日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)14 王妃暗殺    

2019-07-30 11:37:14 | 朝鮮・朝鮮人 

 「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 

 

14 王妃暗殺 
 千八百九十五年(明治二十八年)五月に日清間の平和修約は下関にて締結せられ、清国は臺灣を割譲し日本は大に國威を發揚することを得て戦爭は局を結んだ。
 爾來極東に利害関係を有する列強は從前の如く日本を無視する訳には行第なくなった。
私は数か月間を中部支那及南部支那に費し、夏期は日本で暮し、十月長崎に出て朝鮮王妃暗殺の風評を耳にし、亞米利加公使シル氏が急き京城に還るを幸ひ駿河丸に同乗し、仁川に上陸、直ちに京城に駆け付けヒリエール氏の客となり、二か月を京城に暮らすこととなった。

 元より朝鮮人も諸外人も前章に説き來った国政の改革には敏感となり流言蜚語に耳を欹てた。一般の信頼を受けて居た井上伯は月餘前に京城を去り三浦子と交代した。三浦子は將軍であって曾て外交上の経驗を有たない人である。


〔井上伯の進言〕
 井上伯は帰国前に参内した。井上伯は此の日の参内の模様を認め「自分は王妃に謁し十分に改革事情を開陳して王妃の疑問を解くことか出來た。而して朝鮮獨立の基礎を固くすることは日本国皇帝及皇帝の閣僚の衷心熱望する所で、同時に朝鮮王家の景福なる所以を説明し、若し王室を覬視する如き者があったらその何人たるを問はす、假分皇族たりと雖も日本は之を排除するに機宜を失するものにあらず、已を得すんば兵力に訴へても断じて王家保護及王国保全の任に当るに躊躇しないこどを確言した。この拝謁により国王及王妃の憂慮は充分薄らいだ様に思ふ云々」と書いて本国の内閣に送ったさうだ。

 日本第一流の政治家にして且つ朝鮮国王及王妃が尊信せる井上伯か胸襟を開き熱誠を被瀝して進言せるに対して兩陛下は心大に動き日本を信頼すべき道理を了解せられたものと見える。其の証拠には大事件勃發の当夜すら日本人にして対しては一點の含む所なく警成の念は毛頭無かった。然し乍ら危險は日々王宮の周囲に迫りつつあった。大院君は三浦子を語らひ日本軍の一将功をして朝鮮訓練隊を指揮せしめ、一方日本人壯士を招き大院君自身の護衛たらしめた。非番巡査も亦和服に日本刀を蔕し一味に組して大院君邸に行った。


〔大院君の参入〕
 十月八日午前三時一味の徒黨は大院君の乗輿に扈従した。大院君は事態已を得す王宮を犯し自狐を退治する旨を公言した。光化門前で訓練隊に合し門衛を毅し宮中へ参入した。以上の事實は頗る詳細に判って居るが、内房の一段に至れば誰も判らぬ。話が甚に飽き足らぬ心地する。それで私は自餘の物語はどゼネラルダイ氏皇宮警官サバチン氏の手記及公文書の記録を辿りて書いて見たい。

 王妃殺害の事を叙するには順序として少しくそれ以前に遡りて見る必要がある。事の起りはこうだ。十月訓練隊と近衛隊と衝突した。


〔訓練隊〕
調 練隊はその数一千洪大佐の率いる所で、皇城は舊式の近衛隊之を守護し玄大佐の指揮の下に在った。而して洪氏は千八百八十二年(明治二十五年)王記の危急を救ふて信頼淺からす、玄氏は千八百八十四年(明治二十七年)国王の危難を助けた人である。右衝突の結果近衛隊は著しく縮少せられ、頼みとする武器は取り上けられ、弾薬は何慮かに移転されて仕舞った。その後月の七日訓練隊は王宮内を反覆行進して地理を暗する迄演習した。果然翌八日の未明にはゼネラルダイ氏の夢は驚かされた。二百名以上の訓練隊は忍ぶ姿は蔭き所を擇んて居るるのが見えた。ダイ氏及サバチン氏は俄に取る可き手段も無い何せんと相談中光化門の方に当りて銃声か聞えだした。(ダイ將軍は亞米利加合衆国の人にして近衛隊の教官だしサバチン氏は露人で歩哨監督の任務を有って居た)

