとも外廊だけは彷彿せしめようと努めた。

 国家主義、国民主義を奉ずる者に対して挑まるる議論は、常に下の如きものである。曰く「人は第一に人間であらねばならぬ、人間たるの根本が立って、初めて国民たることもできる。それ故に日本国または日本人ということに固執するのは、真個の人間となる所以でない」と。この主張は、一見、甚だ道理あるが如く見えて、実は抽象的断見に陥れるものである。

 試みに問う。いずれの処に桜に非らず。梅に非ず、牡丹に非ざる「花」があるか。花は一個の理念としては存在する。しかもこの理念は、必ずや桜・桃・梅・菊等の特殊の花として、咲き出ずることによって、初めて実際となるのでは。 

 それ故に梅花は梅花として咲き出ずることによって、初めて実在になるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決して花足ることが出来ないのである。梅花として咲くことによって、花の理念が初めて実現され、花の花たる所以が発揮される。これは正しく人間の場合に於いても同然である。


大川周明 「反米感情を誘発するもの」 (昭和二十九年三月)

2016-08-31 22:59:08 | 大川周明

      大川周明 

反米感情を誘発するもの 

 孔子は 『君子は和して同せず、小人は同して和せず』 と言った。同するとは一つの主義を固執することである。したがって同は不同の存在を許さない。同は必ず不同を排撃する。それ故に同は常に抗争を伴う。一つの主義を標榜することは一種の挑戦である。和とはいかなる主義にも拘泥せぬことである。それは同を同として、不同を不同としてそれら両者の存在を許し、そのいずれをも非とせぬことである。
 それゆえに同じは常に抗争の上に立つのに対して、和は常に抗争の上に立つ。聖徳太子はその憲法第1条に『和を以て貴し、忤ふなきを志とする』と明記して、神道・儒教・仏教のいずれをも排斥せず、三学も等しく国民生活の向上に役立たせた。 


 和は所謂はゆる折衷ではなく、また妥協ではない。如何に況や付和雷同でもない。それは同じと不同を無差別に羅列し混淆することでない。

 和は同と不同を明瞭に意識しながら、其等両者を同時同存させること、即ち同に同じながらも不同を排斥せぬこと、取りも直さず 『異に忤はぬ』 ことである。それは同と不同とを十分認識し、之を理解し、之を批判して、それぞれに其所を得させること、即ち人生におけるそれぞれの立場を与えることによってのみ可能である。
 例えば聖徳太子の場合をいっても、中国精神並びにインド精神についての徹底する理解と的確なる批判とがあったれたればこそ、それぞれこれを国民生活の適切なる局面に按配して見事なる『和』を実現し、これによって当時日本が直面する深刻重大なる問題に、水際立って鮮やかな解決を与えたのみならず、その後の日本の進むべき根本動向を確立し得たのである。
 若し聖徳太子が物部氏の如く神道を一個の主義として固執し、異に 『忤ふ』 立場を取り、中国や印度の影響を拒否したならば、当地の日本の精神界並び政治対界は惨憺たる混乱に陥ったであろうし、また日本文化の向上登高も阻ばまれたことであらう。 

 世間には日本主義などと唱えて、一切の異邦的なるものを排斥する人々があり、私自身も其等の一人に数へられることがある。乍併聖徳太子の例に見ても明瞭であるやうに、日本は決して異邦的なるものを拒否排斥するものではない。日本主義などと主張するそのこと自体が 『同』 に執着する物部党の精神で、忤ふなきを宗とする日本伝統の精神と相距ること白雲万里である。

 私は日本に伝統の精神に生きようとするものであるから、いまだかつて日本精神などを標榜したことがない。日本に生れた以上、私が日本的に感じ、日本的に思い、日本的に行おうと心がけるのは、日本人として当然至極のことで、決して日本主義などとよばれるべきものでなく、唯だ天地自然の道理に従って生きるだけである。

