「外部」と見た創価学会の現場

2024年08月19日 12時39分54秒 | 社会・文化・政治・経済

 

各地で人間に寄り添うネットワークを築く学会の原動力を探求!

【はじめに】
【序章】 なぜいま創価学会なのか
【第1章】 強さの根源「座談会」
【第2章】 団地を支える「調和」の生き方
【第3章】 農漁業――偶然を必然に
【第4章】 「人生の軸」探す若者たち
【第5章】 創価・想像の共同体
【第6章】 「苦海」の不条理を越えて
【第7章】 変化の時代の「羅針盤」
【第8章】 「グローバル化」の鍵
【終章】 創価学会研究を振り返って
【特別付録】 対談 佐藤優×開沼博
【あとがき】

 
 

聖教新聞連載「SOKAの現場」を単行本化!

気鋭の社会学者・開沼博・東京大学大学院准教授が現場に足を運び

創価学会の原動力と内在的論理に迫る!

 

創価学会が、日本全国また世界中で、多くの人が集まる組織であることは分かっていましたが、それがなぜ可能であるか、純粋な疑問でした。

これは、学問的にも非常に重要な問いであると思っています。

というのも、現代は、人と人とのつながりやコミュニティー、あるいは中間集団と呼ばれるものが衰退し

ています。

地域で声をかけ合ったり、助け合ったりする相互扶助の機能が弱まっています。

孤独や孤立への対策を担当する大臣が、イギリスを端緒に日本でも任命されています。

創価学会という、共に助け合う人たちの集まりとも言える組織について考えことは、この時代に対する一つの答えを示すものであります。

「外部」の人たちにも、きっと求めているようなヒントがある。

こうした理由から、創価学会を研究してきました。

取材を通して発見した、創価学会の強さや魅力について、三つのポイントにまとめてお話します。

一つ目は、「閉じているようで開いている」点です。

例えば各地の会館のがそうですが、外部の者からすれば、地域にあるのは分かりつつ、その中に入ろうとはなかなか思いません。

何が行われているかも想像がつきにくい。

分断され、閉じた印象を受けます。

しかし、実際に取材をしてみると、会館を地域に開放することも多いと聞きます。

そして、相手が学会員であろうがなかろうが、人のため、地域のために汗を流している会員が、大勢いることが分かりまいた。

例えば、広島の団地の方々を取材すると、棟の屋上を庭園に整備し、育てた花を皆にプレゼントするなど、住民への心配りや声かけを通して、日常的につながりを育んでいました。