 ゼネラルダイ氏は近衛隊を呼集せんと試みたが出來なかった。のみならす訓練隊は二人の外国人を追ひ出す為に数回の一斉射撃を試みて後、国王及王妃の御室の門際に押寄せて來た。正確の記録はこれ迄でこれからは頗る分明せぬ。話は後に戻る。訓練隊長洪大佐は光化門側て斬殺された。訓練隊は方々へ亂入した。
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 嗚呼斯くの如くして野心家たり術数家たり魅惑的な女丈夫は――其の反面には敬し可き愛すべき性格の所有者たる王妃は――義父の教唆による暴漢の手に斃れ給ふた。時に御年四十有四、御存命中の事を語り井上伯は、「王妃殿下は韓国稀に見る女傑で敏感聡明の人であつた。特に反対派の人々を懐柔し部下の信任を得ることの巧なる一人も比肩する者がま無かった」と言って居る。

〔大院君の宣旨〕 
 悲風惨雨の劇的な夜は明けた。大院君は次の様な院宣を發布した。
一、王宮は小人輩の巣窟となり民心離散した、由て大完君ば改善を計り小人を除き舊制を復し皇帝の尊厳を維持すべき權力を興へられた。
ニ、皇帝を補佐し小人を除き国家を救ひ平和を維持せんか爲めに今宮中に入ったのだ。


〔訓練隊の勢力〕
 装弾し着劍したる銃器を執れる訓練隊は宮円を警戒した。其等の門を出つる者入る者隊を爲して居た。舊近衛隊の兵士は兵器を捨て軍副を捨てれ逃れと試みたが一々搜索せられ逮捕せられた。近衛隊の退去お構ひなしのお觸れが出たが後の祭であった。光化門邊碧血妻しきは洪大佐最後の場所である。内閣諸公或る者は逃亡し或る者は其の地位を失った。其他の高位大官多くは危急を免かれて生命丈は安だったらしい。皇帝御信任の者は一人も殘らす宮中を去って各省主要の椅子は訓練隊の有力者によりて占められた。


〔三浦子爵の参内〕
三浦子爵は杉村公使館書記官及び数人の日本人を帯道して早朝参内した。国王の眼には数人の日本人には見覺えがあつた。国王は一瞥甚しく当惑遊ばされた。三浦公使謁見の間大院君は陸下と共に進言を聞いた。三浦公使に引績き列国の使臣は国王に謁見した。


〔お痛はし陛下〕
 陛下は固より心亂れて時々咽び泣きにお泣き遊ばれた。而もお痛はしい事には、王妃の御落命の趣は少しも御承知なく無事に逃け延びて居られるものと信じ、御自身独り非道な父上と暴徒との間に居られることを淋しく淋しく感じられた。外国の使臣を見るや思ひ除って陸下は舊慣を破り使臣の手を堅く握ってどうか凶事出来きせぬ樣盡力頼と仰せられたさうである。

 王妃暗殺後一日経ち而も尚国王陛下も一般国民も王妃御存命だど信じて居た。三日目になって其の顧顛末か官報に詔勅として掲載された。然し陛下は此れの認識に御親署遊ばすことを拒み「朕の名を署暑するよりも寧ろ朕が雙腕を斬って捨てろ」と仰せられた。然し事實は勅語として公にされ宮内大臣、総理臣及六大臣か副署した。即ち  184頁


〔勅語出づ〕
  勅 語
 朕の即位以來三十二年になるが未に治績擧らない。皇后閔姫は其の一族を国家の顕職に据へて朕の側に侍らしめの朕を明を蔽ひ、國民を困め府中を紊り官を賣り職を售り、虐政單り行はれ盗賊全道に蜂起した。斯の如き状態で李朝の社稷は真に懽るべき危殆に瀕して居た。朕は閔姫か豫ねて無道悖徳の女たるを知って居たが彼の徒黨の勢力は朕の獨力以て如何ともし為し難かった。

 朕は彼等の勢力を遏め之を制するに務めた。昨年第十二月朕は祖宗の神霊に誥け皇后及皇后の一族並に及朕及び朕が子孫は國政に容喙せざらんこどを誓った。朕は之を以て閔の私黨が其の前非を悔ゆるのを希ふた。然し乍ら閔姫の陰険前非を改めざるのみならす却て不逞の徒を合して朕に背かしめ内閣諸卿と国政を議することを妨げた。加之暴動を教唆煽動し愈それか勃發するや、閔妃は却て逃亡回避した。朕は閔妃の居所を搜索せしめしも遂に隠れて出です依って朕は閔妃が既に皇后の地位に在るに適せず且つ其の資格なきのみならず其罪大にして之を廃するに充分なるものと認めた。朕は閔妃と共に祖宗の位を紹く譯に行かない。茲に閔妃を皇后の位より際きに下すのだ。
       御 名 御 璽 
         各大臣副署