 乍併若し日本的なるものを唯一無二の真理としてこれを異邦的なるものとして対抗させ、之を他国又は世界全体に強制しようとするならば、それは取りも直さず日本主義となる。  

 私は異邦的なるものを単に異邦的なるが故に排斥せぬのみならず、寧ろ常に異国の善なるものを求め続けてきた。また私は異国の善なるものを求め続けてきた。また私は決して日本的なものを他国に強制しようと思ったことはない。

  被占領7年に亙りて日本に君臨したマックアーサーは、『マッカーサーの謎』 の著者ガンサーに向かって、その占領目的は日本の 『全国家・全文化 The entire empire, the entire civilisation』 の米国化であると豪語している。米人が米国内で米国流に振舞うことに毛頭依存の在る筈はないが、もし米国が米国文化のみが真個の文化であるとして、米国的デモクラシーを他国又は全世界にかうとするならば、それは直ちに忌むべく斥くべき米国主導となる。 

 総ての国家は之をそれを構成する民族の性情を経てとして其の独特なる歴史を緯とする組織体なるが故に、松には松の樹容があり、杉には杉の樹容があるやうに、それぞれ独自の面目を有し、それぞれ理想を異にして居る。それは甲乙丙丁の国家が、強いて他国と異な乱と努めたために生じた差別でなく、柳の自ら緑に、花の自ら紅なると同じく、各国それぞれの理想を奉じて国歩を進める間に、自然委生まれた差別である。
 それ故にマッカーサーが日本を 『全国家・全文化』 を挙げて米国化しようとするのは、松を地上から絶滅させて、杉だけを栄えさせようとするに等しい荒涼の沙汰である。 

 朝鮮人及び台湾人は、人種的にも文化的にも、最も吾々と親近な民族である。其れにも拘わらず日本主義を以て之に臨むることの非なるは、謂はゆる皇民化の失敗が之を立証する。苦心惨憺たる経営数十年の後に善意を以て行われた皇民化さへ、結局は善意の悪政に終り、折角の善意も独善の誹りを免れなかったとすれば、米国とは民族の性情も歴史も対蹠的に違っている日本を、短兵急に米国化しうるものと考へたことは、マッカーサーの途方もない誤算である。


 日本主義が非なると同じく、米国主義もまた非である。既に述べたやうに、主義の標榜は一種の兆戦である。米国が米国主義を以て日本に望むことは、取りも直さず日本に対する挑戦であるから、日本人の反米感情を誘発することは当然の因果である。

 明治天皇の御製にも 『善きを取り悪しきを捨ててとつくにの』 とある通り、吾々は決して異国のものを排斥せず、その善きものはき欣んで之を学び取る。それは日本の国家を一層高貴ならしめ、日本の文化を一層豊富ならめるためであり、取捨選択の主体は日本である。

 然るに日本お全国家・全文化を徹底して米国化することは、日本の国家と文化を一顧の価値無だになきものとして、全面的に之を否定し去るものであり、結局日本其のものを地球の表面から払拭しようとするに等しい。魂を米国に売れる者を除けば、日本人は決して斯くの如き無理非道に屈従するものではない。

 若し米国が占領下日本のジャーナリズムに叛乱せる米国礼賛論や自国嘲弄論を読んで、善意にせよ悪意にせよ、日本を米国より劣等なるものとして、日本を米国化せんとする米国主義は、日本の独立自存に対する挑戦なるが故に、かやうの主義を捨てざる限り、真実なる日米親善など望むべくもない。何となれば斯かる米国主義は、必然独善排外の日本主義を誘発するからである。
               ( 『みんなみ』 第3号、昭和29年3月)

 


大川周明 「対満無政策の暴露」 張作霖爆殺事件に際して

2016-08-03 11:20:09 | 大川周明

大川周明
   
 対満無政策の暴露
 

 張作霖が早かれ遅かれ没落することがわかりきって居たことだ。特に田中内閣は満蒙積極政策を標榜し、二度までも東方会議になるものを開いて、満蒙問題の解決はちゃんと胸の中にあるやうに見せかけて居たから、あやしいと思ひながらも万が一の望みをかけて居った。
  
