野田順康 

つぶやき

急成長するアジアの光と陰

2008-02-19 18:59:44 | Weblog
急成長するアジアの光と陰 ・・・国連ハビタット(福岡)設立から10年・・・
昨年3月まで新しい国土計画(国土形成計画)の策定に携わっていた。いくつかの太い柱を考えていたが、中でもアジアとの共生は重要な課題であった。国内的には人口減少・高齢化、国際競争力の低下など先行きの不透明感があるが、アジアに軸足を移し、成長するアジアと共に生きる道を選択すれば、明るい未来が見えてくるのではないかと考えた。本年4月の国土審議会計画部会報告でも、東アジアとの交流連携、シームレスアジアの形成などアジアとの共生に向けた柱が残っている。
昨年9月に現職に着いて、アジアに出張することが多く、国土計画策定時に想定していたよりも、アジアが急成長していることを実感している。1997年の金融危機の後、アジアの成長もここまでかと危惧する向きもあったが、その後も力強い回復、成長を続けている。中国、インドの台頭もあって、過熱気味ではないかと思うほどの状況である。しかし、国内的には不均衡な発展が続いており、都市と農村の地域的な水平格差、都市内の富裕層と貧困層の垂直格差が同時に拡大しており、一つの国に二つの経済があるように見える。
特に、富裕層に加えて確実に新中間層が成長しており、この二つのグループが日米欧の諸都市と十分に競争できるような「光」の経済を形成しているようである。最近、クリエイティブで多様性のある都市が持続的に成長すると言われている。都市学者リチャード・フロリダは、寛容性、技術、人財をその評価軸とし、特に、科学者、技術者、起業家、芸術家などを「クリエイティブクラス」と呼んでいる。アジアはまだそんなレベルには来ていないといった議論を聞くが、上述した富裕層と新中間層が作りだした経済は、アジアの多様性を十分に残しながらフロリダが指摘する要素を貯えたクリエイティブな都市を形成しているのではないか。インドや中国におけるクリエイティブクラスの数は膨大であろう。さらに、この経済は貧困層を低賃金労働者として雇用するため、先進国と比較して有利であり、相当に強い国際競争力を持っていると言わざるを得ない。
一方、特に過去30年間におこった急速な経済成長は所得格差を広げており、今後25年間にアジア地域で約10億人の人口増加があることを考えると、もう一つの貧困の経済、「陰」の経済が見えてくる。スラム地区が急速に拡大するのは確実であり、貧困対策に対する要請が極めて高まるものと予測される。
このような状況の中、8月1日に私共のアジア太平洋事務所は設立10周年を迎える。1997年の設立当初の予算規模は30億円程度であったが、現在の総事業費は130億円を越え、現地事務所には約2000人の職員を抱えるようになった。アジア太平洋地域における貧困対策や住宅、生活インフラなどの需要が確実に増加している現われだと思う。
一方、この間、当事務所は地元福岡への貢献や連携を進め、国際会議の開催や講演会を頻繁に行ってきた。今後はさらにその連携を発展させるため、地元の技術、ノウハウによる国際協力を進めるほか、具体的な開発プロジェクトへ地元企業にも参加してもらいたい。現在、アジア都市連携センター構想を進めているが、地元からアジアへの総合的な情報発信と地元企業の技術の活用に貢献できるものと考えている。
8月1日にはアジア都市ジャーナリスト会議も開催する予定だ。アジアに近い北部九州から何も東京を経由してアジアに情報発信する必要はなかろう。地元から直接アジアに情報発信できるチャネルが出来上がれば、さらにアジアに開かれた地域づくりが進むものと期待したい。