〔賎民より一牌妓生へ〕
 虚構的な不名春な右の勅令に績いて當日更に勅令が發布せられた。此の二度目の勅令によりて一旦に貶せられた故閔妃は一牌妓生に昇叙せられた。盖し皇太子殿下が父陸下に對する孝心深く在しますことと殿下かの子に渡らせられるも如何にやとの意見があったからだ。

 外交は混乱憂慮すべき状態になって朝鮮の地位は絶えす議論の中心となつた。勿論暗殺事件の如き極端な凶事が一小範囲内に局限された因果相とも思はれぬ。暗殺劇の背後には黒幕がある。黒幕の裡では水も漏らさぬ陰謀か工らまれてある。

 而もあらうことか可弱き婦人に屈強の男が多勢を恃んで毒刄を振ふなど、政情の前後を考ふれば邪推すべき節が少-くない。


〔流言蜚語起こる〕
 流言蜚語は刻々に傅はりそれが耳より耳に私語するが如く而も流るが如く迅速に擴がって行く。遣り口が巧砂だ。朝鮮人の手際ではない。人を斬ることの鮮かさ朝鮮人の腕前では無い。後宮悲劇が演ぜられる間其の周囲を警戒して居たのは服装が違って朝鮮兵で無いらしい。門内月影に閃く銑剣は朝鮮兵の持物では無い様だなどと噂が傅はる様になった。

ゼネラルダイ及サバチン氏の言ふ所は間違の無い所だが民衆の猜疑心は取り取に暗鬼を書く様になる。

〔公使召喚〕
 其の日の午後には子爵三浦將軍は刑法上連坐すべきものかなど勝手な儀論さへ傳はった。十日後になって日本政府は、本事伴には全然無関係な事が明になり、面して三浦子爵及杉村、韓国軍部顧問岡本外四十五名は日本に召喚逮捕せられ、廣島裁判所の手に移された審判せられる事になった。然し乍ら「罪に処すべき証拠不十分」の故を以て方免された。  187頁105面


〔小村公使来る〕
 三浦子爵の後任として小村氏公使として京城に駐在する事となり、間も無く井上伯は日本皇帝の弔儀を齎して來城した。極東に於ける文明の指導者たる日本の地位聲望は可なりの大打撃を受けざるを得なかった。日本政府の本件に関する無関渉の聲明も軈て忘れられ不快な事のみ記憶せれる様になった。即ち虐殺事件は日本公使館内で劃策せられたとか、日本の居留民が和服姿で大刀を蔕ひ拳銃を持参した奴が直接の下手人であるとか、暴徒中日本の警官も加はり壯士を加へ六十人の日本人が居たとかの類である。外国使臣は、今次の暗殺事件に付き裁判上夫々の手段を講じ、訓練隊を王宮内より撤退せしめ、本件に責任を有する閣僚を起訴するか又は少なくとも之を罷免する迄は政府の一切の法令を認むることも出來ねば国王の名によりう發布せらるる一切の勅令を眞正のものと認めることも出來ぬと通牒した。

 十月十五日官報号外を以て「皇后の地位は一日も●(不鮮明、読めず)して置くべきでないから直ちに新皇后の選択が始まる」旨の勅令が發布せられに外に十一月を超ゆるも何等政局に変化は無かった。只何となく陰惨幽霊暗の趣があった。國王陛下は引見の際か招待の際を除きては毒殺暗殺の何時身に及ぶやを恐怖し御部屋に幽居して自ら囚人の如き生活を送って居られた。宮城は閣僚の手にあり、閣僚は軍隊の道具であり、軍隊は上官を物の数とも思はぬ獄卒同然の暴れ者である。誠に此の裡にある國王及皇太子殿下程、世に淋しき頼りなき生活はあるまい。閣僚は陛下の好まぬ勅令に無理強に國璽を欽せしめる程の者、御左右に信頼する者は一人も居ない。耳に聞くもの眼に見るもの彼も恐ろしく此れも疑はしく一分間も気を安んられる折は無い。軍事顧問ゼネラルダイは老齢痩軀の人で亞米利加宣教師の人と共に王室図書館に近き所に宿泊し、両人代る代る不寝番の役を承った。實際哀れなる陛下の近侍の者にして陛下に味方するものは此の両人であった。外國使臣は毎日交替謁見して慰問申上げた。