 ところで爆弾事件の突発によって、これもまた世間をごまかす吹聴で、立案も腰も座っておらず、満蒙問題に対して全く無方針であったことが露顕してしまった。 

 吾々はあの号外を手にした時、現内閣はこれぐらいの変に応ずる方針が、とうの昔に確立して居るものと思った。それは誰も思ひ設けぬ急変が起こったのではなく、有り得べきことが実現したに過ぎないからである。
 しかるに政府の狼狽はどうだ。緊急閣議を開いてこれから方針を極めようという沙汰だ。周章どころか、堂々として予ての方策を断行するだろうと待設けて居た吾々は、あいた口が塞がらぬという始末である。 

 さて然らば泥棒見てからなひ始めた其縄はどんなものかと見れば、第一にはいざという時はポーツマス条約で認められた最大限度の兵を出すこと、第二は内政に干渉せぬこと、第三には満州は広いから散在せる邦人を集注して保護することと云ふのだ。これだけのことなら決して田中内閣を煩わすまでもない。民政党だってこれ位のことはやるであらう。

 殊に不思議なのは、支那本部に於て現地保護主義を固執してきた政府が、満州と云ふ肝心のところでこれを放棄したことだ。田中内閣も斯様な有様では、私利には横着至極、公事には臆病至極と言われても仕方なからう。(斯禹)
  
   (以上、『月間日本』第四四十号、昭和三年七月)



【関連記事】 
河本大作 「私が張作霖を殺した」

 


大川周明 「南方問題」 (昭和十六年)

2016-08-01 21:31:09 | 大川周明

  大川周明 「南方問題」  

                                                                     
333頁

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341頁 



     

 


大川周明 「ロンドン海軍軍縮会議、米国全権の賛辞 支那の一時小康」等

2016-07-28 15:16:29 | 大川周明

大川周明
 「ロンドン海軍軍縮会議、米国全権の賛辞 支那の一時小康」等
         
ロンドン海軍軍縮会議

 第一次世界大戦がようやく終局を告げたと思う間もなく、第二次世界大戦の元凶とも見られる不吉の暗雲が、離陸にも太平洋と呼ばれる会長に低迷し始めた。その新しい戦争が、何故にまた如何にして、何時また何処で始まるかについては、何人も明答を与えることができなかったけれど、多くの人々は戦争が差し迫っているものの如く感じていた。
 孰れの国々がこの戦に参加すべきかも、またもとより明らかでなかった。而して此の頃より日米戦争が随所に話題に上り、且つこれをう表現する著書が欧米に於いて公にせられたことは事実である。
 

 ワシントン会議はこの形勢を緩和するために開かれ、所謂、『10年間の海軍休日』を実現した。次いで日英米仏が「太平洋方面における各自の属地属領を尊重」すべきことを約束する 四カ国条約が結ばれた。その次には支那の門戸開放と領土保全を目的とする九国条約が結ばれた。それでも足らずに「国策の具」としての戦争を放棄するという不戦条約が、地球上の文明国によって調印された。而して、今やまたロンドン海軍会議である。 

 此れ等の総ては何事を物語るか。簡単明瞭に太平洋上の戦雲が尚未だ掃蕩さられないという事である。一切の会議と条約とは、ついに太平洋を其の名の如くならしむるを得ずして今日に及んで居る。それが太平洋に孕まれたる戦禍の数々の原因が、是くの如き努力によって其の一つだも除き去られないからである。見よ、太平洋の覇者たる者は世界の覇者足らんと之希望が、牢乎として抜き難き列強の信念となっている。