アジア連携による新しい発展

2008-02-19 18:57:10 | Weblog
アジア連携による新しい発展 ・・地方都市の挑戦・・
福沢諭吉は欧米諸国を視察した後、日本が大きく発展する術として、西欧文化の導入を決意した。いわゆる「脱亜論」である。以降、日本人は欧米の文化に親しみ、その経済・社会システムを導入して今日の繁栄を築いてきた。国土構造の観点からこの過程を見ると、脱亜入欧の効率的な実現のために、人・物・金・情報を中央に集めて、東京を中心に欧米との経済文化交流を進めてきたと言える。戦後は特にその傾向が米国との間で強まった。結果として、東京への一極集中が進み、未だに情報、金融などの高次都市機能は東京へ吸い寄せられている。日本の人口は減少に転じたと推計されており、総人口が約1億人になる2050年までには、かなりの経済的影響が懸念されるが、3500万人からなる東京圏はたとえ国際的地位が低下したとしても、国内的には相当の間、経済の中心であり続けるだろう。
しかしながら、明治以降続いたこのような「脱亜入欧」型の構造も徐々に変わってきた。世界経済の三極化が進む中で、日本経済もアジアにシフトしつつある。例えば、日本の地域別輸出シェアの推移を見ると、1988年に欧米向けが約六割であったものが、2004年には四割弱まで低下し、一方で三割弱であったアジア向けの輸出は約五割にまで上昇している。アジアを経由した欧米への輸送を考慮しても明らかに構造変化があると思われる。
また、この変化は国内貨物取扱の地域的変化をもたらしている。例えば、ここ10年間のコンテナ輸出取扱量の伸び率を見ると、全国平均に対して、下関、金沢、新潟など日本海沿岸諸港が高くなっている。絶対量としては太平洋側に及ぶものではなく、韓国釜山港の動向にも左右されるが、国土構造的には太平洋側から日本海側へのシフトの兆しと見ることが可能だろう。こういったシフトはやがては航空需要にも波及し、米国で見られるような小型旅客機の就航に繋がれば、大陸に向けた地方空港の新たな活用方法も考えられよう。
このような構造的変化はやはりアジアの成長・繁栄に依拠するところが大きい。岡倉天心はその著書「東洋の理想」の中で、「アジアは一つ」と主張するとともに、インド、中国を「2つの強力な文明」と記述している。今まさにこの2つの文明が世界経済に旋風を巻き起こしている。日本としては、いたずらに中国・インド脅威論に傾くよりも、今こそアジア連携による「興亜」型の新しい発展を模索すべきだ。都市・環境問題や省エネ対策などに貢献し、地域の安定に寄与することによって、日本自体の繁栄も維持されると考える。
このような構造変化への対応を考える場合、特に九州の今後に着目したい。近い将来、中国大陸沿岸部を重心に力強い東アジア経済圏が形成されるものと思うが、EUを参考にすれば、緊密な経済圏の直径はせいぜい2000キロ程度である。それを超えると北米経済圏のように疎密になる。東アジア経済圏と密接な関係を築く上で九州の優位性は極めて高いと言える。すでに、九州北部と大陸の間には相当の航路が整備されているばかりでなく、例えば国連(ESCAP)が定めたアジア・ハイウェイは九州北部から韓国に繋がっている。また、本年9月の韓半島開発会議では、中国、ロシア、北朝鮮が半島を貫く鉄道路線に合意したとの報告があった。解決すべき国家間の問題は多々あるが、こういった動きは充分に把握しておく必要がある。さらに、韓国は真剣に北京・ソウル・東京を結ぶBESETO構想を検討しており、将来的にはそのような幅広のアジア開発軸が形成されることになるであろう。
この場合、様々な地方都市の挑戦が想定されるが、中でもアジア開発軸の玄関となる福岡・北九州の果たす役割は大きい。港湾も都市型空港も整備され、産業や人材の蓄積も進んでいる。北九州には卓越した環境技術もある。また、岡倉天心の提唱に基づき設立された国立博物館が示すように、何よりも歴史的に培われた文化、都市の磁力がある。
オリンピックで首都に果敢に挑戦した福岡市は、本年、米雑誌で「世界で最もホットな10都市」に選ばれたが、昨年、すでに米紙が世界の7つの「最も住みよい都市」に選んでいたことはあまり知られていない。さらに、福岡の場合には、後背人口も相当のものがある。同市から3時間以内(空港へのアクセス時間を含む)で到達できるアジアの都市人口を推計すると約6,700万人であるのに対して、東京は約1,000万人に過ぎない。将来的には1億人程度を視野に入れた九州北部の地域設計が必要だ。一方で、成長するのが運命であるだけに、その魅力、磁力をいかに維持するかという課題も存在している。
時代と共に都市の盛衰がある。日本の高度成長とそれに伴う東京の一極集中は悠久の歴史を考えれば、そう永続的なものでもあるまい。新たな国際関係と国土構造に向けて、分権化に呼応したチャレンジがなされるものと期待したい。


