Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
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珍妃の井戸の真相(承前)

2010-06-19 | 今週の婉容
1900年に清で起こった義和団事件で列強8ヶ国連合軍の北京入城を前にした西太后は、一般に語られているように西安には逃げず独り紫禁城に残って連合軍に対峙し、その結果米国の兵士にレイプされてしまったという説は、あまりにも荒唐無稽で信じ難い。ちょうど義和団事件の5年前、1895年に李氏朝鮮で起きた乙未事変で、景福宮内で殺害された閔妃の遺体を日本の浪人が屍姦して証拠隠滅のため焼却したという反日の韓国小説家の創作を思い出させる。

西太后のレイプ事件については、ネット上の掲示板サイトに書き込みがあり、最近出版された島崎晋・著「中国人も知らない中国の歴史」でも取り上げられている。この本自体、先日紹介した落合淳思・著「古代中国の虚像と実像」の二番煎じのようにも見え、著者の島崎氏が落合氏とは違い歴史の専門家ではない分、記述の信憑性にも疑いが残る。

事件の詳細は以下の通りである。まず事実関係。義和団事件の後に列強諸国は一様に清朝に賠償金を求めたが、米国だけは賠償金を取らずに返還している。この不自然な米国の対応には謎が残る。返還の名目は清朝の教育基金とされているが、これは真実を隠蔽するための言い訳で、実際は米国兵士により辱めを受けた西太后への謝罪を表したものだったという。そしてこの情報ソースが驚いたことに日本人という話である。清に留学中の東大助教授の中国哲学者の服部宇之吉がこの事後交渉に通訳として立ち会い、事件の経緯について知るところとなった。彼は清米両国から恥辱にまみれた本事件について三十年間一切口外することを禁じられたという。服部は約束を守り、三十年後になってこの事実を弟子たちに伝え、以降語り継がれてきたということらしい。

西太后が光緒帝らとともに紫禁城から逃れ西巡したというのも、この国恥事件をカムフラージュするために後に捏造された歴史とされている。となると、珍妃が西太后や光緒帝とともに北京から逃げ出すことに同意しなかったため西太后から死を命じられたというのは奇妙な話である。「中国人も知らない中国の歴史」にもこの件について言及があり、珍妃が列強兵士により辱めを受けるのを避けるために死を命じたのではないかと指摘されている。しかし、西太后がこの時点で珍妃がレイプされることを予想できていたら、どうして独りで紫禁城に残ったのだろう。西太后は、まさかこんなお婆ちゃんに列強兵士も興味を示さないだろうと高をくくったということか? それはそれで謎は深まる。

珍妃の井戸の真相

2010-06-13 | 今週の婉容
昨日、NHKで西太后の生涯を取り上げた番組を見た。そこで語られていた西太后慈禧の人物像は、NHKでドラマ化されている浅田次郎の創作「蒼穹の昴」に描かれたものを敷衍しているようにも感じられた。よく話題にされる「稀代の悪女」というイメージは影を潜め、弱体化した国家の将来を憂う「国母」(彼女は「老仏爺」であり「親爸爸」であったから国父と呼んでもいいわけだが)としてのイメージを打ち出している。結果、彼女はその政治的手腕によって清を半世紀延命させたというわけである。

「西太后=悪女」というイメージは、同治帝の寵愛を受けたライバルの麗妃の手足を切断して甕の中に入れて飼育したり、東太后慈安を毒入り饅頭で毒殺したなどという民間伝説が元になっているようであるが、歴史に照らし合わせてみてもこれらはまったくの誤りであることが判る。麗妃のエピソードが映画「西太后(原題: 火烧圆明园/垂帘听政)」で興味本位に取り上げられたことで、「悪女」イメージは再流布されてしまったようであるが、史書に残された漢代の呂后、唐代の則天武后(武則天)の専横や残虐性の記述が混同された可能性がある。それは、西太后が、呂后、則天武后とともに「中国三大悪女」として括られているためであろうが、西太后に前近代的な暴君のイメージを与え、20世紀における中国近代化の停滞は専ら彼女に起因するものとして、後の共産党政権の失政を隠してしまおうとする意図まで感じ取ってしまう。ただ毒殺に関しては、根も葉もない噂でもないようである。最近になって光緒帝の遺体調査により高濃度の砒素化合物が見つかったらしく、西太后の死の前日に死んだとされる光緒帝の死因が何者かによる毒殺である可能性は否定できない。