 繁殖して止まざる国民のために発展の路を拒まれている国家がある。政体がいかに変化しようとも、太平洋に不凍港を得んとする百年の宿望だけは断乎と棄てざる国民がある。同時に、原料地並びに市場として無比の価値ある大国が、列強の干渉を誘惑する不断の混沌状態に在る。
 而して全般的雰囲気を陰鬱ならしむる人種問題がある。是くの如く挙げ来れば、今日の世界政局の舞台に於いて、太平洋ほど戦争の禍因が輻輳し活躍しつつあるところはこれを他に求むべくもない。

而して其等の諸原因は一として会議によって消滅せらるる性質のものでない。一切の会議はただ一時の糊塗にとどまる。ロンドン会議の効果もまた其れ以上に出ないであろう。而して弥縫が最後に無効になるまで、今後も同様の会議が繰り返されるであろう。(大川)
       (『東亜』第三巻第二号、昭和五年二月)

 

蒋閻の対抗
 三民主義の力、従って、南京政府の勢いは、青天白日旗が奉天の空に翻りし時を以って、まさしく其の最高潮に達するものである。寄せくる潮は、好むと好まざるとに頓着なく、ついに最高潮に至らずば止むべくもないと同時に、今日はやがて敷き始めねばならぬ。客年初頭、支那統一の形態すでに成れりとし、中央集権の確立と地盤主義の打破を目的として催されたる編遣会議直後に勃発せる湖南事件と共に明らかにこの潮は引き始めた。

 蒋介石は能く大広西派を打倒し、馮玉祥を西北避遠の地に閉塞し得たとは言へ、之がため閻錫山をして自己保全の必要より、馮玉祥と握手するに至らしめたるのみならず、北方軍閥をして此の間に各地の地盤を堅めしめ、且両湖両広に幾多の小軍閥を簇むるに至った。一方第三次国民大会に対する南京政府の高圧的態度は、改組派並びに西山派の深刻なる反感を激成し、南京政府の対露問題における不始末、財政の逼迫に乗じて、国民党内における反中央派の運動俄然として台頭するに至った。

 蒋介石は、反対勢力の不一致に乗じて、あるいは各個撃破を試み、あるいは懐柔手段を講じ、逆に難局を切り抜けて来たとは言へ、十二月に入って石友三の兵変、唐生智の独立あり、ほとんど奔命に疲れつつありし上に、今や従来首鼠両端を持し来る閻錫山が、二月十日の対蒋下野勧告によって、反蒋態度を明らかにするに至った。
 かくて支那時局の紛糾は蒋閻両雄の孰れかが下野せざる限り、最早政治的解決は絶望となり、武力衝突は単に時日の問題となった。吾等は至深の関心を以って時局の推移を眺める。(大川)
       (『東亜』第三巻第三号、昭和五年三月)

 

 米国全権の賛辞
 昂然としてロンドン会議より帰国せる米国全権スティムソン氏は、5月13日上院外交委員会において、下のごとき説明を試みている。『吾等の主眼とするところは、米国海軍が日本を凌駕し得るまでの八年間、日本は現状を維持すべきことを求むるに在った。6吋砲巡洋艦に関しては、米国は日本に向かって、吾等が七万五千噸より十四万三千噸に達する増艦を終わるまで、日本は現状を維持すべきことを求めた。日本は現在九万八千噸を有し、此の条約によって僅かに千噸を加え得るに過ぎざるに拘わらず、吾等は実に6吋巡洋艦を倍加し得ることとなった』と。

 軍縮当面うち、不戦条約の精神に則りて開かれたる会議より帰りて、6吋砲巡洋艦を倍加し至ることを誇るのである。それだけならば尚ほ可し。スティムソン氏は、語を続けて下の如く言ふ。

『日本は、本国に於いて大海軍論者の熱心なる運動あり、海軍当局は国民の支持を得て有利なる立場にあった。それ故に吾は断言する、ロンドン会議おける日本代表の仕事は、実に至難のものであったと。吾等は、日本代表を並びに日本政府に対し、今だ寡てなき賞賛の心を抱いて会議を引き上げてきた。何となれば日本は、その敵手が己を凌駕するに至るまで己の手を縛る条約に参加する勇気を持って居たからである。』 

