日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

『坂本龍馬 關関係文書 第二』 坂本と中岡の死 二十五 刺客は果して誰ぞ=首領佐々木只三郎=下手人渡邊吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助 

2021-01-14 21:08:20 | 坂本龍馬

『坂本龍馬 關関係文書 第二』   
     坂本と中岡の死  
      岩崎鏡川

二十五 刺客は果して誰ぞ=首領佐々木只三郎
      =
下手人渡邊吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助 
 是て萬事は解決せり。即ち、これに據る時は、近江屋に向かひしは、見廻り組のももにて、佐々木只太郎、渡邉吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、櫻井大三郎、今井信郎の七人にて、更に同日八ッ時(午後二時)頃、一回訪問したるの新事實を得たり。

 さて其時、龍馬不在(?)なりければ、東山邊にて日を暮らし、佐々木まづ偽名の名刺を渡し、取次のものの後に尾して、渡邉、高橋、桂の三人二楷に上り、佐々木は二楷に上り、口を警戒し、土肥、櫻井、今井の三人は其邊に在りも、案内の者騒立つるより、取り鎮め置、再び楷段の上り口に来りし時、高橋、渡邉、桂等の既に楷を下り来るに會せるなり。電光石火の間の事なりしこと、想像に餘りあり。

 この三人の内、誰が僕藤吉を斬り仆し、誰々が坂本中岡に向ひしかは、今判断に苦しむも、兎も角も、一人は藤吉に當り、二人は龍馬と慎太郎に迫りしは、想像に難からざるなり。

 されば、今井は楷上の實戰者にあらざれば、勿論實際の模様を知るべき様もなく、高橋等三人のものと雖も『龍馬其外兩人計、谷宿之者有之、手に餘り候に付き、龍馬は討留め外貳人之者切疵為負候得共、生死は不見』といへるに徴しても、狼狽の状想ふべし。特に名刺の一段に『松代藩と歟認有之』といへる歟の一字、大に味あふきことなり。
 この口書を手にして、予が前に記せる坂本中岡遭難の記事を讀む時は、所謂疑問も鑿々(サクサク、あざやかなさま。議論が確実なこと)刀を迎へて解くるが如く感あるべし。この口書は、官府の記録にて、外間に流布すべきものにあらず。
 否風々兩々、三十の春秋を閲し、彼はこの口書の存在さへも、忘れしなるべし。ここに至てか、彼は自己の書籍に於て見、若しくは他人より聞く所と、自己の實歴とを混淆して、一場のローマンを捏造し、自己を鼓大に吹聴せむと試み
しより、かくも抐鑿相容れざる談話を産み出せるなり。・若し谷子にして早くこの口書を入手せられしならんには、恐らく辨駁を費す迄もなく、點頭せられしなるべし。

 同年九月二十日に至り、刑部大補佐々木高行より信郎への申書左の如し。
 
      

  さるにても、佐々木を何人の命令によりてこの事を決行したるや、勝海舟日記明治ニ年月十五日の條にいふ。
 松平甚太郎に聞ク、今井新郎糺問に付、去ル卯之暮、於京師、坂本龍馬暗殺ハ、佐々木只三郎首トシテ新郎抔ノ輩乱入ト云、尤佐々木モ上ヨリ指圖有之ニ付擧事、或ハ榎本對馬の令歟,不可知ト云々。
と勝はいふ迄もなく龍馬とは、師弟の關係あり。その刺客については、深甚の注意を拂ひ居たりしや論なし。

 松平甚太郎は、大隈守信敏(又兵庫頭河内守)にして、慶應三年正月、大阪町奉行より大目付に轉じ、同年十二月また大阪町奉行となりしが、坂本中岡遭難の際は、大目付在職中なりき。榎本對馬守道衛(始享三)は、慶応二年八月二十一日、一橋家附用人より、目付に轉せしものにして、信敏の下僕たり。
 以て這般の機徴を伺ふべし。されど其原因果して今井のいへる如く、伏見に於て同心を襲撃したる問罪の為ならしか、または坂本が後藤を援けて、大政返上の事に斡旋せしを啣めるに依りしか、はた明光丸、イロハ丸、衝突一軒よりして、三浦久太郎といくばくの關係ありしやは、于今不明なり。

 予の知れる味岡成泰氏は、手代木直右衛門の姻戚なるが、嘗て手代木翁より、佐々木氏の最期の状などを聞きて、予に、第りしことありき。佐々木は戊辰の際、見廻組を率ゐて、伏見に於て薩兵と決戰し、一時兄手代木の寓に潜服し、其分抱を受けたるが、手代木は佐々木の耳に口を寄せ『貴様も随分人を斬ったから、これ位の苦痛は當然だらう』といへば、佐々木は苦笑するのみなり帰途ぞ。

 かくて、佐々木は紀州に逃れ、終に創の為めに詩せり。墓は三井寺に在りとぞ。翁は坂本、中岡刺客の一條についてはより智悉せるものの如くなりしも、話頭、偶々これに及べば、語るを好まざるものの如く、他に轉ずるを常とせりといへり。往事茫々、恩讐兩ら存せず。筆を惜て空しく長嘆せむ哉。




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