もうひとつ西太后のイメージを悪くしているのは、義和団事件で列強8ヶ国の連合軍が北京に迫り彼女が紫禁城から脱出した際に、光緒帝側室の珍妃を井戸に突き落として殺したという逸話であろう。この事件の経緯はNHKでも取り上げられていたが、西太后はまず珍妃に対して、光緒帝とともに西方へ逃げるのか、敢えて紫禁城にとどまるのかを問いただしたらしい。戊戌政変の際にも助言を行い少なからず光緒帝に影響力のあった珍妃が皇帝とともに北京から逃げ出すことを潔しとしなかったため、西太后の逆鱗に触れ死を命じられたというのが通説である。ただその際に、命じられた宦官が無理やり妃を井戸に突き落としたのか、妃が自主的に井戸に飛び込んだのかは定かではない。

西太后はこの後に漢民族の庶民に扮して北京から脱出して西安に辿り着いたと言われるが、彼女は実際には西安に赴かずに紫禁城に残留したという説があることを知った。それは当時64歳だった西太后が紫禁城で8ヶ国の連合軍の入城を迎えうった挙句に、一人のアメリカ兵にレイプされてしまったという全く驚くべき話である。(つづく)

浅田次郎「中原の虹」

2006-11-15 | 今週の婉容
全四巻の大ヴォリュームとなるらしい浅田次郎の新作「中原の虹」を読み始めました。書店には既に第一巻が9月に並び、第二巻が遅れて11月に発売されると予告されていたので、少し待ってから二巻合わせて買いました。第一巻がまだ初版本だったのであんまり売れてないのかもしれません。

講談社のドル箱だから仕方がないかもしれませんが、ページを「蒼穹の昴」みたいに二段組みにしてくれれば全二巻に収まるのに。と思いました。

そういえば「蒼穹の昴」文庫版はなかなか刊行されなかったですね。1800円の単行本二冊を買い控えていた人は、590円の文庫四冊買うのなら、最初から単行本買えば良かったと言っていました。「中原の虹」も時間差つけて刊行するからには、文庫版が売られるのは相当先になるでしょう。長期戦に我慢できなくなった読者に単行本を買わせる講談社の戦略ですね。

で、第一章「白虎の張」を読んだだけでワクワク。この長編が名作「蒼穹の昴」の続編であることがすぐに判ります。
まず奉天の馬賊の頭目、総攬把張作霖が浪人市場で買った壮士、李春雷が「蒼穹の昴」の主人公である李春雲の生き別れになった実兄であること。

「蒼穹の昴」に登場して李春雲に昴の星の予言を授けた老婆白太太がまたもや現れて、張作霖や李春雷たちの行く末を予言すること。

冒頭、張作霖が李春雷を従えて向かった先が、中朝国境、長白山中にある清太祖愛新覚羅努爾哈赤(ヌルハチ)の陵で、そこで張作霖が見つけて奪うのは「蒼穹の昴」で乾隆帝が隠したとされた覇王の証「龍玉」であること。

表紙デザインが踏襲されているんで見ただけで判るという声もあるけど。
こうなると、やはり「蒼穹の昴」→「珍妃の井戸」→「中原の虹」と読み進めるべきなんでしょう。こちらは浅田次郎の戦略かな。

第二章「風のごとく」は太祖ヌルハチのエピソードで始まっています。どうやら「中原の虹」は明末清初の時代を清末から民国への時代に重ね合わせて描こうとしているようで、スケールが大きいですね。気がかりなのは、この小説で重要な役割を演そうな張作霖・張学良親子が、ヌルハチ・ホンタイジ・順治帝を重ね合わせて描くほど人間的に魅力があったのかどうか?ということ。

第二巻をパラパラめくると、西太后が天寿を全うするようなので、第三巻以降は溥儀、婉容も登場しそうな気配です。


溥儀と婉容

蛇足ですが、「北斗の拳」の続編ともいえる「蒼天の拳」、TV放映してるみたいですね。こちらは「中原の虹」と同時代の上海が舞台ですが、浅田作品同様、予言者がよく出てくるなー

都市の中心に墓場がある

2006-03-12 | 今週の婉容
ニューヨークの夜、セントラルパークは静かな闇でした。同じ時間、タイムズスクエア辺りは昼間のように、いや昼間以上に人が多いのに対して、セントラルパークはマンハッタン島の上に広い面積を占めながら、夜は誰も足を踏み入れない危険極まりない場所になります。物理的に都市の中心にありながら、決して求心的な存在にはなり得ないのです。都市の中心にありながら心理的には内なる「辺境」のような存在になっているように思えました。

東京の夜、ニューヨークと同様、大都市の中央には大きな闇があります。ロラン・バルトが「表徴の帝国」で「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と述べたように、都市の中心には求心性を持ちながらも、堀に囲まれ昼も夜も侵入を拒む聖域があります。東京はこのブラックホールのような聖なる森を核に、膨張を続ける俗的な「周縁」が機能している世界でも稀な宗教都市なのです。

