yyzzさんのblogで高校の学校図書館の本の廃棄の様子が記事にされていた。
高校潜入.本ゲット.
いいなー…。
じゃない。
学校図書館の問題は、私にとってもものすごく身近な問題となったようなので、少し考えてみたいと思います。
「文化的な損失だなあ.」
「廃棄を決めた担当者もたいした度胸である.」
「一種の愚民政策だな,これは.」
yyzzさんのこのような意見。
私も理解できる意見であります。
ですが…。
一応図書館側の人間に近い立場として、図書館側の考えも、同じくなんとなく理解することができるのです。
今回、yyzzさんが挙げられた4つの本。
これらの本が何故廃棄されたのかを、図書館側の見方で考えてみたいと思います。
…まあ、私はまだ「図書館側の人間」と言うには不足のある人間ですから、それが的を射ているかは分からないのですけれど。
図書館、特に学校図書館の考えとして、「資料は常に新鮮でなければならない」というものがあります。
これは、特に事典や年鑑などに主に当てはまる事項ですね。
どんどん進んでいく世の中に合わせ、資料も常に刷新していかないと、資料はあるが、古くてとても使い物にならないという事態を引き起こしてしまいます。
今回、yyzzさんが挙げられた本は、全て80年代以前の本です。
動物は何を考えているか 1989年発行。
哲学散歩 1 懐疑 1892年発行。
日本残酷物語 第1部 貧しき人々のむれ 1979年発行。
演劇入門 1981年発行。
やはり、これらの本も資料とするには少々古いということになるのではないかと思います。
私は内容を知らない…少なくとも読んだことはないので、題名から想像するしかないのですが…。
「動物は何を考えているか」「演劇入門」の2冊は、読み物よりも、資料としての意味合いが強い本ではないかと想像します。
20年近くの時が過ぎた今では、内容と現実が離れてしまった部分もあるのではないでしょうか。
「哲学散歩」に関しては、哲学に新しいや古いがあるのかどうか良く分からないのですが…。
「日本残酷物語」は、日本の民族資料として価値が高い本だと聞いたような覚えがあるのですが、やはりこれも古いとみなされたのでしょうか。
資料廃棄の主な理由は、この「古い」という理由だと思われます。
古く、当代の事情と合わなくなった本は廃棄し、同じ分野の新しい本と入れ替えるのです。
「学校図書館」という、最前線の教育の現場なので、常に最新の情報を仕入れなければならないというのですね。
もちろん、古い資料に価値がないと言っているのではありません。
ただ、それを保管するのは「学校図書館」の役割ではないということなのです。
それらの役割は、公立の公共図書館…中でも特に「県立図書館」、それから国立の「国立国会図書館」に任されることになるはずです。
ただ、この廃棄する資料の選定を行うには、資料についての深い知識が必要です。
古くても、いつまでもスタンダードを保っている資料もあるでしょうし、新しければ何でも良いというものでもない。
特に、「読み物」の分野では、むしろ古い物の方が重要であることも多いでしょう。
資料の新しさ、資料の状態、利用率なんかの情報とあわせ、この内容の重要度も資料選定の重要な要素となるはずです。
yyzzさんが仰るように、「高校生は読んだ方がいいよ」という本ならば、古くても大事に取っておいたり、廃棄するにしても、同じ本を買い直すなどの手段が取られなければなりません。
しかし、この作業を行うには、人員と手間がかかる。
なかなかそこまで及ばない現状もあるようです。
そうなると、基準は、新しさ、状態、利用率だけになってしまう。
どんなに良い本だと思う人が多い本でも、古ければ捨てられ、読まれなければ捨てられてしまうことになるのです。
yyzzさんが仰るように、学校図書館は、『1人2人のために種を撒く作業』をしたり、『高校生が固い本と出会ったり「背伸び」をする機会を与える場』の役割も持っているはずなのですけど…。
yyzzさんや、多くの方が「良い」、「面白い」という本なのだとしたら、高校生が読んでも、それは「良い」し、「面白い」本なのだと思います。
しかし、そんな本でも、出会う機会がなければ、ただの紙の束にしか過ぎないのです。
その出会いの場を作るのも、司書教諭や学校司書の仕事。
今回の廃棄も、その一環であるとも考えられます。
沢山の本が廃棄されましたが、代わりに新しい本が入ることによって、出会いの場が広がるとするなら、それは歓迎すべきことなのでしょう。
だた…。
一人の本好きの立場からみると、やはり本の廃棄は寂しいですね。
私個人としては、この廃棄、そして新しい本の購入で、その図書館がより活性化することを祈るばかりです。
そうでないと、捨てられた本も浮かばれないですからね。
本と人を繋げる仕事、それが司書の仕事です。
ロクに読まれもしないまま廃棄されるなんて、悲しい本が存在しなくてすむように、しっかり本と人とを繋いで欲しいものです。
…こんな風に、人事のように書いていられるのは、今のうちなのかな。
うーん。
なんか不足な点や、間違っている点などあるかもしれません。
堂々と、「司書としての見解」として、このような類の話をするには、私の力はまだまだ全然足りません。
高校潜入.本ゲット.
