高槻城跡で、キリシタン大名の高山右近(1552~1615)が城主となる以前に築かれたとみられる堀跡がみつかったと市教育委員会が30日発表しました。堀は右近が城主となった後、城の拡張のために埋め立てられたとみられます。専門家は、絵図や文献史料の乏しい戦国時代の高槻城の構造に迫る貴重な発見として注目しています。 . . . 本文を読む
「右 やなぎ谷」と刻まれた小さい道標は、眼病・諸病のご利益で信仰を集める柳谷観音・楊谷寺(ようこくじ 長岡京市)への道を案内しています。側面に「大坂 月参講(つきまいりこう)」とあり、大坂から毎月参詣する講の人々が建立したものとわかります。 . . . 本文を読む
江戸時代、桧尾川左岸の村々は、淀川の川床上昇によって水路の排水を阻まれ、滞留する悪水に悩まされていました。寛政5年(1793)、ここに桧尾川の下を伏せ越して右岸に流すための樋(野田樋)が設けられ、桧尾川右岸の水路を通じて庄所村から芥川沿いの新川に落とし、大塚村南西端のひ門から淀川に排水する新たなルートがひらかれました。 . . . 本文を読む
明治6年(1873)に着工された京阪間の鉄道(現JR京都線)は、線路下を横切る道や水路を通すため、イギリス人技師指導の下、いくつものレンガアーチ橋が造られました。アーチ橋の入口や土台には、破却した高槻城の石垣石が転用されています。一部の石には、築城時に切り出した際の台形の痕跡(矢穴痕:やあなあと)がみられます。 . . . 本文を読む
平安時代の歌人・能因法師は、古曽部に居を構えて和歌を詠み生涯を終えたとされます。右手の石碑は、その墓と伝わるの能因法師噴を案内する道標で、幕末の元治元年(1864)に古い石碑を再建したものです。 . . . 本文を読む
奥の大燈籠は江戸中期の寛延3年(1750)、芥川村や富田村の氏子によって建立されました。狛犬は幕末の文久2年(1862)の建立。高槻城下をはじめ、河辺郡・能勢郡・鳥飼村・出口村など旧摂津・河内国内の高槻藩領や預地の人々も寄進したことが東側の狛犬から分かります。 . . . 本文を読む
西国三十三所の第21番札所・穴太寺(亀岡市)と、日蓮宗の霊場・能勢妙見山への道を案内する道標です。この道標は、出羽国秋田郡川尻村(秋田市)から来て、この地で亡くなった男女2人の供養塔を兼ねています。 . . . 本文を読む
板碑とは、主に鎌倉時代から室町時代にかけて建てられた供養塔です。上部が山形で、その下に2条の溝が刻まれるのが特徴です。この板碑は、12人の僧で法華経を千回読経したことを記念して建てられました。 . . . 本文を読む