清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀は、1911年の辛亥革命により中華民国が建国されたため1912年に退位しますが、大統領袁世凱から与えられた優待条件により、「大清皇帝」を名乗って、引き続き紫禁城内で暮らします。そして、1922年に皇后(正妻)婉容と妃(側室)文繍と結婚します。次の写真は、その婚礼の儀式の衣装を身につけた婉容、当時17歳です。
婚礼衣装の婉容
側室の文繍は、こんな女性です。
左は婚礼衣装の文繍。右は珍しい彩色写真です
文繍は読書と書道が趣味の小柄な女性で、後に溥儀と離婚して、学校を設立して教師の道を歩んだ才媛ですが、その容貌だけ見ると、ちょっと器量が良いとは言いにくいです。実は溥儀が皇后を選んだ際、婉容、文繍二人の写真を見せられて、文繍の写真に○をつけたそうですが、西太后亡き後、紫禁城内で力を奮っていた先帝光緒帝の側室瑾妃の差し金で、結局は婉容が選ばれたといいます。普通の男子なら婉容の方を選びそうなものですが、一説に溥儀は女性に関心がなかったらしく、婉容のようなタイプは苦手だったのかもしれません。
清朝皇帝の后妃で、その写真が残っているのは、西太后つまり咸豊帝の妃で、同治帝の母にあたる慈禧皇太后以降です。西太后は写真に写るのが好きだったようですが、遺されているのは晩年の写真ばかりです。例えば下の写真の中央に座っているのが西太后ですが、この写真から西太后が若かりし頃に美人だったのかどうかはイマイチよく判りません。頭は良さそうですね。
前列左から瑾妃、西太后、隆裕皇后。西太后の足は纏足?
ここで、西太后の左右に立つ二人の女性に目を移すと、実は右側に立つのが光緒帝皇后「隆裕皇后」、左側に立つのが光緒帝の側室瑾妃です。隆裕皇后は西太后の姪で、確か浅田次郎「蒼穹の昴」では「色が黒くて馬面」と語られていましたし、瑾妃の方は宦官孫耀庭翁によると、「上半身から下半身までほとんど同じ太さ」のくびれのないドラム缶体型のように語られていまして、二人ともお世辞にも美人とは言いにくかったようです。この二人と比べると、西太后の若かりし頃の方がずっと綺麗だったんじゃないかと思えてきます。
光緒帝の側室には、もう一人お気に入りの珍妃がいましたが、1900年に義和団の乱に加担した清朝が列強八ヶ国軍の攻撃を受けて北京から逃亡する際、西太后の命で哀れにも紫禁城楽寿堂の裏の井戸に落とされ命を喪ったといいます(このへんは浅田次郎「珍妃の井戸」に詳しいです。ずっと「珍妃」を「ちんひ」と読んでいましたが本の表紙では「ちんぴ」とルビがふってあります。どっちなんでしょう?)。「蒼穹の昴」いわば激動期における悲劇のヒロインというわけですが、遺された肖像が下の写真です。
光緒帝の寵愛を受けた珍妃
珍妃の肖像として有名な左の写真(絵?)は可愛げですが、よぉく見るとかなり加筆修正されているようにも思えます。絵葉書になっていた右の写真を見つけましたが、随分印象が違います。なにしろ珍妃は、顔が丸くて「月餅」と仇名された瑾妃の血の繋がった妹なのですから....。
こうしてみると、婉容は清王朝の最期に咲いた稀なる名花だったに違いありません。
婚礼衣装の婉容
側室の文繍は、こんな女性です。
左は婚礼衣装の文繍。右は珍しい彩色写真です
文繍は読書と書道が趣味の小柄な女性で、後に溥儀と離婚して、学校を設立して教師の道を歩んだ才媛ですが、その容貌だけ見ると、ちょっと器量が良いとは言いにくいです。実は溥儀が皇后を選んだ際、婉容、文繍二人の写真を見せられて、文繍の写真に○をつけたそうですが、西太后亡き後、紫禁城内で力を奮っていた先帝光緒帝の側室瑾妃の差し金で、結局は婉容が選ばれたといいます。普通の男子なら婉容の方を選びそうなものですが、一説に溥儀は女性に関心がなかったらしく、婉容のようなタイプは苦手だったのかもしれません。
清朝皇帝の后妃で、その写真が残っているのは、西太后つまり咸豊帝の妃で、同治帝の母にあたる慈禧皇太后以降です。西太后は写真に写るのが好きだったようですが、遺されているのは晩年の写真ばかりです。例えば下の写真の中央に座っているのが西太后ですが、この写真から西太后が若かりし頃に美人だったのかどうかはイマイチよく判りません。頭は良さそうですね。
前列左から瑾妃、西太后、隆裕皇后。西太后の足は纏足?
ここで、西太后の左右に立つ二人の女性に目を移すと、実は右側に立つのが光緒帝皇后「隆裕皇后」、左側に立つのが光緒帝の側室瑾妃です。隆裕皇后は西太后の姪で、確か浅田次郎「蒼穹の昴」では「色が黒くて馬面」と語られていましたし、瑾妃の方は宦官孫耀庭翁によると、「上半身から下半身までほとんど同じ太さ」のくびれのないドラム缶体型のように語られていまして、二人ともお世辞にも美人とは言いにくかったようです。この二人と比べると、西太后の若かりし頃の方がずっと綺麗だったんじゃないかと思えてきます。
光緒帝の側室には、もう一人お気に入りの珍妃がいましたが、1900年に義和団の乱に加担した清朝が列強八ヶ国軍の攻撃を受けて北京から逃亡する際、西太后の命で哀れにも紫禁城楽寿堂の裏の井戸に落とされ命を喪ったといいます(このへんは浅田次郎「珍妃の井戸」に詳しいです。ずっと「珍妃」を「ちんひ」と読んでいましたが本の表紙では「ちんぴ」とルビがふってあります。どっちなんでしょう?)。「蒼穹の昴」いわば激動期における悲劇のヒロインというわけですが、遺された肖像が下の写真です。
光緒帝の寵愛を受けた珍妃
珍妃の肖像として有名な左の写真(絵?)は可愛げですが、よぉく見るとかなり加筆修正されているようにも思えます。絵葉書になっていた右の写真を見つけましたが、随分印象が違います。なにしろ珍妃は、顔が丸くて「月餅」と仇名された瑾妃の血の繋がった妹なのですから....。
こうしてみると、婉容は清王朝の最期に咲いた稀なる名花だったに違いありません。
ノー天気な主婦のblogにTBしていただいて、お恥ずかしいかぎり。一つ一つの記事が知的で深い洞察があって、素晴らしいblogですね。浅田次郎の本を読んで想像していた人物の実際の写真を見ることができて、もう一度、この時代の本を何か読んでみたくなりました。これをご縁に、時々覗かせていただきます。
以来、清末の北京については興味を持っています。
浅田次郎さんは紫禁城はおろか北京に行くことなく
「蒼穹の昴」を書き上げたということで驚きました。
このブログには、円明園関係の記事が
結構ありますので、お暇なときに掘ってみて下さい。
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/0934f9a6dcb47023de87d5483bd3160b