地域に開かれた創価学会の側面が見えました。

価値観が違う人とは無理に付き合ず、別々に生きればいいとされしまうのが現代の人間関係の特徴です。

その中で、「創価家族」と言われるような、家族や親戚に近い、あるいはそれを超えるような強固なつながりを創価学会は保ち続けている。

この点が、多くの人にとって魅力的に映っているのだと思います。

二つ目は、「ピアサポートが充実している」点です。

「ピア」は福祉の領域などに使われる言葉ですが、「「ペア」、つまり一対一の関係性にも通じると思います。

これまもた、現代社会で失われつつあるものです。

仕事でも、マニュアルに従って作業させるような指導や、SNSなどの<ハウツーもの>が増えている、

そこには、熱心に働きかける一対一の関係性はありません。

だからこそ、少しやる気がなくなったり、失敗したら、もう辞めようというふうになってしまうわけです。

創価学会のピアサポートを実感した場面は、任用試験です。

私も2022年に受験して合格しましたが、試験会場で驚いたのは、試験を受けない人がいっぱいいたことです。

エールを送る人たちが、受験者の数倍以上いたように思いました。

きっと、全国どこでもそうなのでしょう。

ただ知識を得るのであれば、今の時代はオンラインで勉強も試験もできます。

社会はどんどん手軽な方向へ進んでいますが、しかし、果たしてそれでいいのかと思うのです。

もちろん、試験を受けること自体で成長する部分もあります。

しかし、勉強の過程で生まれるコミュニケーションによって、<自分が今学んでいることは、困難を乗り越えるヒントになる>といった感覚をつかむこともできます。

これは試験範囲には含まれないものです。

そうした視野や世界観を広げていくためには、やはりピアサポートが大切になります。

ピアサポートの関係は、任用試験に限らず、学会員の皆さんが普段から意識していることだと思います。

例えば、折伏です。

外部からは折伏=勧誘と表面的に捉えられますが、実際の折伏とは、一生涯、相手の幸せに責任を持つとの覚悟の上での対話であると、取材した方々が口にしていました。

そういう強い思いで、相手に関わり続けているのだな、と。

そして三つ目は、「学ぶ機会が埋め込まれている」点です。

創価学会には、至る所に学ぶきっかけがあります。

活動の中で必ず何かを得られるという感覚を、多くの人がお持ちではないでしょうか。

信心を始めて間もない人に自信をつけてもらいたいとの思いから、座談会での御書講義をお願いすることもあると聞きます。

それがきっかけで研さんに励み、無事に発表にこぎ着けた時の、喜びと自信は大きいでしょう。

発表することで学んだ内容が血肉化し、相手の反応を通じて理解の深まりも実感できる。

自分を成長させる学びの仕組みが、自然と埋め込まれているのだと感じます。

また、会館にはよく、創価大学の通信教育部のポスターが張ってありました。

取材をした方の中にも、家庭の事情で満足に学校教育を受けられなかったけえど、信心に励み、仕事も軌道に乗せ、さらに自分の視野を広げたいと、創価大学の通信教育で学位を取った方がいました。

学会活動が日常的な学びの機会であると同時に、もう一歩進みたいと思った時にも学びのヒントと触発が手の届くところにある。

今こそ「リスキング(学び直し)」が若い人たちを中心に増えていますが、創価学会の中では、この伝統が数十年前からある。

だからこそ、学会員であることを誇りに思い、ここで何かをつかみ取ったという感覚を持つ方が多くいるのでしょう。

以上、3点にわたって、創価学会の強さと魅力を述べました。

三つのどれも、学会員の皆さんにとっては当たり前のことかもしれませんが、現代社会においては失われつつあることばかりです。

それを今も当たり前のように保ちつつ、活動していることが、創価学会が世界で広がる原動力になっていると感じます。

 

 客観的で正視眼(ものごとを正しく見ること)的

解説の開沼さんは、比較的客観的に記事を読んでいると思う。
あえて問題意識を封印した分析が、果たして適正な研究成果といえるだろうか

記事については、我々学会員から見ると「そこまで細かく語句を解説しないと外部の方にはわからないんだ」と思うほど初歩的な言葉にも注釈が加えられてあり、驚いた。
むしろ学会員がもっと対話の際に気を付けなければならないと、思い知らされた。

他の人のレビューの中には、明らかに偏見や色眼鏡でこの本を読んでいると思われるものもあるが、そんなことは学会の草創期からあること。むしろ、もっと学会を理解していただく為に対話をしなければならないと決意した。
 
 
 
「福島」や「沖縄」など、その論説には定評のある社会学者開沼博氏が「創価学会の現場」を語っている興味もあって一読してみた。

著者が創価学会に関心を持つ理由や社会学者としての立ち位置は本書の「あとがき」(論考)に詳細に示され、ことさら「外部」を強調されるが、創価学会にとってはまことに都合の良い論調に仕上げられている。

「本書は、創価学会の内部向けの機関紙である聖教新聞の記者によるルポがあり、その後、同じ対象を取材した私(開沼博)の解説が入ります。創価学会には独特の言い回しや価値観、あるいは新聞等の創価学会系の媒体に載せる上での典型的な物語の展開などがあり」これらを全肯定する著者の解説が展開される。

「本書が迫りたいのは、創価学会員の『生活』です。教義や政治や社会との葛藤・ズレではありません。」「生活に迫ることでこそ、この『巨象』(創価学会)の実態を明らかにすることが可能になります。」と著者は結論付けるが、会員は「日蓮聖人の南無妙法蓮華経」の唱題行を実践しているはずで、創価学会は紛れもなく組織態勢として「政治宗教」の宗教法人であり、本質的にも実質的にも、会員を指導する立場にある職業宗教家(信濃町本部職員や全国の会館専従職員など)の日常生活を調査研究対象から捨象して、結論付けるのは早計・怠慢になるでしょう。

「創価学会員の方々はしばしば『偏見』という言葉を用います。世間には自分たちに対する偏見がある、と」もあるが、偉大なのは「南無妙法蓮華経」の「妙法」であるはずなのに、ことさら池田大作先生を宣揚し「師弟」を大前提にする屈折した信仰観の創価思想の教義が世界宗教だと展開することこそ、「日蓮仏法の異流義に陥っている」という省察は生まれないのだろうか。やはり、狡猾な編集に満ちている。
 
 

創価学会の不思議は、一見閉ざされた考えを持った集団に思えるが、日蓮大聖人が残した生き方の指導を一人ひとりが、それぞれが日々の生活に生き生きと実践している自由なところでしょう。作者も学術的に研究してみたくなったのも頷けます。
自主的に励まし合う環境になった根源である本物の宗教にも触れて貰いたかったです。
 

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