『大衆明治史』で紐解く

2024年09月08日 13時34分30秒 | 社会・文化・政治・経済
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菊池寛「大衆明治史(国民版)」第1巻―GHQ発禁の明治近代化史(しみじみ朗読文庫)

著者菊池寛
 

出版社 響林社

 
【解説】
 菊池寛が明治近代化の歴史を生き生きと描いた通史的物語で、その筆致は人物を存分に描いており、とても魅力的です。
内容はよく知られている事件、歴史をわかりやすく描いています。ところが、なぜか本書は、第二次大戦後に、占領軍GHQによって発禁図書となってしまいました。占領下、7千冊以上の戦前・戦中の書物が没収されたと言いますが、大衆小説家の菊池寛の著作が発禁とは驚く話です。  菊池は、「太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。」(ウィキペディア)とありますから、そういう菊池の著作だから、ということでしょうか。今から見れば、こういう著作が発禁処分とは大きな違和感を感じます。  
菊池寛は、市販されている著作はごくわずかで、膨大な著作群があります。
その中で歴史物語は、人物に着目して描いているために、実にわかりやすく、かつ魅力的です。「日本歴史物語全集」や「大衆維新史読本」などは日本の通史を生き生きと描いている素晴らしいシリーズですが、この「大衆明治史」もそれに連なるすぐれた歴史物語です。
これらの著作群が現在では市販されていないのは残念な限りですが、響林社文庫シリーズで、順次、電子書籍の形で復刻本として発刊しつつあります。  この「大衆明治史」については、西尾幹二氏が、YouTubeで「GHQ焚書図書開封 第32回」で内容と魅力を紹介しておられます。50分間ですが、熱く語っていてわかりやすいのでお薦めです。  http://www.youtube.com/watch?v=lflxx0F7YlU 
 
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特別寄稿=500人で2万人と戦った日本人=柴五郎中佐の北京城籠城物語=サンパウロ市在住  酒本 恵三

 

北京籠城の指揮を執った柴五郎(陸軍中佐当時、1859―1945年、Unknown author/Public domain)

 たった500人足らずの兵を導き、20万の敵を相手にその危機を乗り越えた、ある一人の日本軍人がいました。
 「日本は素晴らしい指揮官にめぐまれている。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、私は、自分が既にこの小男に傾倒していることを感じている」。
 これは当時の北京城内でその「小男」と共に戦った英国人シンプソン氏の日記の抜粋です。
 そして、その小男の名は柴五郎(シバゴロウ)、日本の陸軍軍人です。その勇ましい武勲により欧米各国からも勲章授与が相次ぎ、欧米で広く知られる最初の日本人となりました。
 そして柴は、事実上の日英同盟のきっかけをつくった影の立役者としても評価されています。一体、この柴五郎という日本人はどんな武勲を成り遂げたのか? 日本だけでなく世界の歴史に名を残した日本人柴五郎の伝説を紹介します。

絶望的に不利な籠城戦を指揮した日本人

 時は1900年中国∙北京義和団と称する反乱軍は、「扶清減洋」(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)の旗を掲げ、世界各国の公使達を北京城に追い詰めていました。
 20万人以上の大軍が押し寄せる北京城に立てこもるのは、わずか4千人とはいえ、その殆どが民間人であり兵士と呼べる数は500にも満たなかったそうです。
 ところがこの圧倒的不利で絶望的な少数の籠城軍はおよそ2カ月間にわたり北京城を守り抜いてしまいます。
 何をかくそう、この危機的状況を指揮して乗り越えたのが後に、イギリス公使に「北京籠城の功績の半ば、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」と言わしめたほどの人物・柴五郎、その人だったのです。
 義和団と称する反乱軍は、電信設備を破壊し、いよいよ公使館に迫ろうかと言う時、各公使館は清国に義和団を鎮圧するよう要請します。そして天津外港のタークーに停泊中の各国海軍陸戦隊に派遣を要請しました。
 ちなみに北京にあった公使館は英国、米国、仏国、露国、豪州、伊国、蘭国、ベルギー、西国、日本の11カ国です。この11カ国の海軍陸戦隊計417名(日本25名)が北京に到着します。
 世界各国の公使たちの入り乱れていた北京城内は、大軍を前にして混乱の極みに達していました。上記11カ国からなる多国籍の人々が入り乱れまとまるものもまとまらない混乱状態です。
 さらに、この時代、日本はどちらかというと他国になめられた存在でした。作戦会議中、柴五郎は冷静沈着でそして、黙ってきくばかり。
 そして、時折「セ・シ・ボン(結構ですな)」と、ボソリ呟くばかりなのです。
 しかし、これは日本がなめられているこの状況で高らかに発言しても意味はなしと分かった上での行動。柴五郎の心は十分に練られていました。
 逆に、今の状況で発言すると小さな東洋人の発言が欧米列強の反発を招くものだということを、十分に心得ていたのです。

義和団の乱における天津の戦い。日本国軍人が戦う様子(Unknown author/Public domain)