東アジアと新しい国土計画

2008-02-19 18:48:41 | Weblog
東アジアと新しい国土計画

1.「脱亜入欧」と「アジア主義」
よくご存知の福沢諭吉は、欧米諸国を視察した後、我が国が欧米のような国家に成長することを願って「脱亜入欧」という思想を打ち出した。翁が50歳の時、時事新報という雑誌に脱亜論という論文を掲載し、「ヨーロッパは文明。アジアは未開野蛮。我らアジア東方の悪友を謝絶する」と記述している。この頃から、日本人は欧米と同格という位置づけを好むようになったのではないか。その一方で岡倉天心はアジア主義を主張した。氏は、今の東京芸術大学の創始者であり、後にボストン美術館の東洋部長を務めた稀な国際派の日本人である。名著「東洋の理想」を著し、その書き出しで「アジア・イズ・ワン(アジアはひとつ)」と記述している。岡倉天心は、日本がアジアと共に発展していくことを強く期待した人であり、その後の不幸な構想に繋げられたりもしたが、アジア主義の魁的存在と言える。
日本の外交であれ、国際化論であれ、常にこの「脱亜入欧」と「アジア主義」が交錯しながら論じられているように思える。我が国の戦後の高度経済成長は欧米との連携の中で実現されたことは間違いなく、その意味において脱亜入欧したのである。しかし、その一方で、アジアを何と考えているのであろうか。同じ目線で話し合えているのだろうか。アジアと連携した我が国の未来を考える上では、その多様な文化を理解し尊敬し、同じ目線で連携協力していくことが極めて重要である。
2.東アジア経済圏との連携
 21世紀初頭を考えた場合、アジア太平洋全体を視野に入れた経済連携はやや時期尚早な気もする。通貨統合まで漕ぎ着けたEU経済圏の広がりを見ても、緊密な経済圏が形成されているのは直径約2000キロの円に入る範囲である。その範囲を超えれば、輸送コスト等が大幅に増加し経済の緊密な紐帯を維持するのはやや困難と思われる。
最近の物流統計等によれば、世界経済は北米、EU、アジアの三極構造が鮮明化し、人流・物流なども三極を結ぶ流動が世界の基幹となってきている。しかし、アジアの中をさらに詳しく見ていくと、アセアン10ヶ国、シンガポール、台湾、韓国、そして急成長する中国の寄与が大きく、特に中国の急成長を前提とすると、香港、上海あたりに重心を置いた巨大な東アジア経済圏が21世紀前半にも出現することになりそうである。空間的にEUの例を参考にすれば、我が国もこの経済圏の東の端には位置するわけで、経済圏成長の恩恵を享受することは可能なはずだ。国内的には人口減少・高齢化、投資余力の逓減、国際競争力の低下など先行きの不安感、不透明感を強調する向きもあるが、アジアに軸足を移し、アジアと共に生きる道を選択すれば明るい未来も見えてくるというものである。
昨今、我が国の国際競争力が低下したというデータを下に国際競争力の強化を強調する向きもあるが、東アジア諸国との関係においては、むしろ連携協力の方に力点を置いたほうが良さそうである。何といっても日本はまだまだ経済大国であり技術大国であるので、東アジア経済圏で眦を決して競争する立場ではない。支援できるものは支援し、技術移転できるものは移転しながら、成熟国家として東アジア経済圏の成長を支え、結果として持続的成長の恩恵を受けるといった姿勢でなければ、また新たな摩擦を起こしかねない。さらに、東アジアが今後とも北米、EUと連携しつつ持続的発展を続けていくためには、日本が研究開発のみならず大都市問題、環境問題などに対応してきた経験、戦略など知恵の部分で東アジアをリードしていくことが不可避と思われる。
3.新しい国土ビジョンの必要性
 21世紀の我が国経済社会は上述したような東アジア経済圏との連携を通じて、引き続き活力を維持していくものと期待されるが、一般の目からその姿をイメージすることが難しく、むしろ、身近な国内的な要因に端を発して、不安感や不透明感が広がっている。
 昨今、雑誌、新聞などの特集も組まれているが、人口減少と高齢化、それに伴う経済規模の縮小や国際競争力の低下、また自分自身の生涯設計の見通し等が相まって不安感、不透明感が漂っているようである。
 確かに、国土政策の観点からも人口減少に起因する課題は数多くある。2006年に約1億2800万でピークを打った人口は2050年には約1億人、今世紀末には6500万人にまで低下するのであるから、国土政策に対する影響はかなり大きい。例えば、人口5000人未満の町村は現在の約700から2050年には約1300にまで増加すると推計されているので、過疎地域におけるコミュニティの維持や生活関連サービス(下水、学校、消防、医療)の提供はかなり厳しい状況が想定される。森林や農地の維持、水資源涵養など多面的機能の確保も難しくなるであろう。都市においても、高齢化の進捗や中心市街地の衰退、住宅街のオールドタウン化など様々な問題が発生してくるものと予測される(もちろん、空間的に余裕ができるなどデメリットばかりではない)。
 政府においては、このような課題に対処するため、地域の創意と工夫による活性化を推進している。構造改革特区制度、都市再生や地域再生など、まだ緒に就いたばかりではあるが、地域からの反響は大きい。
 一方、こういったボトムアップなアプローチとともに、国として安定した国土・国民生活の将来像や厳しい状況にある地域の展望を人々に示すことが出来れば、上述した不安感、不透明感を払拭できるものと考える。現在、経済財政諮問会議において、日本の経済社会全体のシナリオについて検討が進められているが、同様に、農山漁村や森林・農地の維持管理、東アジア経済圏との連携を支える国土基盤のあり方、海洋を含めた国土資源の展望を示す国土ビジョンも必要不可欠である。