 ロンドン会議の成功と、国防の安全を保障する日本全権の弁解、及び日本政府の主張とこの米国全権の説明とを比較考慮せよ。ロンドン会議は、少なくとも米国にとっては満足すべきものであったことは疑ひない。それが同時に日本にとりて有利であり得る筈があるか。スティムソン氏の説明は、当に日本当局を愧死せしむるに足る。(大川)
       (『東亜』第三巻第六号、昭和五年六月) 


依然たる隣邦の混沌
  
 隣邦の混沌は日に甚だしきを加へ、如何なる予想乃至予断を許さぬ状態である。唯、時局を今日に至らしめたる道筋だけは、略ぼ想察に難くない。第一には北方巨頭の不和である。馮と閻と汪と皆、別個の異図を抱いて、大敵を控へながら、互いに牽制を事とした。済南を放棄して南軍の拾ふに委ねるよりは、その武器を馮に融通した方が、よかったろうと思うけれど、閻にとりては馮の恐るべきこと、毫も蒋に劣らなかったと見える。
 汪以下の国民党の左派は、その勢力を短時日の間に北方に確立せんと焦り、共産派に類似する過激な言動を敢えてした。此の一事は米英両国をして北方政権に鬼胎を抱か占める重大原因となった。

 長沙に於ける 共産の暴行ありし時、英米の軍艦及び陸戦隊が急遽揚子江を遡らなかったならば、北伐軍は著しくその勢いを分割せねばならなかったであらう。英米の汪一派に対する嫌悪、従って蒋に示せる好意、その間接の援助によって、蒋は閻をまた山西に押し籠めることが出来た。

 而もこの勝利の如何に憂鬱なることよ。北軍の袁滅はやがて南方政権分裂の前提ではないだろうか。特に南方巨頭間の調停役を勧めて来たりし譚延闓の急死は、一層前途を不安ならしめる。吾等は蒋介石と胡漢民とが、いつまで握手し行くかについて、大なる慰問を持つ。(大川)
       (『東亜』第三巻第十号、昭和五年十月) 


支那の一時小康状態  
 交通網をその他統一の基本条件が一つも具備せざる今日の支那は、聯省自治に適して、中央集権に便でない。然るに蒋介石は支那統一の達成を焦り、1929年三月、国民党第三次大会に際してクーデタを敢行し、政敵広西派と馮派とに対して、各個撃破の挙に出た。此の事が全国に亘る反蒋機運を醸成し、ついに北方政団の現出を見るに至ったった。
 幸いに張学良の見方をするありて、今や統一の形式を備へることを得たが、事実は黄河を境として蒋張分自治の状態である。

 従来の政治分野は、広東、武漢、南京、洛陽、太原、奉天の七区であったが、今日では南京と奉天との両区となった。さりながらこれは七区の表面を二色で塗りつぶしたようなので、いつまた還元せぬとは誰も保証が出来ない。何となれば、今次の政局は統一の基本条件ができた上でのことでなく、ただ南北両政団が戦争に疲れ果てたる時に当り、東北推断が一方に左袒せるため、他方が屏息セルに過ぎないからである。従って波浪状態に継続する内乱が、今は其の底部を辿っているといふに過ぎない。(大川) 
       (『東亜』第四巻第一号、昭和六年一月) 
 

死地に曝される在間島鮮人
 昨十月五日夜、間島瀧井村内に於いて、朝鮮人に対する支那官憲の不当拉致事件が起こった。直接ではないが、この此の事と関連して、支那軍警と我が警察官との衝突を招き、わが巡査二名は背後より銃剣に刺されて即死し、一名は瀕死の重傷を負ふた。昨年このかたは共匪の跳梁を要因として醸し出されていた不安の形勢が、此の重大事件の突発によって、一層の窮迫を告げたのである。