西洋列強に存在を認めさせ、日英同盟の端緒に

 しかし、それでもなんと、会議は柴五郎の思い描く方向へと進んでいくのです。彼がボソリとつぶやくたびに、世界の列席者たちは、その方向へと導かれていくことに気ずきませんでした。
 彼はたまの短い発言や、うなずきにより場を支配していたのです。それほどの理があり、彼の落ち着きはいつしか皆の安心になっていました。
 まさにシンプソン氏がいうように「この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてしまっていた」。そして、その秩序こそが北京城を最後まで一丸となって籠城させた源だったのです。
 間もなく清国義和団の一斉攻撃が始まります。そんな時、公使館で最大のイギリス公使館に穴があけられました。そこには婦女子や負傷兵が多くいたため、柴五郎中佐は安藤大尉以下8名に命じ、英国公使館に救援に向かわせます。
 ただでさえ広大な粛親王府を守るのに兵士不足だったにも関わらず、英国公使館に即決で救援をやったのです。
 ――即決です。そして安藤大尉以下8名は敢然と清国兵に切り込み、20名ほどをあっという間に切りつけます。
 この時が、祖国日本の名誉を守り、三国干渉以降見下されていた欧米列強に、日本人の優秀さを認めさせ、のちの日英同盟のきっかけとなったのです。
 そして、ここから各国の占領統治が始まりました。それは同時に各国の占領地での略奪∙強盗の始まりでもあります。この時代、それは当然で当たり前の事でした。
 しかし日本の占領地では一切の略奪∙強盗が認められませんでした。柴五郎は厳しい軍律をもって仁政を敷いたのです。これにもまた各国の将兵が驚愕します。
 そして、この噂を聞きつけた各国の占領地の住民が日本占領地へと移り住んできたのです。こうした日本の優秀さと信頼度の高さは、やがて世界最強の同盟を誕生させます。黄色人種の貧国・日本が、世界最強の英国と同盟を結ぶのです。

拒み続けてきたイギリスが東洋の貧国と同盟

 当時、イギリスは「栄光の独立」を誇りに、どんな事があっても他国と同盟を結ぶということはありませんでした。
 もちろん、柴五郎の実績はきっかけであり、日本とイギリスの利害も一致しています。どういうことかというと、この時ロシアは満州全域をどさくさに紛れて制圧していきます。支那での権益を確保したイギリスはロシアの南下を恐れていました。
 そして日本も満州を制圧したロシアが南下する事は日本にとって脅威でした。だからと言って信頼できない国とイギリスが同盟を組むなどあり得なかったのです。
 ましてや同盟を拒み続けてきたイギリスが、東洋の貧国と組むことは断じてあり得ません。
 しかしこの義和団の乱で見せた日本人の優秀さと信頼感は、イギリス公使マクドナルドによって本国へ伝えられます。
 そして柴五郎中佐の北京籠城での活躍は世界に広く認知され、欧米各国で受賞のラッシュを受けます。
 また「コロネル・シバ」の愛称でヨーロッパで最も広く知られた最初の日本人となったのです。たった500人たらずの兵で、20万人の敵を相手にその危機を乗り越えた日本軍人柴五郎日本は素晴らしい指揮官が本当に多く存在していますね。
 最後に柴五郎の輝かしい受賞経歴をご紹介しましょう。
*イタリア=エマヌエル皇帝より北京籠城の功によってサンラザール三等勲章を受章
*フランス=ルベー大統領より金の鎖付きの金時計を受賞
*スペイン=スペイン皇帝より武功赤十字二等勲章を受章
*ベルギー=ベルギー皇帝より賞詞と武功勲章を受章
*ロシア=ニコライ二世よりアンナニ等勲章を受章
*日本=明治天皇より全し勲一等瑞宝章を受賞と実に多く受賞しました。



【本書籍について】
 本書籍は、「国民版」といって1冊にまとめられたものですが、別途、上下2冊に分かれていて総ルビがついた版も昭和16年に発刊されています。
しかし、入手は困難で、国会図書館近代デジタルライブラリーでも、下巻しか収録されていません(響林社文庫に収録)。この国民版は、上下巻版の主要章を収録した貴重な書籍ですが、市中ではほとんど入手が難しく、戦時中の発行だけに、茶褐色への変色の度合いが激しい状態です。
響林社文庫では、それを入手の上、脱色をしてできるだけ読みやすいように加工してお届けしています。

再生時間 02:28:57

添付資料 なし

出版日 2022/8/25

販売開始日 2022/8/30

トラック数 13

購入音源の倍速版 なし(アプリでの倍速再生は可能です)


  目 次

廃藩置県
征韓論決裂
マリア・ルーズ号事件
西南戦争
十四年の政変
自由党と改進党
国軍の建設
憲法発布
大隈と条約改正
日清戦争前記
陸奥外交の功罪
三国干渉
川上操六と師団増設
北清事変
対露強硬論と七博士
日露開戦
児玉総参謀長
奉天会戦
日本海海戦
ポーツマス会議
明治の終焉
明治史年表

柴五郎(1860~1945年)は会津藩士の五男として生まれました。会津戦争を前に祖母、母、兄嫁、姉妹は自刃。移住先の斗南(現・青森県むつ市)で極貧の生活にあえぎました。陸軍幼年学校、士官学校に学び軍人となります。

北京の清国公使館付き武官のときに義和団事件(北清事変)に遭遇。厳正な軍紀と的確な判断で連合軍の籠城部隊を指揮し、「コロネル・シバ」として世界に名を上げました。その後、「賊軍」会津の出身で初めて陸軍大将になったのです。 


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