分断が際立つ現代において、対話が大切であるということは論を待たない。
その対話主義を貫くには、宗教的、哲学的な人間観が必要ではないだろうか。
これまでの伝統的な枠組みが崩壊し、国家間のパワーバランスが悪化の一途をたどっている。
やがて地球規模の大惨事が起こるだろうと、終末論的な考えを抱いている人もいる。
だが、世界中で起きてている事柄に対し、決して、自己中心的で悲観的な論調に傾いてはならない。
歴史をひもとけば、今以上に讃嘆たる時代は存在した。
20世紀前半の悲惨な世界大戦の時代も、その一例だ。
だが、その中から、国連が誕生し、多くの平和行動も生まれた。
歴史上、最も暗い時代であったとしても、光を見いだし、前へと進んでいく道を見つけることができた。
人々が絶望的になり、悪が善を上回ると感じる時も、そこには人間同士の交流のチャンスがある。
その交流こそが、物事を前に進め、事態を好転させていくのである。
<最も困難な時でも対話への挑戦を続ける>という基本的な理念は、本質的に善の哲学であり、誰もが分かち合えるものだ。
ウクライナやガザを巡る紛争について付言すれば、現在は対話の回路が非常に狭く、試みは続いているものの多くの障害がある。
しかし、歴史上の多くの紛争は、最後は何かしらかの議論や歩み寄りによって終結を迎えている。
ゆえに大事なのは、ともかく何があろうと、対話のアプローチを重ね続けることだ。
現在、世界は数々の試練に直面している。
多くの物事が楽観視できない方向へ流れているのも事実だ。
では一体誰が、こうした問題を解決し、私たちを未来へと導くのか。
それは、まじれもなく、学生たちや青年たちである。
今こそ、「青年の育成」が期待されている。
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