4.国土形成計画法
 国土ビジョンの場合には、これまでの「開発」の基調を脱して成熟社会の明快な考え方を示すことが肝要であり、ストックの活用を重視し国民の受益に重点をおいた全く新しい国土計画とすることが重要である。国土ビジョン、国土計画というと内容にかかわらず昭和20年代から続く古い開発思想と捉えられがちであるので、現在の国土総合開発法を刷新した新しい制度、皮袋で展望作業をする必要がある。
 このような状況を踏まえて、本年3月1日、国土総合開発法改正案(国土形成計画法案)が閣議決定され、国会に提出された。今次改正の最大の眼目は、①国総法制定時代(昭和25年)の古い開発思想から脱皮し、21世紀の成熟社会に対応した基本理念と計画事項に改めること、②地方分権の流れを受けて、国と地方の協働による国土ビジョンづくりとすることである。
 前者については、基本理念で「地域の特性に応じた自立的発展等の基盤となる国土の形成」「国内外の連携」などを明記するとともに、計画事項に既存ストックの有効活用や環境、海洋などの新しい観点を追加してある。後者については、全国計画から広域地方計画に軸足を移し、国、地方、経済界で構成する広域地方計画協議会が計画づくりの中核になるなど、新しい協働の仕組みを導入している。
 21世紀に東アジアと連携して繁栄する我が国の姿や安全・安心・安定な国民生活の姿を明確にするためにも、国土形成計画法の速やかな成立を願うばかりである。

東アジアの一員としての国土づくり

2008-02-19 18:46:56 | Weblog
東アジアの一員としての国土づくり

1.アジアに軸足を移す
明治以降、我が国はアジアの一員であることと欧米のパートナーになることの間で揺れ動いてきたと言える。よくご存知の福沢諭吉は、欧米諸国を視察した後、我が国が欧米のような国家に成長することを願って「脱亜入欧」という思想を打ち出した。翁が50歳の時に時事新報という雑誌に脱亜論という論文を掲載し、「ヨーロッパは文明。アジアは未開野蛮。我らアジア東方の悪友を謝絶する」と記述している。この頃から、日本人は欧米と同格という位置づけを好むようになっていった。その一方で岡倉天心はアジア主義を主張した。氏は、今の東京芸術大学の創始者であり、後にボストン美術館の東洋部長を務めた稀な日本人であった。名著「東洋の理想」を著し、その書き出しで「アジア・イズ・ワン(アジアはひとつ)」と記述している。岡倉天心は、日本がアジアと共に発展していくことを強く期待した人であり、その後の不幸な構想に繋げられたりもしたが、アジア主義の魁的存在と言える。
日本の外交であれ、国際化論であれ、常にこの「脱亜入欧」と「アジア主義」が交錯しながら論じられているように思える。我が国の戦後の高度経済成長は欧米との連携の中で実現されたことは間違いなく、その意味において脱亜入欧したのであり、日本人はその事を誇りに思ってよいのであろう。しかし、その一方で、アジアについて何と考えているのであろうか。同じ目線で話し合えているのだろうか。「東アジアの一員」について記述するにあたり、我が身も含めてアジアに軸足を移すために姿勢を正す必要があると考える。アジアの多様な文化を理解し尊敬し、アジアから学ぶ真摯な態度を保ち、同じ目線で連携協力していくことが、アジアに軸足を移し東アジアの国々と共に21世紀の繁栄を分かち合える第一歩ではないか。