Google Local で上空から眺めていると北京も東京に似ているように見えます。しかし無宗教な人民都市の中央にあるのは墓場です。明・清の五百年を生きながらえて機能した紫禁城は、民国建国と同時に機能を停止し、その後も廃帝溥儀と婉容の住処として12年間に亘りゾンビのように身を横たえていました。溥儀の強制退去により主を失った後は屍体となって荒れるにまかせ、1949年に共産党がその足元にあたる天安門で建国を制限してからは、新たな空虚なる中心、天安門広場が生まれました。こうして都市の中心は、旧時代の記憶の墓場と新時代の虚無空間が並ぶ重層的な構造を持つようになりましたが、赤い皇帝・毛沢東の亡骸がこの広場に祀られたことで、紫禁城-天安門広場は双子の墓場と化したのでありました。そこは既にイデオロギーとしての社会主義の墓場であるのかもしれません。


溥儀と婉容の住んだのは内廷と呼ばれる紫禁城の北半分。
写真下の午門の南には、天安門広場が広がる

宦官の帽子を被る婉容

2005-12-08 | 今週の婉容
少しピンボケではありますが、印画紙に焼き付いた皇后婉容の様々な表情の中でも、花のかんばせ、最も無邪気で幸せそうなスナップではないかと思います。婉容はふさげて太監、つまり宦官の被る帽子を奪って被ってみたのでしょう。背景の樹木からして、どこか見晴らしのいい場所に上って撮った一枚ではないかと思います。紫禁城の中なら一番北詰の御花園、城外ならば、そのさらに北に位置する景山ではないでしょうか。



容易に想像できることですが、このとき婉容の周りには、帽子を被った御付きの宦官たちがいたのでしょう。宦官とは、ご存知の通り、男性として生まれるも去勢されて男性機能を喪い、皇帝の奴隷として後宮に仕えた異形の集団です。もともと、このような制度は、古代中国で死刑を免じる代わりに去勢を行った刑罰「宮刑」が始まりで、前漢の時代に「史記」を著した司馬遷や後漢の時代に紙を発明した蔡倫はこの刑を受けたものとして有名です。しかし清代の宦官の殆どは、罪を犯して罰を受けて大事な場所を切除されたのではなく、宦官になることを望んで自ら体を傷つけた「自宮者」でした。

宦官を写した写真はいくつか残されています。例えば、次の写真は皇帝溥儀の寝所であり生活空間である養心殿の管理を任された太監たちです。


左から楊子真(養心殿禦前太監)、王鳳池(養心殿東夾道二帶班)、劉興橋(養心殿禦前太監)。王鳳池は宣統帝溥儀の同性愛のパートナーとして知られています。

宦官は、清朝が倒れた後も廃帝溥儀の暮らす紫禁城で彼に仕え、偽満州国建国とともに新京(長春)にも移り、中華人民共和国の時代になっても生き続けました。宦官の写真の中で、恐らく世界で一番有名なのは、「決定的瞬間」で知られるアンリ・カルティエ=ブレッソンによって、1948年、中華人民共和国建国前夜に北京で撮られた次の写真でしょう。


アンリ・カルティエ=ブレッソン「中国宮廷の宦官、北京、1948年」

確か大阪芸大だったかがブレッソンのコレクションを持っていて、まとめて展覧会をしたときこの写真を見ました。題名がないと「おばあさん」と間違えたでしょう。、

おまけ:
ただし、悪趣味注意中國經濟網サイトで見つけた宦官の汗顔写真「宮刑之皇宮太監真人照」です。

自転車に乗る婉容

2005-11-28 | 今週の婉容
前回掲載の写真を見ると、下駄のような底高の靴を履く西太后の足がやけに小さいので、これは纏足かなと疑ったのですが、満州族の女性は纏足をすることを禁じられていたそうです。よって西太后も婉容も所謂色気のない「大足」だったわけです。

当時の中国では、東北部や長江以南になると一般的ではなかったのですが、長江以北、黄河以南の一帯に暮らす漢族の女性は一般に纏足をするのが習わしでした。これまで莫言の小説「白檀の刑」を何度か話題にしましたが、この話に登場したヒロイン孫眉娘は、纏足の習慣のある山東省高密縣に住みながら、幼いときに劇団で少年役を演じたこともあって纏足を施されず、成人になってから自分が「大足」であることにコンプレックスを抱いていました。

纏足を施された足の写真を見ると、足の指は裏側へ折り曲げられたうえ布で縛られています。この足では、よちよち歩きが関の山で、走ったり遠出をすることはできなかったと思われます。Hugo Strikes Back!というブログに詳しい説明が出ています。ここ、ブックマークにも入れさせて頂きました。

ここに婉容が紫禁城内で自転車を練習している珍しい写真があります。纏足ではない大きな足を出してペダルをこぐ婉容の姿が、とても健康的に思えてなりません。恐らく彼女は、中国で最も早い時期に自転車(自行車)に乗った女性だったに違いありません。




どこか愉しげ。自転車の前輪にカバーがないのに違和感を感じます

皇帝の伴侶は美人だったのか?