いいなー…。
じゃない。
学校図書館の問題は、私にとってもものすごく身近な問題となったようなので、少し考えてみたいと思います。
「文化的な損失だなあ.」
「廃棄を決めた担当者もたいした度胸である.」
「一種の愚民政策だな,これは.」
yyzzさんのこのような意見。
私も理解できる意見であります。
ですが…。
一応図書館側の人間に近い立場として、図書館側の考えも、同じくなんとなく理解することができるのです。
今回、yyzzさんが挙げられた4つの本。
これらの本が何故廃棄されたのかを、図書館側の見方で考えてみたいと思います。
…まあ、私はまだ「図書館側の人間」と言うには不足のある人間ですから、それが的を射ているかは分からないのですけれど。
図書館、特に学校図書館の考えとして、「資料は常に新鮮でなければならない」というものがあります。
これは、特に事典や年鑑などに主に当てはまる事項ですね。
どんどん進んでいく世の中に合わせ、資料も常に刷新していかないと、資料はあるが、古くてとても使い物にならないという事態を引き起こしてしまいます。
今回、yyzzさんが挙げられた本は、全て80年代以前の本です。
動物は何を考えているか 1989年発行。
哲学散歩 1 懐疑 1892年発行。
日本残酷物語 第1部 貧しき人々のむれ 1979年発行。
演劇入門 1981年発行。
やはり、これらの本も資料とするには少々古いということになるのではないかと思います。
私は内容を知らない…少なくとも読んだことはないので、題名から想像するしかないのですが…。
「動物は何を考えているか」「演劇入門」の2冊は、読み物よりも、資料としての意味合いが強い本ではないかと想像します。
20年近くの時が過ぎた今では、内容と現実が離れてしまった部分もあるのではないでしょうか。
「哲学散歩」に関しては、哲学に新しいや古いがあるのかどうか良く分からないのですが…。
「日本残酷物語」は、日本の民族資料として価値が高い本だと聞いたような覚えがあるのですが、やはりこれも古いとみなされたのでしょうか。
資料廃棄の主な理由は、この「古い」という理由だと思われます。
古く、当代の事情と合わなくなった本は廃棄し、同じ分野の新しい本と入れ替えるのです。
「学校図書館」という、最前線の教育の現場なので、常に最新の情報を仕入れなければならないというのですね。
もちろん、古い資料に価値がないと言っているのではありません。
ただ、それを保管するのは「学校図書館」の役割ではないということなのです。
それらの役割は、公立の公共図書館…中でも特に「県立図書館」、それから国立の「国立国会図書館」に任されることになるはずです。
ただ、この廃棄する資料の選定を行うには、資料についての深い知識が必要です。
古くても、いつまでもスタンダードを保っている資料もあるでしょうし、新しければ何でも良いというものでもない。
特に、「読み物」の分野では、むしろ古い物の方が重要であることも多いでしょう。
資料の新しさ、資料の状態、利用率なんかの情報とあわせ、この内容の重要度も資料選定の重要な要素となるはずです。
yyzzさんが仰るように、「高校生は読んだ方がいいよ」という本ならば、古くても大事に取っておいたり、廃棄するにしても、同じ本を買い直すなどの手段が取られなければなりません。
しかし、この作業を行うには、人員と手間がかかる。
なかなかそこまで及ばない現状もあるようです。
そうなると、基準は、新しさ、状態、利用率だけになってしまう。
どんなに良い本だと思う人が多い本でも、古ければ捨てられ、読まれなければ捨てられてしまうことになるのです。
yyzzさんが仰るように、学校図書館は、『1人2人のために種を撒く作業』をしたり、『高校生が固い本と出会ったり「背伸び」をする機会を与える場』の役割も持っているはずなのですけど…。
yyzzさんや、多くの方が「良い」、「面白い」という本なのだとしたら、高校生が読んでも、それは「良い」し、「面白い」本なのだと思います。
しかし、そんな本でも、出会う機会がなければ、ただの紙の束にしか過ぎないのです。
その出会いの場を作るのも、司書教諭や学校司書の仕事。
今回の廃棄も、その一環であるとも考えられます。
沢山の本が廃棄されましたが、代わりに新しい本が入ることによって、出会いの場が広がるとするなら、それは歓迎すべきことなのでしょう。
だた…。
一人の本好きの立場からみると、やはり本の廃棄は寂しいですね。
私個人としては、この廃棄、そして新しい本の購入で、その図書館がより活性化することを祈るばかりです。
そうでないと、捨てられた本も浮かばれないですからね。
本と人を繋げる仕事、それが司書の仕事です。
ロクに読まれもしないまま廃棄されるなんて、悲しい本が存在しなくてすむように、しっかり本と人とを繋いで欲しいものです。
…こんな風に、人事のように書いていられるのは、今のうちなのかな。
うーん。
なんか不足な点や、間違っている点などあるかもしれません。
堂々と、「司書としての見解」として、このような類の話をするには、私の力はまだまだ全然足りません。
とりあえず持てる知識を総動員して書いてみました。
ですがそれは、裏を返せば、自分の中の知識しか使っていないということなんで…。
本当は、資料を使ってきちんと調べるべきなんでしょうが…。
本についての関心は皆さん高いようですね。
それとも、学校についての関心が高かったのでしょうか。
どちらも、なのかな。
ただ、やはり学校図書館そのものについては余り知られていないようで…。
「本を捨てる=悪」という意見が多く見られたので、一概にそうとは言えないという意見を出してみました。
でも、やっぱり、それほど痛んでいるわけでもない本が、簡単に古紙リサイクルにまわされちゃうってのは、ものすごく抵抗あることなんですけどね。
高校生からは…どう読まれるのでしょうね。
自分の学校の図書館について、関心を持っていただけると良いのですが…。
いろいろと反響があってびっくりしているところです.「本」についての関心は高いのですね.でも高校生からはどう読まれるのかなあ.
とりあえず今回のとうとよさんの記事はフロッピーにコピーして職場で(昼休みに?)読み返します.もっと,頭を整理して,自分の記憶も掘り出して考えを… まとまらないだろうなあ.