 間島総領事館は、応急処置として朝鮮総督より応援警官百三名を招致したが、如何なる事情を伏在せしかは明白でないけれど、十一月五日未明、この応援警官隊は、極秘裏に間島を引き揚げてしまった。当時人々は之を『夜逃げ』と呼んで憤慨した。

 在間島の鮮人は、一方共匪の跋扈に苦しむと共に、他方支那軍警の暴行によって生命財産を脅かされていたので、この事件の推移に対しては深甚なる期待を抱いていた。しかるに警官隊は『夜逃げ』を敢えてし、外務省は『支那の誠意に依頼する外に途なし』とするに至って、全く無援の民となった。在間島四十万鮮人は、言語に絶する苦難の底にある。

 共匪の惨虐と、支那軍警の凶悪とが、今日の如くに継続せざるをならば、彼らは遂に四半世紀の努力によって開拓する生活の根拠地から掃蕩されるであろう。その結果が朝鮮統治の上に及ぼす重大性は、更に説くまでもない。
 吾等は同胞が一層の注意を此の問題に払われんことを切望する。(大川)
       (『東亜』第四巻第三号、昭和六年三月)

  
間島事件-ウィキペディア 


大川周明『日本精神研究』 第五 剣の人宮本武蔵 二 剣による鍛錬

2016-07-02 20:17:32 | 大川周明

大川周明『日本精神研究』
 第五 剣の人宮本武蔵


二 剣による鍛錬 
 

 剣を執って天下また敵なきに至りし宮本武蔵は齢三十を越えてしめやかに過去の牢生を顧省した。『十三歳の時に有馬喜兵衛と試合した時、自分は命を捨てて立向へば敵に勝たざるをことないと悟った。

 爾来心常に兵法の道を離れず、朝に錬り夕に鍛へ、其の鍛錬を実地に施して、六十余度の勝負に未だ曾て敗を取らなかったとは言へ、今にして静に思念すれば、吾が勝てるは決して兵法至極して勝つたのではない。或は自分に天禀の器用ありて無意識に剣道の極意と合致して居るのかもしれない。それとも他流の兵法に足らざる所あるのか、孰れにもせよ自分は尚ほ未だ兵法の第一義を把握して居ない。大丈夫、心を兵法の道にかけたる上は必ず至極の理法を究めなければぬ』と。

 

 これは驚嘆に堪えざる自覚である。武蔵ほどの修行を以てして、血気最も旺ん、動もすれば眼中人無からんとする三十歳前後に、六十常度不敗に安ずることなく、善に増長漫に墜せざるのみならず、謙虚に至極の理を尋ね入らんとせる覚悟こそは、永代希有の心根と言はねばならない。
 『其後猶も深き道理を得んと朝鍛夕錬して見れば、おのずから兵法の道にあふこと、我五十歳のころ也。』天下無双の兵法者として誉れ」ある名を馳せてから、武蔵刻苦更に二十年の修行を積んだのだ。
 而して其間の蹬蹭の後は彼の座右銘に最も鮮明に現れて居る。独行道にはげに其名の示す如く、殆ど続く者なかるべき孤行独歩の嶝路にして、

総じて十有九個条より成る――

  一、世々の道に背くことなし 
  一、萬づ依怙の心なし 
  一、身に楽をたくまず 
  一、一生の間欲心なし 
  一、我事に於て後悔せず 
  一、善悪につき他を妬まず 
  一、何の道にも別を悲しまず 
  一、自他ともに恨みかこつ心なし 
  一、恋慕の思いなし 
  一、物事に数奇好なし 
  一、居宅に望みなし 
  一、身一つに美食を好まず 
  一、奮き道具を所持せず 
  一、我身にとり物を忌むことなし 
  一、兵具は格別余の道具たしなまず 
  一、道に當って死を厭はず 
  一、神仏を尊み神仏を頼まず 
  一、心常に兵法の道を離れず

 