2.東アジア経済圏との連携
 近年においても、多くの国際政治学者や経済学者が日本とアジア太平洋経済圏との連携について研究して来た。例えば、昭和53年からの大平内閣においては「環太平洋連帯構想」が打ち出されて、外交のみならずアジア太平洋の広域経済圏の形成も検討され、今日のAPEC(アジア太平洋経済会議)の枠組みに繋がったとも言える。しかし、21世紀初頭を考えた場合、アジア太平洋全体を視野に入れた経済連携はやや時期尚早な気もする。通貨統合まで漕ぎ着けたEU経済圏の広がりを見ても、緊密な経済圏が形成されているのは直径約2000キロの円に入る範囲である。その範囲を超えれば、輸送コスト等が大幅に増加し経済の緊密な紐帯を維持するのはやや困難と思われる。
最近の物流統計等によれば、世界経済は北米、EU、アジアの三極構造が鮮明化し、人流・物流なども三極を結ぶ流動が世界の基幹となってきている。しかし、アジアの中をさらに詳しく見ていくと、アセアン10ヶ国、シンガポール、韓国、そして急成長する中国の寄与が大きく、特に中国の急成長を前提とすると、香港、上海あたりに重心を置いた巨大な東アジア経済圏が21世紀前半にも出現することになりそうである。空間的にEUの例を参考にすれば、我が国もこの経済圏の東の端には位置するわけで、経済圏成長の恩恵を享受することは可能なはずだ。国内的には人口減少・高齢化、投資余力の逓減、国際競争力の低下など先行きの不安感、不透明感を強調する向きもあるが、アジアに軸足を移し、アジアと共に生きる道を選択すれば明るい未来も見えてくるというものである。
昨今、我が国の国際競争力が低下したというデータを下に国際競争力の強化を強調する向きもあるが、東アジア諸国との関係においては、むしろ連携協力の方に力点を置いたほうが良さそうである。何といっても日本はまだまだ経済大国であり技術大国であるので、東アジア経済圏で眦(まなじり)を決して競争する立場ではない。支援できるものは支援し、技術移転できるものは移転しながら、成熟国家として東アジア経済圏の成長を支え、結果として持続的成長の恩恵を受けるといった姿勢でなければ、また新たな摩擦を起こしかねない。さらに、東アジアが今後とも北米、EUと連携しつつ持続的発展を続けていくためには、日本が研究開発のみならず大都市問題、環境問題、貿易摩擦などに対応してきた経験、戦略など知恵の部分で東アジアをリードしていくことが不可避と思われる。東アジアと共に生きるために我が国に何が出来るのかが、これから問われていくことになる。

3.将来に向けた我が国の基本的な対応
世界的に国際競争が激しさを増す中では、特定の産業分野や東アジアの特定地域に重点を置いた戦略的な対応が期待されることは言うまでもないであろう。
国が中心となる戦略としては、東アジア諸国等とのFTA締結に向けた国内対応の充実や東アジア域内の国際交通の円滑化及びODA(政府開発援助)の活用、各種規制緩和などがある。さらに、我が国の活力、国際的な連携力を維持・向上させるには、国際的な人的資源の活用や訪日ビザ取得、CIQ(出入国管理)に関する負担軽減などを推進せねばならない。
また、地域が中心となって対応するものとして、地域の特色・個性を重視した産官学の連携、海外からの留学生・研究者等人材の受入、外国人起業家の育成・支援、外資系企業の誘致、外国人向けの居住・教育・医療・交通環境の整備などがある。
今後の外国人旅行者の誘致で重要となる視点は、ブロックレベルまたはブロック間の連携による広域的な受入れ体制の確立である。また、東アジアを中心としてターゲットとする誘致相手国・地域を設定し、相手方のニーズに合わせた観光戦略を作成・実行することが重要となってくる。
一方、国際航空については、国際拠点空港の利便性を向上させるため、需要に対応した整備・運用、国内線への乗り継ぎの簡便化を図る必要がある。また、近接性を考慮して、小型機の参入を促進することも視野に入れて、東アジアへの日帰り圏の形成を推進することが大切であろう。
国際海運に関しては、FTA(自由貿易地域)や増大する物流マネージメントへの対応するため、低コスト化を可能にする中枢港湾の育成やコンテナターミナルへのアクセス整備を進める必要がある。さらにブロックごとに重点的に交流する東アジア特定地域への国際コンテナ便を確保できるよう、地方公共団体等が連携しつつ環境整備を行っていくことが期待される。
さらに国際情報通信については、東アジアの拡大するマーケットを指向したe-コマースを支える情報通信網の確立が重要である。また、東アジアを中心として携帯電話や高速データ通信等が国境を越えて国内同様に利用できるよう、東アジア各国が国際基準を導入するよう働きかけることも考えられる。

