創作 福子の愛と別離 10 )

2024年07月28日 03時48分24秒 | 創作欄

東京・九段にある私立女子高校に勤務していた峯田晃は、1 年目は1年生のクラスの担任教師となる。

そして、2年目には2年生のクラスの担当教師を務めたのである。

どの生徒よりも、長い髪をした野々村ゆかりは、文芸部の創設に思いが至り、47歳の国語教師であった高田順平に顧問を依頼するも「文芸部?やめおきなさい。私には興味ないですね」と断られる。

そこで、ゆかりは28歳の峯田晃に顧問を頼み込む。

「文芸部か、いいね」晃は笑顔で顧問を引き受けることとなる。

17歳のゆかりは、太宰治の大ファンであり、中学2年生の時から6月19日に開かれる桜桃忌に足を向けていたのである。

文芸は7人のメンバーで設立され、各々の愛読書や好みの詩。歌などについて語りあり、謄写版印刷の機関誌「青い空」が創刊される。

毎回、晃が巻頭言を寄稿し掲載した。

ゆかりの提案で「文学散歩」も行われる。

与謝野晶子ファンの日野綾香は、中学の同期生である寺崎勇気と恋愛関係にあり、その心情などを短歌に込めていた。

樋口一葉ファンの竹村令奈の提案で最初の「文学散歩」は、東京・本郷界隈であり、夏目漱石ファンの東美幸の要望で、東大の三四郎池や千駄木を回り、梅の花が咲く湯島天神へも向かった。

また、団子坂、森鷗外の自宅・観潮楼を見て、鷗外ファンの三谷楓の願いで無縁坂から不忍池へも行ったのである。

 

参考

太宰治は、昭和23(1948)年6月13日の深更、玉川上水に入水。19日に遺体が発見された。昭和24(1949)年6月の一周忌に太宰の墓が、外の墓の斜め前に建てられた。

昭和19(1944)年に発表された「花吹雪」に「この寺の裏には、森鷗鴎外の墓がある。(中略)ここの墓地は清廉で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も森鷗外、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」という一文があり、その意が汲まれたもの。墓碑には、太宰自筆の文字が拡大して刻まれてる。なお、平成10年、隣に美知子夫人が葬られた津島家の墓が建立された。死の直前に発表された「桜桃」に因み、毎年6月19日に太宰を偲ぶ桜桃忌が催される。

 

明治の文豪である森鷗外と夏目漱石が、奇しくも相次いで借家した和風住宅。

明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものの、空家のままだったこの家は、明治23年(1890)に森鷗外が借家し1年余りを過ごしました。鷗外は、ここに移り住む同年の1月、処女作小説『舞姫』を発表。この家では『文づかひ』等の小説を執筆し、文壇に入っていきました。
明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が住み、漱石はここで『吾輩は猫である』を発表。文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、よくこの家の姿を写しています。
玄関脇の張り出した和室(応接兼書斎)、台所から座敷への中廊下には、住宅の近代化の萌芽が見られます。

 
 
文京区立森鴎外記念館

 森鴎外が自宅(観潮楼)で開催した歌会「観潮楼歌会」には、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱、石川啄木、斎藤茂吉など現代も親しまれるスター歌人たちが出席していました。

7月9日は鴎外の命日、鴎外忌です。
7月の一ヶ月限定で鴎外の「遺言書」原資料を展示します。

鴎外は1916(大正5)年に陸軍省を去り、翌年から帝室博物館総長兼図書頭に就任、在任のまま没します。
没する3日前の7月6日に、学生時代からの親友で医学者の賀古鶴所を自宅・観潮楼に呼び、遺言を口述筆記させました。
 
鴎外終焉の地でもある当館では、毎年7月の1ヶ月間、鴎外の遺言書の原資料を展示しています(通常は複製資料を展示)。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