 彼は劈頭『世々の道に背くことなし』と宣言し、最後に『心常に兵法の道を離れず』と結ぶ。正に一剣によって千古不朽の心理を把握せんとするものにして、気魄の雄渾荘重、真に虚空をして希有と叫ばしめねば止まらぬ。

 其他の條々に現れたる須臾(しゅゆ)も道を離れまじき堅固の道心、五欲を遠離する厳格なる戒律、名刹を超出せる高潔なる心事、一として後世の景仰に値せざるものなきうち、別けても『神仏を尊み神仏を頼まず』の一條こそ、実に萬古鏘鏗の響籠る。吾等の祖先が既に明白に證悟せる如く、吾等は『天の益人』である。

等は紙の永遠に亘る聖業、日本紀の言葉を用ふれば『天業』を成就するために現れたる――更に精確に言へば其の実現の必然の過程として顕言せる――神の分身である。簡潔適切なる祖先の用語を籍り来れば、吾等は実に神の『分(わけ)霊(みたま)』である。

故に各人には夫々の分があり、従って此の分を守り行ふことが、取りも直さず人生の真固の価値を確立する所以である。而も吾等が此世に於て『本分』を盡すは異邦の信仰に見るが如く、神の呵責を恐れるために非ず。また神の賞与を受けんために非ず。ただ『止むにやまれぬ魂』の必然の発露である。かくて吾等に於て祈祷は即ち宣言である。言葉に就いて見るも『いのる』とは『のる』即ち宣言すると云ふ語にいと云ふ発頭語を付して其の語気を強めたるもの、正(まさ)しく『厳粛に宣言する』との意味である。

 さればこそ日本精神を真個に把持せる吾等の祖先は『弓矢八幡も御照覧あれ』としたけれども、『何卒加護を垂れ給へ』と哀訴しなかった。御照覧あれと言ふは、神の分霊として本来具有する力を存分に発揮せんとの『いのり』である。故に生死を争う戦さへ、決して非常のものでなく、ただ『尋常の勝負』である。吾等は知からの足らざるを憂ひず、ただ存分に力を揮うべき舞台」を求める。吾等は吾愛の薄きを悲しまず、ただ存分に愛を注ぐべき対象を求める。武蔵が『神仏を尊み神仏を頼まず』と言へるは一句真に鐵崑崙の思ある。

 いまは不幸にして本来の深甚なる意義忘られ、単なる一個の風俗となったけれど、最も善く吾国の宗教意識を象徴するものは、実に各神社とは言ふまでもなく小にしては一大にして一国の民の本体なる神を祀れるもの、その神体は最も適切に統一原理を象徴する鏡を以て現わされて居る。

 祭禮に當たって人は先ず神殿に参詣する。参詣とは一切の個人が自己の本体たる神に帰一し蔽ふ所なく自我の面目を見窮めることである。故に如何ばかり雑沓絡繹を極むるとも、一心さながら天地の間ただ吾が面目のみ在り。彼れ参拝すれば天地の間、ただ彼れの面目のみがある。かくして一切の人が分身としての一あり二なき自己を存分に確立したる後、神前を退いて更に神輿を擔ぐ。而も此時に當っては、彼我悉く至心に協力奮励する為めに、一切小我の確執を去る。神輿とは何ぞ。そは天業の象徴に外ならぬ。
 

 かくて祭礼は吾等が一面に於て飽迄も独一無二の個性を発揮し、他面に於て神聖なる目的の為に吾等の分を盡すことを象徴せるものであり、神前に奏せらるる神楽は、是くの如き真実の生活に於てのみ味識し得べき歓喜法悦を象徴せるものである。

 予は武蔵の宗教に於て醇乎として、醇なる日本的信仰の光明を仰ぐ。常に天道と観世音とを鏡としつつも而も之に向かって『頼まず』と言へる彼れの一語に初めて逢着せる時、予の受けたりし深甚の威厳は、年経たる今日も尚新である。