4.地域ブロックにおける広域国際交流圏の形成
先に述べたようなグローバル化に適切に対処するために、「21世紀の国土のグランドデザイン(第5次全国総合開発計画)平成10年閣議決定」では、4つ戦略の1つとして「広域国際交流圏の形成」を掲げている。この戦略は広域ブロック毎に展開されるものであり、その目的は、①多様な国際交流に基づく世界に開かれた国土の形成、②東京等大都市に依存しない自立的な国際交流活動、③空港、港湾やこれらを結ぶ交通基盤、情報通信基盤の下での多様な分野での国際交流、④地域毎の国際的に魅力ある立地環境の整備としている。
計画策定後、約6年が経過しようとしているが、概ね以下のような傾向が見られている。
(1)日本人出国者数、在留外国人数、物流、情報流など我が国の国際交流量は各ブロックで着実に増加している。
(2)自ブロックの空港・港湾から直接海外と往来する割合は、九州、沖縄では大都市圏並に高いものの、それ以外の地域は相対的に低くい。
(3)各ブロックでは、ビジネス、観光、文化、研究など多様な分野で交流が着実に進展している。
(4)我が国の立地環境は、コストの面で諸外国と比較して不利となっている。また、近年では、各地で外資誘致施策などの取組が緒についたところであるが、その優遇措置の内容は東アジア諸国と比較して十分ではない。
このような状況を踏まえると、引き続き、国際拠点空港・港湾における乗り継ぎ・積み替え機能の強化や立地環境の改善施策等を積極的に推進していく必要があると思われる。
北海道から九州・沖縄に至るまで、それぞれの広域国際交流圏が特色・個性ある可能性を秘めている。東アジア経済圏ばかりでなく、引き続く欧米との関係や中国北部、ロシア、北欧、メルコスール(南米共同市場)等との協力関係を考えながら、それぞれの地域が特色ある国際連携を模索されるものと期待したい。

5. 九州地方の展望
 東アジア経済の成長と連携した日本経済の持続的な進展、日本社会の活力の維持を考える時、その窓口になり得る九州の役割は大きいと言える。グランドデザインの第三部では地域整備の基本的方向を示しており、10地域のうち6地域がアジアとの連携について僅かなりとも記述している。しかし、九州地域については「我が国のアジアへのゲートウエイ」「アジアと一体化して発展する九州」として位置づけられており、全国的観点からも期待するところが多い。
 先にEU経済圏の空間的広がりに触れたが、仮に、東アジア経済圏の重心を上海あたりとした場合、EU並みの経済圏の広がりであれば西日本の一部にしか圏域がかからない。もしそうだとすれば、九州地方は地理的・空間的にかなり優位な状況になると想定される。もちろん歴史的・文化的な近接性も高く、アジアとの交流も元々頻繁であったわけだから、ポテンシャルは十分にあるといえる。
 航空業界等には、やはり大きな人口、市場を抱えた関東圏、関西圏が直接アジアと連携するといった見方もあるようであるが、福岡・上海間1時間30分に対して成田・上海間3時間というのは、日帰り圏を形成する場合にはかなりのハンデとなる。船を考えた場合には、さらに大きな差が生じる。すでに上海・博多間には高速船が就航し26時間で両地点を結んでいるが、近い将来には24時間以内の就航が可能になり、上海・博多間を毎日定期便が就航するようになる。東京湾、大阪湾との時間差は1日を越えることから、かなり有利な物流拠点となり得る。さらに規制緩和が進めば、上海から来たトラックが直接国内を陸送することや、JRコンテナでの配送、急ぐものは周辺空港からの搬送も可能であり、潜在的に重要物流拠点の可能性があると言える。21世紀が東シナ海の新たな海運時代であることを想定すれば、極めて大きな潜在力を感じる。また、昨年国連アジア太平洋委員会においてアジア・ハイウエイのルートが確定されたが、東京を西の端とし大陸への玄関は九州北部となる。朝鮮半島が安定してくれば、大陸との大動脈が九州北部を通過することになるであろう。
 ちなみに、韓国から来訪者数は九州地方が最多となったようである。対日投資の促進、海外企業の誘致、観光客の誘引、外国人にやさしい街づくり等、外に開かれた地域づくりを推進すれば、実力を備えゲートウエイ地域、いや更なる可能性が九州地方に現れるものと思う。