〔御食事〕
 食事は露國公使館乂は亞米利加公使館で料理し錠を下ろした箱に人れて宮城に送り陛下に差上げた。而し監視厳しく鑰(注、ヤク、かぎ、戸締りする錠前の意)を陛下にお渡することさへ容易でなかった。陛下にに物申上るなどの事も取り急ぎ私語するが如くで、御信任を憺へる公使とのの間の通信も陛下の意の儘には出事なかった。實際陛下は屡々傷ましくも啜り泣きせられ外國使臣の手を握って同情を求められた。

 在留外國人も遊興娯第を禁じた。陛下の落胆は見る目も気の毒で御悲嘆の遺る瀬が無く冬の夜の宴楽も陛下のの笑を誘ふこは出第なかった。外國婦人、特に曾て閔妃の侍医たりしアンダーウッド夫人曾て閔妃より殊遇を給はりしウェバー夫人は他所事とは思はず悲しみ暮れた。生前閔妃が恐る可べき辣腕を振った事は忘れられ御臨修に同情を寄せる人のみとなつた。閔妃は危難を免がれ、宮城を逃れて何處かに隠れて未だ物存命中だとの噂も立った。但し朝鮮人は口を噤んで決して自己の意見を發表しなかった。うかうか口を滑らしたら怱ち危険其身に及び既に幾十人となく逮捕せられたからだ。然し心では誰しも陸下が早く御自由の身とならせられる様に熱望して居た。
仁川には外国軍鑑の数隻が入港碇泊し陸戦隊は京城に入り各自國の公使館を警衛した。


〔列強日本に守護を委す〕
 閔妃毅事件後約一月を経過して或いは御存命かも知れないの一縷の望の繩は断たれた。同時に世間は騒々敷なって新内閣の政治も治安覺束かなく覺える様にった。之を察知した外國使臣は井上伯に訓練隊の武装を解除し国王が信頼し得べき兵を募り之を充分敎育するは日本兵を以て王宮を守護せられんことを希望し進言した。此の一事は實に日本政府が這般の暴擧に無関係たるを内外に表明したるのみならず却て日本兵か列強外交官より信頼せられたる証左となったのだ。然し井上伯は比の進言を用ひなった。 蓋し井上伯は此際武装せる日本軍隊が王宮に進入するは其の目的假令陛下の守護に任し治安を確保するに在りとするも、誤解を招き易く事件を紛糾せしめ易いと思ったに相違ない。成程兵を王宮に進めるのは列強の公式の委任が無ければ日本として甘受し難い所であらう。電信局は多忙になった。


〔日本の躊躇〕
 各公使は各國本の訓分を待った。而して列国は公使等の意見に賛意を表して來た。然し尚ほ日本は嶹第して斷行し得ず、訓練隊は舊の如く勢威を保有し陛下は昨の如く囚人生活を送られて居た。私は思ふ、当時日本が列國の進言に從って居たら後日に至り其勢力を露國に譲る様な結果を来さなかったであらう。時の外国使臣中最も前説を主張したのは露國公使ではなかったか、露西亞の言ひ分は正当であった。之を斥けた日本は他日露西亞の爲す所を指を銜へて見て居なければならなくなった。

 霜月を通して朝鮮人の新政に對する反感は高まった。而して列國の使臣も責族も平民も十月八日の事件は飽く迄も追及して其の真相を明にすべしとの意見か強くなって來た。王妃存命の希望も段々怪しくなって閣僚は不本意乍ら王妃の身上に不凶事か行はれたことを承認せざるを得なかった。そこで月の二十六日外國公使は陛下の御召により参内し、總理大臣侍立の上に勅語を下賜せられた。


〔前勅廃し崩御の発表〕
 其の文意は曩きにに貶したる詔勅を廃し當初より発布せざらりしものと看破し、閔妃は依然として皇后の位にあることを宣し、更に十月八日の事件は之を裁判に付して審議し、罪ある者は之を嚴罰に處する旨を明にせられたのであつた。同時に皇后崩御の旨も御発表になった。





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