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九龍城砦の歴史 (香港)

2004-03-05 | Asia 「圓」な旅
九龍城砦の歴史を調べてみました。

1842年、アヘン戦争で英国に敗れた清朝は、南京条約の締結を余儀なくされ、広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港するとともに、英国に香港島を割譲した。
九龍半島を国防拠点として重要視した清朝は、急いでそこに九龍塞城を築城。1847年、竣工。城壁延べ673m、城門と楼各々4座、大砲32門を備える。ところが7年後の1854年、早くも城砦は賊徒羅亞添らによって占領されてしまう。
国力が弱っていた清朝は外国人傭兵の力を借りて城砦を奪回するも、腑甲斐ない清朝の姿を見た英国は九龍半島に対する領土的野心を抱き、1860年、アロー戦争後の講和条約である北京条約で、九龍半島の界限街以南も手に入れる。九龍城は界限街以北にあり、この時点ではまだ割譲地の外にあった。
英国は続いて、日清戦争に敗れ国際的にも地位の低下した清朝に付け入り、1898年、香港の防衛を名目に、展拓香港界址専条の締結により界限街以北、深セン川以南の土地を99年間、即ち1999年まで租借し新界と称した。九龍塞城は租借地内にあったが、特別条項として、城内に清朝官吏が常駐して、その管轄権は、香港の安全を妨げない限りにおいて引き続き認められることになった。当時、既に城内だけでなく、東門城外九龍湾に至る地域に街ができていた。
1899年、英国は新界の接収に乗り出す。ところが住民の抵抗に会い、両広総督が兵員を塞城に派遣したため、英国はこの行為を香港の安全を妨げるとして、城内に派兵して制圧、城内の官民を退去させる。香港政庁が城内も新界の他の領土と同様に統治することを布告した。ここにいわゆる「九龍城問題」が始まった。
1919年、香港政庁が九龍城内の事務に干渉、口頭にて住民に退去を通達するも、辛亥革命により清朝崩壊後、城内管轄権を引き継いだ中華民国広東外交署が抗議したため、棚上げとなった。
1933年にも香港政庁が城内住民に慈雲山麓狗虱嶺へ住み替えるよう命じるが、住民と中華民国五省外交特派員が抗議したため、またも棚上げとなる。
以降、英国が管轄権を及ぼそうと要求すると、中国側は行政を停止しようとも、管轄権は1898年の特別条項で認められており英国の要求は条約違反と譲らなかった。両者が強行姿勢を採らなかったことから、九龍城はどこの支配も及ばない特別な空白地帯となってしまった。
1941年、太平洋戦争が勃発し、香港を占領下に置いた日本軍が、啓徳飛行場拡張工事のために城壁を破壊する。戦後、1949年の中華人民共和国建国を挟み、中国大陸から香港へ難民が流入する。城壁を失い、周辺一体の地名となった九龍城にも難民が傾れ込み、彼らは不法占拠した土地にバラックを建て住みついた。行政の空白地帯は、人口の増加とともにスラム化していった。香港政庁は、不衛生で火災の恐れのあるバラックの強制撤去に乗り出すが、住民の抵抗が強く挫けてしまう。
1970年までには、一帯は法規制を全く無視したペンシルビルが林立するようになり、「東洋のカスバ」「アヘン窟」の異名をとる、麻薬、売春、賭博、何でも有りの無法地帯へと様相を変えていった。
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2 コメント

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Unknown (threebrotners)
2011-05-06 00:52:28
九龍城は
調べても調べても
よく分からないです。
謎がたくさん。
九龍城 (Tomotubby)
2011-05-19 22:21:19
最近ご無沙汰のペット君が香港時代に探検したことがあるそうなので、今度聞いておきます。

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