6.新しい国土ビジョンの必要性
 21世紀の我が国経済社会は上述したような東アジア経済圏との連携を通じて、引き続き活力を維持していくものと期待されるが、一般の目からその姿をイメージすることが難しく、むしろ、身近な国内的な要因に端を発して、不安感や不透明感が広がっているようである。
 昨今、雑誌、新聞などの特集も組まれているが、人口減少と高齢化、それに伴う経済規模の縮小や国際競争力の低下、また自分自身の生涯設計の見通し等が相まって不安感、不透明感が漂っているようである。
 確かに、国土政策の観点からも人口減少に起因する課題は数多くある。2006年に約1億2800万でピークを打った人口は2050年には約1億人、今世紀末には6500万人にまで低下するのであるから、国土政策に対する影響はかなり大きい。例えば、人口5000人未満の町村は現在の約700から2050年には約1300にまで増加すると推計されているので、過疎地域におけるコミュニティの維持や生活関連サービス(下水、学校、消防、医療)の提供はかなり厳しい状況が想定されるし、森林や農地の維持、水資源涵養など多面的機能の確保も難しくなるであろう。都市においても、高齢化の進捗や中心市街地の衰退、住宅街のオールドタウン化など様々な問題が発生してくるものと予測される。
 政府においては、このような課題に対処するため、「官から民へ」「国から地方へ」また「地方にできることは地方に」といった観点から規制緩和などによる地域の創意と工夫による地方の活性化を推進している。構造改革特区制度、都市再生や地域再生など、まだ緒に就いたばかりではあるが、地域からの反響は大きく、横並びや中央依存といった地域の意識を改革し、自律的な発展に結びつくものと期待される。
 さらに、こういったボトムアップなアプローチとともに、国として安定した国土・国民生活の将来像や厳しい状況にある地域の展望を人々に示すことが出来れば、上述した不安感、不安定感を払拭できるものと考える。現在、経済財政諮問会議において、日本経済全体のシナリオや真に豊かな国民生活等について検討が勧められているが(日本21世紀ビジョン)、同様に、農山漁村や森林・農地の維持管理、都市整備や必要な国土基盤のあり方、海洋を含めた国土資源の展望を示す新国土ビジョンも必要不可欠と言わざるを得ない。
 特に国土ビジョンの場合には、これまでの「開発」の基調を脱して成熟社会の明快な考え方を示すことが肝要であり、ストックの活用を重視し国民の受益に最重点をおいた全く新しい国土計画とすることが重要である。国土ビジョン、国土計画というと内容にかかわらず昭和20年代から続く古い開発思想と捉えられがちであるので、現在の国土総合開発法を刷新した新しい制度、皮袋で展望作業をする必要があると思われる。

7.結び
 地方分権の流れを受けて、現在、国と地方の税財政の在り方を見直す三位一体改革が進められているが、双方に言分があって、まだ落とし処が見つからない状況にある。分野毎、地域毎に違った課題があるので明快な解決策は一朝一夕には出せないだろう。やはり普段から個別の事案ごとに国と地方が同じ目線で議論し、調整できるような場、制度が必要ではないかと考える。広域的な観点からブロック単位で、国の地方組織、地方自治体、経済界、民間団体が一同に会して、地域のビジョンを作りながら個別の事案を検討、調整していく。そのような仕組みを通じてスムーズな国と地方の連携協力を実現できるのではないだろうか。いずれにしても国と地方の良好な連携協力なしに活力ある経済社会を21世紀に渡って維持することは難しい。東アジアや欧米との連携のみならず、ロシアやメルコスール(南米共同市場)との協力関係を強化する上でも、国と地方の連携プレーは必要不可欠と言えるだろう。