2005-11-21 | 今週の婉容
清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀は、1911年の辛亥革命により中華民国が建国されたため1912年に退位しますが、大統領袁世凱から与えられた優待条件により、「大清皇帝」を名乗って、引き続き紫禁城内で暮らします。そして、1922年に皇后(正妻)婉容と妃(側室)文繍と結婚します。次の写真は、その婚礼の儀式の衣装を身につけた婉容、当時17歳です。


婚礼衣装の婉容

側室の文繍は、こんな女性です。


左は婚礼衣装の文繍。右は珍しい彩色写真です

文繍は読書と書道が趣味の小柄な女性で、後に溥儀と離婚して、学校を設立して教師の道を歩んだ才媛ですが、その容貌だけ見ると、ちょっと器量が良いとは言いにくいです。実は溥儀が皇后を選んだ際、婉容、文繍二人の写真を見せられて、文繍の写真に○をつけたそうですが、西太后亡き後、紫禁城内で力を奮っていた先帝光緒帝の側室瑾妃の差し金で、結局は婉容が選ばれたといいます。普通の男子なら婉容の方を選びそうなものですが、一説に溥儀は女性に関心がなかったらしく、婉容のようなタイプは苦手だったのかもしれません。

清朝皇帝の后妃で、その写真が残っているのは、西太后つまり咸豊帝の妃で、同治帝の母にあたる慈禧皇太后以降です。西太后は写真に写るのが好きだったようですが、遺されているのは晩年の写真ばかりです。例えば下の写真の中央に座っているのが西太后ですが、この写真から西太后が若かりし頃に美人だったのかどうかはイマイチよく判りません。頭は良さそうですね。


前列左から瑾妃、西太后、隆裕皇后。西太后の足は纏足?

ここで、西太后の左右に立つ二人の女性に目を移すと、実は右側に立つのが光緒帝皇后「隆裕皇后」、左側に立つのが光緒帝の側室瑾妃です。隆裕皇后は西太后の姪で、確か浅田次郎「蒼穹の昴」では「色が黒くて馬面」と語られていましたし、瑾妃の方は宦官孫耀庭翁によると、「上半身から下半身までほとんど同じ太さ」のくびれのないドラム缶体型のように語られていまして、二人ともお世辞にも美人とは言いにくかったようです。この二人と比べると、西太后の若かりし頃の方がずっと綺麗だったんじゃないかと思えてきます。

光緒帝の側室には、もう一人お気に入りの珍妃がいましたが、1900年に義和団の乱に加担した清朝が列強八ヶ国軍の攻撃を受けて北京から逃亡する際、西太后の命で哀れにも紫禁城楽寿堂の裏の井戸に落とされ命を喪ったといいます(このへんは浅田次郎「珍妃の井戸」に詳しいです。ずっと「珍妃」を「ちんひ」と読んでいましたが本の表紙では「ちんぴ」とルビがふってあります。どっちなんでしょう?)。「蒼穹の昴」いわば激動期における悲劇のヒロインというわけですが、遺された肖像が下の写真です。


光緒帝の寵愛を受けた珍妃

珍妃の肖像として有名な左の写真(絵?)は可愛げですが、よぉく見るとかなり加筆修正されているようにも思えます。絵葉書になっていた右の写真を見つけましたが、随分印象が違います。なにしろ珍妃は、顔が丸くて「月餅」と仇名された瑾妃の血の繋がった妹なのですから....。

こうしてみると、婉容は清王朝の最期に咲いた稀なる名花だったに違いありません。

清末代皇后婉容

2005-11-12 | 今週の婉容
清末代皇帝・宣統帝溥儀に仕え、1996年に末代太監として世を去った孫耀庭翁の伝記を二種、並行して読んでいます。
凌海成 著、余斌華・李衛東 訳「最後の宦官―溥儀に仕えた波乱の生涯 上・下」河出文庫
賈英華 著、林芳 原著、NHK出版 訳「最後の宦官秘聞―ラストエンペラー溥儀に仕えて」NHK出版
前者は、短編小説集の如く面白いです。創作の部分もあるのではないかと思えます。後者は、孫耀庭翁へのインタビューがもとになっているようで、ドキュメンタリー調です。写真や資料も多くて興味深いのですが、原本からの抄訳のようで、それも複数の訳者が訳しているためか、少し物足りない部分があります。

今回、孫耀庭翁や皇帝愛新覚羅溥儀のほかにも、末代皇后婉容に興味を持ちました。


可愛ぃ