かけ橋

2008-02-19 18:42:26 | Weblog
「かけ橋」
  学生時代に「新渡戸稲造の生涯」という本を読んだことがある。今でこそ五千円札の人物像で有名になったが当時はまだ氏のことを語る人は少なかった。新渡戸は幼い頃から英語教育に関心を示し、札幌農学校、東京大学等を経た後、さらに語学を磨き見聞を広めるために、米国ジョンズホプキンズ大学に留学している。なぜ英語を勉強するのかという問いに、「われ太平洋のかけ橋とならん」と答えたと言う。まだ世界の弱小国であった日本で、このような大きな志を持った明治の偉人に感銘を受ける。氏は1900年に名著「武士道」を著して世界的に有名になり、その後、1919年に国際連盟事務次長に就任する。我が国が輩出した稀な国際人である。
 ところで、私は昭和54年に当時の国土庁の一期生として採用された。学生時代から計画学を専攻していたので、日本の国土計画に参画できると意気揚々にドメスティク官庁に入庁し、まさか国際的な業務に従事することはないと思っていた。ところが、入庁3年目にして国連人間居住計画(ハビタット、ナイロビ本部)で仕事をしてみないかとの話が持ち上がり、なんとなく国際感覚が大事だと思っていたので、即座に面接を受けますと返答してしまった。ここから私の苦しみが始まる。
ハビタットへの赴任にこぎ着ける1年半の間も苦労したが、日本人が二人しかいないナイロビ本部で仕事をするのは大変骨が折れた。日本に対する認識が国内と海外でこれ程違うものかとも思い知らされた。学生時代に短期留学したことはあったものの、国際社会の日本に対する厳しい見方を肌身に感じることは無かった。例えば、ある国際会議の席上で、日本の代表がスピーチを始めると議長と事務局が雑談を始めた。ステイトメントの棒読み、内容が無い、英語が下手だ等いろんな理由があったとは思うが、拠出金の話以外ほとんど相手にされない状況。一方、フィリピンが演説を始めると事務局が注目する。アセアンへの影響力、ロビーなどの調整能力、国連内での影響力等いくつかの理由があったと思う。今は随分変わったが当時としてはショックであった。
ただ、この国連勤務は私の人生に非常に大きな影響をもたらした。国際感覚を育むチャンスであったことはもちろんのこと、ヨーロッパやアジア・アフリカ等から集まった沢山の国連職員と知り合うことが出来たのである。特に、直属の上司はイタリア政府から来ていたし、ヨーロッパの政府職員が幹部として派遣され帰って行く姿を見て、日本政府との大きな違いを痛感させられた。新渡戸のような大それた「かけ橋」ではないが、自分も日本政府と国連を往復するような役人人生を送れないかと思ったのもこの頃である。
2年数ヶ月の国連勤務を終えて日本に戻ったのは1985年の夏であった。帰国して一番苦労したのは自分の語学力を維持することであり、努力すればするほど周囲からは変人・奇人に見られていたに違いない。さらに告白してしまえば、再度国連に赴任できるようあらゆる方法を考えた。最後には自分でポストを作って赴任したのがジュネーブにある国連災害救済調整官事務局(現在の人道問題局。国連欧州本部の図書館に新渡戸の肖像がかけてあったのには感激した)である。
今度はフランス語の世界。語学もさることながら、ここでも日本と国際社会の大きなギャップにさらされることになった。赴任前、国土庁の防災局にいたので自然災害対策には慣れていたが、国連の災害対策は人災、特に紛争戦争を含んでおり、政治的、財政的観点からは紛争戦争の比重が極めて高い。特に、私が担当した最大の仕事は1990年8月に始まる第一次湾岸危機の人道援助(被災民の救済)である。当時担当していた日本人が殆どいなかったこともあり、沢山の方からお問い合わせを頂いたが、国際社会の見方と日本の見方に極めて大きなギャップがあったといわざるを得ない。国際社会が連合軍の攻撃を前提として動いている最中に、日本からは「まさか攻撃なんかしませんよね」という質問ばかり。戦後の社会システム、教育の中で腫れ物に触るように、また臭いものに蓋をするようにしてきた結果、国際社会との間に大きなギャップが出来てしまったと思った。
3年間、紛争・戦争また緊急援助を担当し、また国土庁に戻ったのが1992年であった。その後10年間、自分としては真っ当な役人生活を送ったつもりである。しかし、願えばかなうというものか、ハビタットの事務局長からアジア太平洋事務所長に応募してみないかという話があったのが2001年の夏。長い面接の後、2002年4月に任用された。アジア太平洋地域で約1000人の職員と約80の事業を抱える事務所であり、赴任当時の最大の焦点はアフガニスタン復興事業。その後はイラク復興支援へと移って行った。イラクは因縁と言えば因縁である。アフガニスタンへもイラクへも何度か足を運んで住宅再建、水供給、学校再建等の居住関連事業に携わってきた。国際外交や対政府折衝ばかりでなく実際の事業の推進がなかなか難しかったというのが本音である。現地の実施体制や人材教育訓練といった問題のほか、やはりセキュリティが大きな壁になっていた。特に、2003年7月にバグダッドに入った時は、まだ銃声の鳴り響く状態であったし、現地事務所も襲撃にあったりした。私が発った後、国連事務所が爆破され20数名が犠牲になっている。また、日本の自衛隊が駐在するサマワでは当時ハビタットだけが学校再建事業をやっており、これも現地職員の安全に最大限の注意を払って事業を実施する必要があった。
20年間に3回国連と日本政府を往復したが、日本のポジションも大きく変わったと思っている。国際的な発言力も随分とついてきたと思うし、特に、第一次湾岸危機後、紛争・戦争に対する対応が大幅に改善されたと思っている。国際緊急援助隊法の改正に始まり最近の有事関連法制の整備によって政府部内の体制も国民の認識も変わった。
この間、どれ程日本政府と国連の「かけ橋」になれたか自信はないが、様々に国際緊急援助、紛争・戦争問題に関わらせて頂いたことに感謝している。ただ、日本の立場や制度が大幅に変わったのに、国際関係に関る政府内の人事システムがあまり変わらないことは残念だ。沢山の優秀な若い職員が毎年海外留学に出て行くものの、その能力を十分に活用できていないのが現状ではなかろうか。若い時に留学した職員が幹部になったら外国語を話せないといった事例を聞く。国土計画の担当者として、世界に開かれた国土の形成を目指そうとしている。より多くの政府職員が我が国と国際社会の「かけ橋」になってくださることを期待してやまない。(2006年4月1日から再度、国連人間居住計画に戻っている。国連4回目となった)。